ソ  ジョン ウ
 徐 正禹 氏  講演 「朝鮮人に生まれてよかった」 1993年2月4日

              ソ ジョンウ
今、紹介していただきました徐正禹と申します。実は私、今申しましたように、元々ついている朝鮮人の本名で生活していますけれども、何も生まれてからずっと徐正禹という名前にしたわけじゃないんです。実は僕も多くの仲間、僕たちの仲間がそうであったように、まっ、正直言って朝鮮人に生まれるのはいやだなと思った時代がありました。高校2年の時に初めて自分が朝鮮人であることをクラスで宣言して、その日から本名になったんですね。さて、僕がどのような経過でもって今のような本名で生活し、あるいは差別を無くすような運動をするようになったのかをお話したいと思います。

 ぼくが日本人ではないということをなんとなくわかりかけたきっかけというのは実は幼稚園の時なんですね。僕が通っていた幼稚園というのは、お寺の中に幼稚園があって、幼稚園の最終年度、僕の時はね、花組・星組・月組と言ってね、大きくなってからわかったんだけど、宝塚歌劇団に花組・星組・月組とあるらしい。後から聞いたんだけど。月組、つまり、学校に入る前の年なんだけど、お寺の境内の木の下で昼休みの時間に座っているとね、木の周りを何人かの子たちがぐるぐる回りながら、「チョーセン!チョーセン!」とはやしたってんねん。意味がわからへんねんね。何のことやさっぱり。自分だけは朝鮮という人間で他の子と違うと、なんとなくバカにされてるなということだけはわかった。はっきりわかったのは小学校に入ってから。

 1年生の時にこんなことがあってね。ま、今日は先生方もいらっしゃるけど、あえて正直に申し上げますが、小学校1年生の夏休みが終わって、9月1日の2学期の初めにね、朝礼がありまして、運動場で、終わりかけの頃に先生がこんなことを言った。休みの時に近所の人から通報があってスイカ泥棒したやつがおると、どうもうちの学校の子らしい。誰かやった者、出てこい!ということになった。僕は当然知らんし、「ウン、ウン」とこう見てたらね、「じゃ、これでもう終わる。」と、「朝鮮人は残れ」と。それで、みんなぞろぞろと前に行くわけ。僕はどうしたと思う?怖くてよう前に出へんかった。まして、みんなが見てる前で。クラスのこと一緒に教室に帰るわけやけども、呼び止められるかなと思いながら呼び止められなかってね。おそらく先生にしてみたら、まさか1年生の子がそんなことをするわけないと思ったんでしょうね。上級生の子はみんな前に出て行って、随分どつかれたみたいやね。結局犯人はわからずやけども。それを見てね、ああ、これは朝鮮人というのはやばいぞと。おそらくその日本人の子もそう思ったと思う。「朝鮮人というのは悪いことするやつやねんな。」と。まあ、1年生の初めというのはお互いに何もわからんわけやから、そういうことを学校の先生から教えてもらった。

 一番腹が立ったのは1年生の終わり頃、よく覚えているのはね、教室にストーブがあって、だるまストーブという鉄のこんな大きなね、みんな朝来て、順番に石炭をくべて温めるそういうストーブがあってんけども、そのストーブが今でも脳裏に残っているんだけどね。要するに寒い時だったということを覚えているんだけど。先生が教室に入ってきて、起立、礼というでしょ。ぼくはあの時、体が大きかった方やから、一番後ろやった。ポケットに手を突っ込んでいたわけね。まあまあだらしない格好やね。確かに。先生がトットッとこっちに歩いて来るわけ。全然意味がわからんねん。僕は。で、まさか僕のところに来ると思わへんかってん。いきなりパンパンと3発どつかれて、ゴロンとこけたわけ。それでもまだ意味が分からへんかった。「それが朝鮮人の気をつけかぁ!」ちゅうわけや。つまり、ポケットに手を入れてたことを怒っていたわけや。ああ、そうかと。なんで僕が腹が立ったかと言うたら、男の子がほとんど手を突っ込んでんねん。先生の真ん前に立ている子も手を突っ込んでるねん。わざわざ一番後ろにいてる僕のところに来ていきなりどついて、しかもそれが朝鮮人の気をつけかと。立っとれと。その一日中バケツを持って廊下に立たされた。そんなことがありました。みんなが変な目で見たのを覚えている

 まあ、そんなことだけじゃなくてね、いろんなことがありました。僕のお父さん、お母さんは一世。つまり、朝鮮で生まれ育った人やから、ほとんど朝鮮語なわけ。今でもそうやけどね。だから、食べる物も朝鮮料理ばっかり、家の中では。逆に言えば、ぼくは日本料理はほとんど知らんかった。小学校1年生の頃なんかはね。給食の時間にスプーンあるでしょ。スプーンが配られるね。その時たまたま僕のスプーンがなかってん。「先生、スカラちょうだい。」って言った。スプーンのことを(朝鮮語で)『スカラ』って言う。意味がわからんねんね、みんなは。なんでわからんのかなとこっちもおかしいと思ってるわけ。先生も「何のことや」って言うわけ。「だから、スカラ。」「えっ、何それ?何のことや」っていうわけや。「これこれ」って隣の子のスプーンを指さして。「ああ、これか。あるある。」って。その時ね、みんなが変な目で見たのを覚えてる。それからとにかく自分の中では何が朝鮮語で何が日本語かよくわかられへんかってん。とにかく朝鮮語使ったらいかんと、そのことがずっーとあって隠さなあかんと。みんな日本人やから日本人の前では日本人のような顔をして、朝鮮人であることを隠んとひどい目にあうということ小学校1年の時から自分でわかってんねんね。

 一番ショックだったことはね、僕はけっこう友達付き合いのいい方だったから、友達がたくさんいたし、日本人の友達もね。ショックだったんはね、6年生の時、一番親しかった日本人の子、本当に学校終わってから毎日に遊んでいた。その子とある日ドッヂボールヲしてて、当たったとか、当たってないってあるでしょ。かすった、かすってへんとかね。どっちが投げたほうなのか、当てられたほうなのか覚えてないけれど、かすったかすってへんという話があって、だんだんエキサイトしていって、その今の友達とね。彼のほうが悔し紛れに「朝鮮のくせに」とみんなの前でワッーと言い出したわけや。『あんだけ親しくしてても、これか。』

周りの人間が信じられへんようになった。
 同じようなことが中学1年の時もあってね。僕は田舎の中学校出身なんですけども、ひとつの中学校にだいたい六つぐらいの小学校があって、六つか七つあったかな、分校っていうのもあってね、すると仮に六つ小学校集まってたら、僕の所属してた小学校の同級生は6分の1やわね。単純に言ったら。言い替えたら、僕を朝鮮人やと知っているのは6分の1しかおらんと。小学校の時、みんな知っていたから。ところが、これも1学期入ってまもないころやね。クラスの女の子とつまらんことで言い合いして。その時にその子がね「なんや朝鮮のくせに」というわけや。ぼくはその時ね朝鮮のくせにと言われたことに腹立ったとよりも、その子はよその小学校から来た子やねん。なんで知ってんのかなと。いや、格好悪い話やけどもね。女の子の胸ぐらをつかんでね。「だれに聞いた。」と。「誰に聞いた。言え!」と言ったわけ。その子、びっくりしてね、真っ青になって「いや、誰々から聞いた。」またまたショック。その言った子はドッチボールとは別な子やねんけど、その子もすごく親しくしていた小学校の時の子。あちこち言いふらしている。まあ、一種のゴシップやな。「知ってる?知ってる?実はあいつこうやねん。」ようあるでしょ。そしたら聞くやん。ああ、そうか、友達ってこんなもんやったんかな。その頃からね、僕自身はね、周りの人間が信じられへんっていうのかな、おれ一人やな、ってそういう気持ちを持つようになりました。

日本では生きていけない
 中学校行っても、教師から、ぼくじゃないけど、親戚の子とね、バレーボールの試合を見ててね、放課後に、よその学校とのクラブ対抗でね。その時にぼくら一番前で見ててんけども、その時に体育の先生が「もっと下がれ!」ってやっているわけね。「後ろに下がれ」って。僕の友達−親戚の子を指して、「おい、そのチョーセン」後ろに行け。その子は顔が真っ赤になってね、すぐに真っ青になって、涙をポロポロながしながら、まあ、家に帰ったけどね。もちろん、腹が立って一緒に帰ったけども。そんなことがあって、「ああ、俺たちは日本で生きていけないな」って。
 だから、僕中学の時にね、ぼく、はっきり言って成績悪かってん。1年の時の英語の成績が一番悪かってね。もう、30点とか25点とかね、よう親に怒られたけど、それがね2年生の中頃にね、クラスで一番になったんですよ、英語が。だいたい3年まで一番でなくてもほぼトップクラス。英語がひとつ良くなるとね。ほめられてうれしくなって、今度ほかの教科まで勉強するようになった。なんで英語を勉強したかっていったら、ちょうど近所の人からこんな話を、日本の人ですけどね、カナダって国があるでしょ。カナダが日本からの技術者を移民として受け入れると。そういう話があると。そういう募集の紙を見せてもらって。なんか腕に技術を身につければ、カナダの国に移住できるという話があって、僕はこれやと思って、日本ではあかん、よし、カナダに行こうと思ったわけ。そのために英語を勉強しなあかん。英語を勉強せんと向こうでは言葉が通じひんし。何しろ、高校にも行くかなあかんと。こりゃ、勉強せなあかんと。それから一生懸命勉強をし始めた。要するに日本から出ることを考えてんね。

人が作ったものだからなくすことができる
 そんなぼくやってんけども、なんでこういうふうに変わって来たのかというと、高校1年の時、僕は元々田舎育ちだったんですけども、中学校の3年の6月ごろに大阪の八尾に引っ越して来て、そこがいわゆる被差別部落なん。それは後でわかってんけど。高校1年生の時に地域の高校生の集まりがあって、とにかく来なさいということで、わけもわからんととにかく行ったわけ。その時に部落の青年が話しをしてくれんねん。一番忘れられへんかったことはね、『差別というものは人間が作ったんや。そうやから人間の手でなくすことができる。』ぼくは、これはびっくりしたね。差別というのは宿命やと、人間ちゅうものは元々差別するもんやと。僕は差別されるのはなぜかというたら、それは朝鮮人に生まれたほうが悪かった。運が悪かっただけやと。これはもうどうしよもないもんだと、だから、生んだ親を恨んだこともあった。そうじゃなくて、それは人が作ったものだから、無くすことができる。そんなこと、考えたこともなかった。そこから部落問題も勉強した。地域のいろんな人の話も聞いた。するとその中で思ったのは、この世の中で朝鮮人が一番みじめだと思ってた。朝鮮人というのは一番しんどいものだと。一番惨めなもんだと。わしら損していると思った。だから、なんでこんな朝鮮人に生まれたのやろう?そればっかりほんまに考えてた。ところが、そうじゃなくて、部落の人達の生活を見ていると朝鮮人と変わらんような生活をしている人がたくさんいた、その時に。一瞬この人ら僕たちと同じ同胞かなと思ったこともあった。そうじゃなくて、日本人。しかし、部落差別の結果、しんどい生活をしている。あるいは「障害」者の問題にも出会うようになってきた。それからもっと後のなってから北海道のアイヌの人達の問題も知るようになってきた。すると何もぼくらだけがしんどいんじゃない。しんどい人はたくさんいる。
 特に僕は部落の解放運動に参加するようになる中で、一番うれしかったことはね、それまでぼくは日本人はみんな敵やと思ててん。悲しいことやけど。小学校の時には何かあったらチョーセンと言われて、みじめな思いをしたでしょ。家帰ってね、こう夜寝ながら夢を見るわけ。自分で勝手に想像をするわけ。将来自分が朝鮮に帰ってね。軍人になってね。原爆の10個、20個もって帰ってね。日本中にばらまいたろうとかね。めちゃめちゃのこと考えるね。歴史の時間に広島・長崎に原爆が落とされたと聞いた時、なんで広島、長崎みたいな田舎に落とすねん。東京と大阪に落としゃよかったのに。プロレスのテレビを見ている時でもね、あのころはね、当時ジャイアント馬場とか猪ノ木まだ若かった時で、ジャイアント馬場が時々負ける時があんねん。めったに負けへんけどね。時々負けたり、負けかけたりする時ね、ものすごくうれしいねん。相手は誰でもいいわけ。最近はプロレスといったら日本人同士がやっているでしょ。ぼくらその時、日本人同士のプロレスっていったらあんまり見たことがなかった。必ず片方が日本人組で片方は外国人組で、もう決まっててん。必ず。外国人組がいつも反則をして、悪いことをして、で、最後に日本人組が反則をせんと勝つとだいたいこういうパターンやってん。その時に外国人のほうに勝ってほしいなぁって。つまりね、何かね日本人とかに本に対する恨みつらみみたいなものが出てきててね。日本人みな敵やと。もう1億人おるでしょ。こっちは60万人しかおらへん。もう、絶対少数やと。だから、やっても負ける。だけど敵や。だけど、仕返しをやりたいみたいにね、そんな思いが正直言ってあった。

 考え方を変えていったのは部落の青年とつき合うようになってから 
 でも、そういう考え方を変えていったのは部落の青年たちやあるいは部落の日本人の高校生とつき合うようになって、ぼくよりももっとしんどい子はおってん。あの、経済的にね。そういう中でも差別に負けんとがんばろうと、駅前で石川青年を帰せ!というゼッケンをつけて、やっぱり本人もしんどい。こう、バレたらどうしようという思いを持ちながらも一生懸命ビラまきしている姿を見て、俺は朝鮮人やのに何をしてんのかな。そういう刺激を受けて、むしろ彼らからね、「おまえ、朝鮮人やろ、朝鮮人の差別、めちゃ厳しいやんけ。おまえなんでやらへんねん。一緒にやろうや。」って、そんな子が出てくる。日本人のほうから朝鮮人に向かって、朝鮮人差別なくすために一緒に頑張ろうやって言われたのは、これはなんか考えられへんことやった。でも、そんなことをきっかけにその差別と闘うような運動に入っていくとたくさんの日本人に出会った。つまり、朝鮮人差別を無くそうとするたくさんの日本人に出会った。時には僕なんか今日しんどいからもう帰るわってみんな帰ろうやって言うたら、その日本人の何人かが「ほなら、帰っといて、ぼくら後片づけやから最後の仕事やっとくから、そんなことも度々あった。」ほな朝鮮人の僕らが朝鮮人問題の運動をやってるのに、朝鮮人の僕がしんどいから先に帰って、日本人が後残ってがんばってる。こんなん格好悪いやんねん。立場がないっていうか、そんな人にどんどん出会っていく中で、あっ、日本人と朝鮮人は敵とは違うねんな。日本人の中でも分かる人はたくさんいてるし、話し込んでいったらもっともっとわかる人が増えてくる。そうするとこっちは少数、向こうは多数。絶対勝たれへんと、60万対1億やったら勝たれへんと思ててんけど、そうやなくて僕らの理解者、つまり僕らの味方が日本人の中にどんどん増えることがあると、するといつの間にかこちら側が多数になることもある。そんなふうにだんだん考え方が変わってきた。だから、僕はこういうふうな運動をやってきて本当に良かったなと。
 ただね、そういうふうになるに至っては、いろんな僕も経験があるんです。小学校の時のドッヂボールの話もさっきしました。中学校1年の時になんでばらしたんやって。女の子の胸ぐらつかんだというみっともない話もありましたけれども、でも、なかなか日本人にわかってもらえへんなと感じたことが何度かあって、これは中学校の時でしたけどね、ものすごく親しい友達がいてね、その子に朝鮮人であることを隠すのがものすごくつらかってん。こいつやったら言うてもわかってくれるんちがうかなって、朝鮮人ということが分かっても自分から逃げない、そういうものすごく確信があったから、ちょっと話があるねん。学校帰りにちょっと時間を取ってもらって、「実はな」、「実はな」から「俺、朝鮮人」って言うまでだいたい30秒位かかるねんけど、「なんや。はよ言えや。」って。「言う。言う。今言う。ちょっと、待てや。俺、朝鮮人や。」でそれだけ言った。ほんならその子がすぐにこう言うたわけや。「ええやんけ、ええやんけ。そんなん言うなや。俺は気にせえへん。第1おまえ、どう見たって朝鮮人に見えへんで。絶対おまえ日本人やで。」「いや、ちゃうねん。俺、ほんまに朝鮮人やねん。」「いや、俺はそう思わへん。そんなふうに見えへん。だって、おまえええやっちゃもん。」ほんなら朝鮮人のことどう思ってたんやろね、今まで。「ああ、こいつもわかってくれへんねんなぁ。」と思たなぁ。「気にせえへんがな。今までどおりつき合うがな。おまえ日本人やんけ。」つまり、日本人としてのおまえとつき合おうやないかと。気にせえへん、気にせえへんって言うけどね、気にしているわけ。気にせざるをえないようないろんな差別も受けているわけ。その痛みとか、苦しみをね、なんぼかでもわかってくれるかと思って話をしてんけど、はなからもうええやんけ、そんなこと言うなや。おれ、気にしてへんからええがな。おそらくね、今から思ったら、その友達は僕のことを気を使って、言うたんやと思うねん。悪気はなかったと思う。確かに。でも、僕にすれば、思いが伝わってへんな、同じように友達としてやってきているけれども、友達同士やって言っているけれども、やっぱり朝鮮人のことを何も知らんねんな、朝鮮人のことを知らんということは僕のことも分かってないねんなというふうに思った。

関心がないから覚えてない

 考えて見ればね、同じようにクラスで友達として何年間も一緒に遊んでいて暮らしていても、わかりあえないところってあると思う。例えば、ぼくら小学校の時に、学校の廊下にこういうポスターがはってあった。「健康優良児コンクール」って。まあ、体が丈夫で、勉強もある程度できて、そういう子がなんか大会に出てね、いろいろ賞をもらえるみたいよ。でも、それは今はない。ほな、「障害」者はどないすんねん?健康やったら優良なんか?ってことになるでしょ。だから、今は大会はない。なくていいねんけども、そんな頃僕はそんな考え方が分からなかったから、何がショックやったかというとあのコンクールの大きなポスターの下にね、『資格』−どんな人が参加できるかって、「日本国民であること」って書いてある。僕はこの年になって、時々同じような年代の人に、小学校の時にそんなポスターがあったでしょ。だいたいみなさん「はあはあ」と言うねん。僕は大人の人の前でこういう講演会するからね。だいたい同じような年代の人やったら「ありました。ありました。」って。「でも、あの中に日本国民であることという但し書きがあったことをみなさん覚えてますか?」と言うと、皆フゥーンとこうなるねんな。なんで僕が知って、みんなが知らんのか。同じポスター見てるんですよ。答は簡単やねん。自分のことと違うからや。他人のことや。人のことやから関係ない。だから、見てると思う「日本国   民云々」というのは、ちらっと見てると思うけど、関心がないから覚えてない。ぼくらは「あっ、また、ここで排除さている。ああ、ぼくらあかんねんな。」ってショックやったから、いつまでも覚えている。忘れない。
  二十歳の成人式の時も、ぼくらの時は、残念ながら市役所の主催する成人式に招待されなかった。あの頃、朝鮮人は出てはいけないと言われていた。で、あの時にぼくらの年代の人にいつも聞くねんね。成人式みんな行ったでしょ。まぁ、何十年か前に行った。その時に、中学校時代の朝鮮人の友達に会いましたかと言うと、そういえば会ってないなあ。でも、なんでかわからんわね。来れなかったんですよ。
 最近こんなことありますよ。去年の話ですけどね、今僕らはこれでもめかけているんだけど、みなさん家に帰ったら、「ネスカフェ」というコーヒーをおいているでしょ。「ネスカフェ」を作っている「ネッスル」という会社がね、去年大きく広告だしてんけどね。『ヨーロッパ感動大賞』というクイズに答えて、ヨーロッパに行こうという懸賞をやったわけね。クイズは簡単なクイズやね。要するに○○においしいコーヒーの名前を書きなさい。「ネスカフェ」と書けばいいわけですわ。それだけのしょうむないクイズやけども、イギリス旅行とか、ヨーロッパ旅行とかあるわけやね。実は僕のところに連絡があって、その公募の中に資格−応募資格に「日本国籍を有すること。」「ネスカフェ」を飲んで、ヨーロッパに行くことと国籍と何の関係もないわな。それは在日の若い人が自分もヨーロッパへ行ってみたいなと思って、おそらくはがきに書こうと思ったんやね。ぱっと見たら「あっ」と、そして、連絡があって、「ネスカフェ」の会社と今話し合いをしている途中なんですね。けど、多くの日本人は応募した人でも「日本国籍を有すること」って書いているけど、気がつかないと思う。自分のことじゃないから。それともうひとつはね、自分の友達の朝鮮人と「日本国籍有する」どうのこうのと結びつかんのやね。全然関係のないことやと思うわけね。
 そういう意味では同じように友達って言っても、友達同士のつき合いをしてても、本当に相手のことがわかってるかどうか、立たされいる立場が分かっているかどうか、わからずして、「友達や、友達や」と言うてても、時には日本人の側から悪気がなくて言ってたことが、相手にとってものすごくつらいこと、時には差別的に思われることになるかもわからんわな。

『沈黙は共犯』
 それとね、友情ということで言ったら「ぼくは差別せえへん。」「私は差別せえへん。」「したこともない」と思っている人がほとんどやと思う。この中でも。でもね、「差別は絶対これから私はしません。」というのは実は簡単に言えることじゃないねん。簡単に言えない。例えば皆さんがよ、朝鮮人の子と一緒にね、まあ二人でね、どこか遊びに行ったとするでしょ。その時に何人かの悪ガキに取り囲まれて、たまたま一緒にいてた友達が朝鮮人のことを知ってた。向こうがね。「おまえ、チョーセンか。」といじめたとするやんか。どうする?・・・・・・・ 終わった後、「しんどかったな。でも、がんばろな。」と言っても遅いよ。いじめられている朝鮮人の側にすれば、一番その時気になるのは、いじめている日本人の子よりも、一緒に友達として遊びに来たあなたがたの方を見ますよ。どうするんかなって。いじめられている時は黙って見てて、下を向いてて、終わってから、「気を大きく持ってがんばろな。」って言ってもうれしくないですよ。本当に差別をしないということは目の前で差別があったら、立ち向かうこと。時には朝鮮人に対する差別を「あかん」と言うことによって、自分も周りの友達から浮くことがあるかもわからん。そのことも踏まえて、あえてそこまでやるかどうか。『沈黙は共犯』って難しい言葉やけどね、「おれは何もしてない。ただ、その時は黙ってただけや。」それではすまされない。結果的には同じ日本人として差別したことになるねんもん。だから、差別をしないということは差別と闘うってこと。自分も犠牲になるっていうこと。さぁ、それができるかなっていうこと。差別をしないと言うのは簡単なことではない。まして、朝鮮の子供たちとの友情を保つということはそう簡単なことではないということなんですね。僕もそういう経験がありました。

朝鮮人に生まれてよかった

 僕はね、朝鮮人に生まれてよかったなあと思うようになったことがあるんです。朝鮮人に生まれてよかったと。何が得なんかって言われたら、物理的に得なことはないねんけども、良かったなと思うようになったのはおそらく、高校2年か3年生くらい、もっと後、大学に入ったくらい。それはね、朝鮮人の歴史を知った時。どういう歴史かというと、確かに朝鮮半島は今でも南北に別れて、国が別れてね、分断されている。これは非常に残念ことや。しかし、長い歴史を見ているとそれこそ何百回、何千回となく、外国からね、侵略されたり、攻めてこられたりすわけ。しかし、それでも朝鮮の国、朝鮮民族はずっーと何千年も生きてきてるねん。言い換えたら、何百回、何千回も攻められたけども、何百回、何千回と闘いながらね、負けずにがんばってきた。そういう歴史をもっている。簡単にへこたれる民族ではないということ。そのことを知った時に、「なんだー、僕は日ごろ差別を受けて苦しいことはあるけれども、しかし、もっともっとしんどい中でも僕たち朝鮮民族はがんばってきたんだなあ。」僕が持っている誇りというのは実はそこなんです。
 もう一つあります。差別を受けることは決してうれしいことじゃない。つらいこと。でも、そういう経験をしてきたから、人間の世の中っていうのを表だけじゃなくってね、裏側から、あるいは上だけじゃなくて、下の部分。美しいところだけじゃなくて、醜い部分。そんなところも見てきました。学校の先生が差別するねんもんねぇ。ひどい話やな。黒板の上とかよくあるでしょ。『友情』とか『平和』とか額縁に入れて書いてるやつがあるでしょ。なかったかな?みなさんの教室には。僕が小学校の時にはあったんですよ。『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』とかね。『自由・平等・平和』とかね。そんなん見てるとね、そんなんウソやんかと、子供時分に思った。こんなん言うているだけで、中身が違うやん。そういう意味ではね、あの時はひねくれた。ひねくれたけども、しかし、一方で本当に差別される、仲間はずれされた時の人間のさびしさとか悲しさとはどんなものなんかね、それが一番よくわかった。人間というのはええ格好だけじゃないんだ。実際何をするかが、問題だ。そのことも体で覚えてきた。だから、部落の人たちや「障害」者の人たちやアイヌの人たちやあるいはそうではない「一般」の人たちの中でもいじめられる子もいれば、貧乏人の子もおるし、お父さん、お母さんがいてない子もいてる。そんな友達たちのしんどさとか、悲しみが自分のことのようによくわかる。つまり、「愛」というものね、なんかかっこいい言葉やけど、「人間愛」って言うんかな。人の喜びとか悲しみとか、そういうものが本当によくわかるようになってきた。だから、朝鮮人に生まれてよかったなっていうのは、もう一つはそういう優しい感覚っていうのか、豊かな感性。そういうものを持つことができたということが、一番すばらしいことやと思う。だから、今は朝鮮人に生まれて本当に良かったと思っているんです。

言われる側はとてもつらい
 最後にみなさんにお願いをしたいことがあります。それはね、差別というのはする方にとってみればね、まあ、痛くもかゆくもないし。それからほとんどの場合、悪気はない。悪気があってやったわけじゃないねんね。朝鮮人の言い方を文字ってね、言ってみたりとか。言葉のあやでね、おもしろおかしく言ってみたりとか、決してそんなに悪い気持ちがあったわけじゃない。言う側はね。そういうことって多いと思う。でも、朝鮮人の側の心の傷というのはね、ものすごく痛い。指紋押捺問題っていうのはみなさん知らないかもしれない。在日外国人は生まれて16才になると、指紋押捺をしなきゃならんという法律がある。今年からちょっと変わりましたけどね、ぼくも16才の時押しました。そのことでね、指紋を押すのはいやだという、押さなかった人がたくさん出てきた。8年くらい前にそういう人たちは指紋を押さなかっただけで逮捕された人もたくさんいる。裁判になる。ある裁判でね、こういう証言がありました。ある大学の日本人の先生がね、裁判長に向かってこう言ったんです。「裁判長!日本人はね、指紋を押しても痛くもかゆくもないでしょ。抵抗なく押す人が多いでしょ。なぜ、朝鮮人の人たちは指紋を押すことをいやがり、時にはそのことによって嘆き悲しむかわかりますか。」その例え話をしたんですね。「目の前に二人の子どもを立たせてね。手を広げてみなさい。そこに塩をひと盛りずつ置いた。ひとりは朝鮮人の子。ひとりは日本人の子。握ってみなさい。日本人の子は何ともない。塩を握っただけでは痛くもかゆくもないからね。朝鮮の子は下を向いてね、涙を流して泣いているわけ。なぜだかわかりますか。手を開いてよく見るとね、朝鮮人の子の手には生傷がいっぱいあった。だから、塩を盛られたら手を切っててね、まだ血が出ているところに塩をつけたら痛いわな。その傷というのは差別を受けてきた心の傷なんですよ。しかし、それを見て、握っている二人を見てね、ひとりの日本人の子が何ともないのに、朝鮮人の子がわんわん泣いていると。なぜ、泣いてるねん。何を勝手に泣いてるねん。痛くも何ともないのに。」つまり、これが日本人と朝鮮人の感覚の違い、溝というか。差別の深刻さの違い。「チョーセンジン言われても気にせえへんかったらええやんけ。気にする方が負けや。」確かにそうや。気にしたら負けやねん。しかし、気にしてしまうの。それほど差別される側の心の痛みというのは言葉では言い表せない。時にはそのことによって命を絶つ人もいる。だから、これから考えて欲しい。つまらんことかも知れない。ちょっとした言葉のあやかもしれない。差別発言した、あるいはそういうこともあるかもしれない。でも、ちょっと言っただけやんけ。言う側はちょっと言っただけかもしれない。しかし、言われる側はとてもつらい思いをする。そのことをね、ぜひ忘れずにね。これからも人権の問題っていうのをもっと厳しいものとして、大事なこととして考えて欲しいなあと、最後にみなさんにお願いしたいことです。以上で終わります。