チェコ(プラハ)旅行記
澱んでいたモルダウの流れ

プラハ(チェコスロバキア)
東欧見聞録 14
<トイレに要注意>
国際駅に着いて旅行者がまずすることは、何かわかるだろうか。そう、両替。この旅行は、5カ国だから5回両替をしなくてはらない。西ヨーロッパでは、円で両替が可能だが、ここではドルしか使えない。そのドルを狙って闇両替が東ヨーロッパでは横行していた。当時東ヨーロッパではどこの国でも、貨幣価値が安定していなっかたので、みんなドルを欲しがった。私にもひとりが声をかけてきた。もちろん断ったが・・・・・・・。この両替をする前にトイレに行きたくなることは、禁物だ。東西を問わずヨーロッパでは、トイレは有料で、トイレの入り口は、料金をとる人が待ち構えている。このプラハがそうだったと思う。しかたなく、がまんした。
<大学の寮に泊る>
われわれが宿泊したのは、学生たちが夏休みに帰省やバカンスに行って、空になった学生寮だった。小奇麗な感じで、学生の残していったものは何一つ残っていなかった。なんら普通の安ホテルと変わらなかった。宿代は確か780円くらいだったろうか。ちょっと自信がない。 この学生寮での一番の思い出は、U委員長の乱入「事件」だ。着替え中の、うちの嫁さんをしっかりと見ていった。いくら仲人でもこれはちょっとね・・・・・・・。
<モルダウの流れ>
プラハの観光の名所と言えば、やはりプラハ城であろう。上の写真左に見えるのが、それである。プラハ城に行くには、必ずモルダウ(ブルタバ)川を渡らなければならない。カレル橋のたもとから眺めると何やら汚い泡があちこちに見て取れた。「モルダウの流れ」とはイメージがはるかにかけ離れていた。小学校から、この曲に親しんできたが、何やらがっかりした。スメタナの時代とはまったく違うということだろう。
バーツラフ広場
<プラハの春から22年>
バーツラフ広場は、 1968年に「プラハの春」で市民が蜂起した所である。「プラハの春」について、私は、歴史の教科書で高校時代に知ったぐらいであまりよくわかっていなかった。当時、この大きなメインストリートにソ連の戦車が入ってきた。学生パラフ・ヤンがソ連軍の駐留に抗議して、1969年1月16日に焼身自殺を行なって、チェコスロバキア中を震憾させた。
この広場のバーツラフ像の近くの一角にある、円形の花壇には、いつもは花が植えてあるはずなのに、この時は花は全くなく、代わりにそこで当時犠牲になった人達の写真がたくさん立てかけてあった。「プラハの春」で、ソ連の戦車によって殺されたり、焼身自殺したり、抵抗でひどい目にあった人々が、1989年の市民革命によってよみがえり、そこに写真が置かれて、市民が供養しているのである。