ポーランド旅行記
私とアウシュヴィッツ
東欧見聞録 8
アウシュヴィッツ 1

私とアウシュヴィッツとの出会いは、「アンネの日記」が初めてだろう。中学時代に国語で習い、自らも一冊の本を手にして読んだように思う。その頃、テレビで映画(ミリー・パーキンス主演、1959年米)も見た。だが、もっとも強烈な出会いは、大学の1回生の時に、友人のAから見せられた「Der
gelbe Stern―黄色い星」(自由都市社)という写真集だった。見た後に吐き気をもよおしたのを覚えている。それほどの衝撃だった。
この写真集では、ナチスの非道な所業の数々が描かれているとともに、無数の死者の叫びが聞こえてくるのである。街角の落書き、屈辱的なプラカードを身につけさせられた人々とそれをいたぶるナチス、アーリア人専用の公園のベンチ、黄色い星を胸につけさせられ収容所へ連行される人々、ゲットーで飢える人々と貧困、大きな「墓穴」の前での処刑、身包みをはがされ処刑を待つ女性、そしてアウシュヴィッツでは、奪われた大量の品々、ガス室、人体実験、醜く微笑む女看守たち、骨と皮だけになった死体など数えあげれば切りがない地獄絵がそこにはあった。人間がどこまで非人間的になれるかということを最大限追求したのが、ヒトラーをはじめとしたナチスの姿である。この写真集を見ていると、人間の醜さと差別の塊に出会ったような気になるのである。
教師になってから出会った本として、「夜と霧」(フランクル著、みすず書房)がある。アウシュヴィッツにいた人間の心理が克明に描かれているため、自分自身がそこにいたら、と考えながら読んだ記憶がある。ナチスの醜さとは異質の、極限状況における人間の姿がそこにはあった。いかにして生き延びるかという人間の本能と、いかにして人間らしく死ぬかという狭間での葛藤が描かれている。
他に出会った作品としては、「思い出のアンネ・フランク」(ミープ・ヒース著)「あのころはフリードリヒがいた」(ハンス・ペーター・リヒター著)がある。両著とも引き込まれる作品であった。「あのころはフリードリヒがいた」については、投げ入れ教材として国語の授業で教材化した。生徒自身が、熱心に読み込んでいたのが、印象的だった。
さて、今回の旅行で、自分のこれまでの認識を大きく改めさせられたことが3つある。以下列挙する。
1.アウシュヴィッツ=ユダヤ人の虐殺だと思っていたこと。
虐殺されたユダヤ人の数は膨大であるが、ナチス戦争犯罪基礎委員会やアウシュヴィッツの専門研究家によると、約40%がユダヤ人、約40%がポーランド人、残りの20%がヨーロッパから連れてこられた28カ国の人々であるということ。これらの戦略的背景になったのが、ナチス親衛隊の司令官ハインリッヒ・ヒムラーのもとで策定された「東方総合計画」と呼ばれるものである。その柱は、@シベリアを含む東方領土およびアフリカに至る地域の植民地化 Aユダヤ人とスラブ民族の絶滅政策 B多民族の強制移住計画と奴隷低労働力の集約と支配、であった。これらは、ポーランドをドイツの第三帝国の植民地にするだけでなく、ポーランド民族を30年の間に地球上から消してしまうことであった。
2.アウシュヴィッツはドイツ語で、ポーランド語では「オシフィエンチウム・ブジェジンカ収容所」であったこと。
アウシュヴィッツ収容所は、第1から第3まであって、上の写真の、列車を引き込むことができる、煉瓦造りの監視塔(通称:死の門)のある方は、「ビルケナウ(ブジェジンカ=村の名前)収容所(アウシュヴィッツU)」と呼ばれている、これが第2の収容所で最も大きい。
「ARBEIT MACHT FREI」の門のある方はやや小さく、第1収容所の「オシフェンチウム(アウシュヴィッツT)」である。どれもいっしょで一つの収容所だと思っていたが、そうではなく、3つに分かれていたのだった。しかも、現地ではドイツ語の地名である「アウシュヴィツ」とは呼んでいなかった。当然のごとくポーランド語で呼んでいるのである。3つ目の収容所は、これらからかなり離れているらしい。これらの場所で約400万人が虐殺されたのだった。
3.120cmの高さにある横棒が子どもの生死を分けた。
ビルケナウ収容所に到着した人々は、待ち受けていたSSと医師団によって選別される。労働に耐えられると判断されたものは左の方向にある収容所に収監され、右を指された人たち、つまり、お年寄り、病人、身体障害者、幼児を抱いた母親、妊婦、小さな子どもたちは「生きる価値のない者」としてそのままガス室に直行させられる。小さな子どもたちは、120cmの棒の下を通過すると右(ガス室)を指される。そのことを知った子どもたちは、懸命に首を伸ばしていた。120cmが命の分かれ目だった。