大和歴代天皇陵墓
26代 継体天皇 男大迹天皇(おほどのすめらみこと)
袁本杼命(をほどののみこと)
継体天皇三島藍野陵
(太田茶臼山古墳)
継体天皇は応神天皇五代の孫、越前三国の
出身と伝えられています。
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近くに今城塚古墳と呼ばれる、一回り大きな、
二重堀を持つ巨大な陵墓があります。
現在では今城塚古墳こそ継体天皇の実際の
陵墓であると信じられています。
継体天皇陵墓・今城塚古墳
継体天皇皇后 手白香皇女
では、この陵墓に眠るのは誰か、その説明は諸説あり、定かではありません。
山辺の道への招待
ヤマノベノミチマガリノオカノ ウエノミササギ
崇神天皇陵 山辺の道勾の岡の上の陵(行燈山古墳)
ヤマノベノミチノウエノミササギ
景行天皇陵 山辺の道の上の陵(渋谷山古墳)
ヤマトトトヒモモソヒメノミコト
孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命の陵 大市墓(箸墓古墳)=卑弥呼の墓?
継体天皇陵墓入り口
陵墓は茨木市太田町3丁目の西国街道沿いの
目立たない所にあり、休日でも訪ねる人は少なく、
ひっそりとしています。
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入り口には何れの陵墓にも同じ事が書かれています。
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訪れる人も少ない参道は常に清掃されていて、
宮内庁の管理下に無い今城塚古墳との差を
今更ながら感じさせます。
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それは恰も田舎者の貧しい彼が入り婿状態で
しかも、この陵墓が皇后の祖父(仁徳天皇系)のもの
であったとすれば彼は今頃苦笑しているでしょう。
しかし、今城塚の方が遙かに市民に親しまれています。
畝傍山の天皇
神武天皇陵 畝傍山東北陵 ウネビヤマノウシトラノスミノミササギ
綏靖天皇陵 桃花鳥田丘上陵 ツギダノオカノウエノミササギ
安寧天皇陵 畝傍山西南御陰井上陵 ウネビヤマノヒツジノサルノミホドノイノウエノミササギ
懿徳天皇陵 畝傍山南纖沙溪上陵 ウネビヤマノミナミノマナゴノタニノエノミササギ
品太天皇の五世の孫 袁本杼命を近つ淡海国より
上りまさしめて手白髪命に合わせて
天の下を授け奉りき 古事記
男大迹天皇 譽田天皇の五世の孫 彦主人王の子なり
臣連等を遣わして三国に迎え奉る
貴賤を論ふこと勿れ・・・
手白香皇女を立てて 納して皇后とし・・日本書紀
おそらく嬶天下であったと思われます
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古事記では三島藍野陵、日本書紀では藍御陵と
記されていて、延喜式では三島藍野陵は嶋上郡に
あると記されています。
所が、この御陵に隣接する太田神社は嶋下郡に
あると記されていていますので、この地も嶋下郡
ではないかと思われています。
更に、この堀をさらえた時、出土した土器や周辺
から出土した土器の大半が継体天皇の時代より更
に1世紀ほど古い五世紀頃のものと言われています。
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この辺の地形は、なだらかな方で、この陵墓の
堀は一重ですが、継ぎ目がありません。
全長226m、幅138mの墳墓の周囲を幅
30mの堀を巡らせているのですが、これだけ
巨大な土地で水平を保つ当時の測量の技術は大した
ものと思います。
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お堀は日頃水鳥の楽園であるが、この日の堀は
干されていて、歩いて渡れるかも知れませんが、
畏れ多い事で・・
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千数百年の間、誰も其処を侵さない、
誰もが其処を守って来た、
陵は静かに眠っていました。
堀の中の出土品や周辺の発掘では、継体天皇の時代
よりも100年程度前の世代と言われています。
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この日のお堀に水は、まだ半分も満たされて
いなかったのですが、やはり水のあるお堀が美しい。
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陵墓の前方部分と後円部の繋ぎ目部分に、耳の様な
張り出し部分があります。
先日、今城塚古墳でこの部分の発掘調査の見学会が
ありましたが、ここは被葬者の生前の業績を称える
展示舞台であった様です。
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堀のある陵墓で、よく見かける大きな水鳥ですが、
鷺の種類以外名前は解りません。
白鳥とはこの鳥の事ではなかったかと思います。
太田神社
この陵墓に隣接する太田神社が嶋下郡であるとすれば
多少ずれてくる事になり、やはり今城塚古墳の方が
継体天皇の御陵として合理的かも知れません。
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