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ジェンダーフリー

ジェンダー、ジェンダーフリーについて
(06年3月1日)
                                イダヒロユキ
ジェンダー、ジェンダーフリーについて簡単にまとめました。
私のまったく個人的見解です。
ア、イ、ウの3つの文章からなっています。

詳しくは、拙著『続・はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006年3月末出版)
および
日本女性学会・ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシングの論点』(明石書店、2006年5月出版)
をみていただけたらと思います。

☆  ☆  ☆  
ア: ジェンダー概念の整理

ジェンダーフリー・バッシングが横行しています。あまりにも低レベルの議論が多いので、再度ここで、「ジェンダー」にまつわる概念の整理をしておきたいと思います。
私は、「ジェンダー」概念には、いくつか異なった意味があり、そのどれもを含んだ多層的な概念だと考えています。前著でも本書でも、そうした立場で書いています。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  

「ジェンダー」の意味の4つの水準

1:単なる性別としてのジェンダー

2:社会的性別・性質としてのジェンダー

3:規範および参照枠組みとしてのジェンダー

4:「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」ということ、および「そうした性に関わる差別・支配関係を解消することを目指すもの」という意味でのジェンダー


☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 
  

1:単なる性別としてのジェンダー
ひとつは、単純に「性別、性差」を示す意味です。浅い意味で、単純に「男女」というところを「ジェンダー」という場合がこれにあたります。単なる男女別統計のことをジェンダー統計といったり、「操縦者のジェンダーを問わないハイテク兵器」といったり、男女平等をジェンダー平等というときの浅い意味は、このレベルです。
しかし、日本語で話す時に、こうした「単なる男女・性別」ということをいうために、わざわざ新しい単語としての「ジェンダー」を使う必要はないといえます。たとえば男女別名簿をいちいちジェンダー別名簿という必要はないでしょう。ですから、この「1」の意味でジェンダーといっても間違いではありませんが、あまりこの意味では使わないほうが、無用な混乱が減ると思います

2:社会的性別・性質としてのジェンダー
ジェンダーの2つめの意味は、「社会的・文化的に形成された性別・性差」「社会的文化的に構築された男や女の性質」というものです。生物学的な性(セックス)と区別した範囲での、文化として身についたその人の性に関する意識や行動のあり方という意味ともいえます。「自分は女である/男である。だから・・・と振舞う」といった性区分上の主観的自覚(性自認)、アイデンティティ、性役割意識、性的な言動などは、生物学的にのみ規定されるのでなく、出生後の社会・文化環境にも大きく影響を受けると考えられています。日々、主に既存の性のあり方をベースに呼びかけられたり、扱われたり、教えられたりする中で、人は社会的な性を内面化し自分のアイデンティティにしていくのです。それを示すために、生物学的性差(セックス)に対比してできた概念の、まず最初のレベルの定義が、この「2」のレベルの「ジェンダー」です。
この、「単なる、社会的性別」という意味でのジェンダーの「2」の定義は、まだ権力・支配関係、差別や人権侵害とは切り離された、抽象的で、価値中立的なレベルでの概念です。人の性は、社会的に作られるという面をさしているだけです。多数派があるジェンダー・イメージを持っているがゆえにそれが圧力となっていくという「3」のレベルをまだ含んでいない段階の定義です。
時代や文化によっても、個別家庭、年齢、職業、などにおいても、このレベルの「ジェンダー」は異なっているとみることができます。

この「2」の定義において「性に関する意識や行動のあり方」の側面で理解して、「2つでだけではないジェンダー」「多様なジェンダーがある」「多様なジェンダーを認めよう」「望ましいジェンダーをつくっていこう」というような使い方をする場合もあります。つまり、男女の2種類だけでなく、トランスジェンダー、同性愛、自分の性アイデンティティが男女2分法に収まらない人(性自認が従来の分類枠内に入らない人)など、性のあり方をグラデュエーションとみるということも、この「2」のレベルでいうことができます。ですから性自認のことをジェンダー・アイデンティティというのです。ただ、この「2」のレベルでは、そうした性的マイノリティへの差別をなくしていこうという意味や男女2分法というジェンダー秩序への根源的疑義を感受するということまでは含んでいないとみることができます。
「ジェンダー概念は、それ自体に、良い、悪いの価値観を含むものではなく、中立的な概念である」とする政府の見解(男女共同参画基本計画に関する専門調査会「社会的・文化的に形成された性別」(ジェンダー)の表現等についての整理:2005年10月31日)もこの「2」のレベルの定義を基本としているようです。

3:規範および参照枠組みとしてのジェンダー
ジェンダーの3つめの意味は、「男/女はこうであるべきだという規範」および「男女への社会的期待や処遇が差異化される参照・準拠枠組み」ということです。
社会的につくられた「ジェンダー」というものは、多くの社会ではある一つ(ひとかたまり)の「女/男らしさ」が主流となっていき、それは必然的に、規範や参照枠組みとなっていきます。
規範とは、「社会においてどうあるべき」といった価値判断のことです。「社会の多数派がもっている、男女の違いに関する知識、伝統的な性区分、性役割のイメージ」、いわゆる「女らしさ/男らしさ」としてのジェンダーであり、固定観念として捉えている男女の特性という意味でのジェンダーであり(固定観念だということは、そのことを少し批判的に見ているということを含意しています)、「女らしさ/男らしさ」にあわせて生きるべきだ、それが当然・自然だという規範力を持ったものとしてのジェンダーです。
 またいったん確立した多数派の持っている「女らしさ/男らしさ」によって、男女への社会的期待や処遇が差異化されるということがあります。そうした男女異なる処遇や期待をもたらす「参照・準拠枠組み」というものがジェンダーなのです。

そのときのジェンダーの内容としては、男性の場合、「知性と行動力と支配」が、女性の場合、「美と従順とケア」が中心となっています。
ここでの意味は、客観的に観察される、「男女の差異的処遇」や「差異ある期待」や「それに基づいて形成された差異ある『女らしさ』『男らしさ』」にたいし、「それでいいのだ、そうすべき」とする社会的な圧力があるという点に焦点を合わせた定義水準、また「疑わずに、暗黙の前提とする」力を持っている点に焦点を合わせた定義水準だといえます。

その社会の多数派・主流秩序は、多くの人々に、多数派の性のあり方、考え方が正しい、当然だという圧力をかけており、多くの者はそれを内面化しています。規範から外れたものは、社会からも自分自身からもストレスを受け、性的マイノリティは例外扱いされてしまうわけです。そうした情況を浮き彫りにする概念としてのジェンダーが、「3」のレベルです。

以上の「2」と「3」の定義には重なりあうところがあります。現実には、「2」のレベルで個人が社会から性のあり方を学んでいく、影響を受けていくことの前提に、一定の社会的な「規範や参照枠組み」があるからです。個人は社会から刷り込まれ、そうして形成されたものが多数派となってまた、他の人々に影響を与えていくといった相互作用の中でジェンダーというものは形成・存続・変化していくのです。

4:性に関わる差別・権力関係の解消を目指す意味でのジェンダー
ジェンダーの4つめの意味は、「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」ということ、および「そうした性に関わる差別・支配関係を解消することを目指すもの」というものです。この「4」の意味の「ジェンダー」は、「1」「2」のレベルの「単なる男女の差異」ではなく、社会的性別の存在に気づくと同時に、それが変化するもの(変化してきているもの)であることを見抜き、上記の「3」の規範の面を批判的に受け止め、それが社会的差別につながっており、性別・性差の多くの部分において本質的に上下関係・優劣関係・支配/被支配関係を含んでいるとみて、またその結果排除的影響・差別的影響をもたらすとみて、それは変更していくことができるし、また変更していくべきであり、真の多様性を確立していくために、ジェンダーの囚われから自由になっていくべきだというニュアンスまで含んだ水準の定義です。
「ジェンダー」を「性に関わる差別・支配関係」ととらえるだけだと、「ジェンダーの視点」の説明項で述べるように、「ジェンダーの視点」の意味するものが、「差別・支配関係の視点」となって、性差別をなくしていくという目標の側面が不明確になるので、ここにおいて、「ジェンダー概念には、性差別をなくすことの意味もある」としています。

たとえば、DV加害者となった男性の多くは、「家庭では男性が優位であるべきだ。意見の違いに対処するためには時には暴力も有効な手段だ」とおもっています。自分が男性であるというアイデンティティのあり方(ジェンダー)に、支配的/暴力的なものが入っているのです。このように、この「4」の定義は、性役割における主従意識(ジェンダー)が、暴力を生み出す土壌になっているとみて、ジェンダー自体を変革していこうとする水準のものなのです。

 さらにこの「4」の意味でのジェンダー概念には、ジェンダー研究、クイア研究、性科学などの成果を受けて、男女2分法・異性愛中心主義の規範性及び抑圧性を批判的に見ていく視点が含まれています。その意味で、もっとも深い意味でのジェンダー概念理解といえます。
生物学的に決定されていると見える「女らしさ」「男らしさ」、性役割意識、性的な言動も、決して「自然で唯一かつ不変的なもの」ではなく、したがって、「男/女らしく」といった規範や性役割分業も絶対普遍の必然性はなく、変革が可能であるとみる水準です。
男性らしさの良いところ/悪いところは女性ももてるし、女性らしさのよいところ/悪いところは男性ももてる。良いところを両方が持てるようにし、悪いところは両方が待たないようにすることで、男女平等が達成されていく、その意味での「女/男らしさの解体」である(もはや、「強さ」という特性は、「男らしさ」ではないから)という意味がここにはあります。
しかも、とりあえず分けてみた「セックスとジェンダー」の区分も、実は境界が曖昧であり、セックスといえどもその中にはインターセクシャルの人がいることに表れているように、男女2区分が絶対的に存在しているとはいえないこと、セックスの判定にもジェンダーが影響していること、トランスジェンダーや同性愛などへの理解が深まる中で、セックス、ジェンダー、セクシュアリティをトータルにとらえる必要があり、性に関わる意識やアイデンティティや言動の中には可変性や多層性があり、セックス(生物学的性差)やジェンダーだけを個別に取り出して固定的にみることには問題が多いことなどを踏まえた水準の概念です。
また、さまざまな違いもさまざまな同質性もある多様な人間を、男性と女性というある特殊な線引きで二つのグループに分割(差異化)し、それぞれをジェンダー化し、規範性や優劣/支配関係を植えつけていく政治的な営みというものがあり、その全体を「ジェンダーの構造」と見る水準のとらえかたでもあります。それは、「2」のところで述べた、「人が日々、女や男というものにされていくという行為」という意味を深く理解するレベルです。ここでの「ジェンダー」とは、結果としてのその人の状態(性的アイデンティティ意識)という意味でなく、人を女と男という違ったものに分けていき、人々がそれを内面化していくということ、つまり社会が人をジェンダー化していくという、社会の差異化する行為自体(動的状態)をさしてもいるわけです。
この場合、そうした政治的営み(差異化する政治)を見抜き、それに対抗的になっていくことまで「ジェンダーの視点」という概念には含まれます。





イ:  政府の「ジェンダー・フリー」使用中止の指示について

内閣府男女共同参画局(以下、政府と略す場合あり)は、「各都道府県・政令指定都市 男女共同参画担当課宛」で「『ジェンダー・フリー』について」という文書(2006年1月31日づけの「事務連絡」:以下「事務連絡」と略す)を送っています。そしてこれについて、関係部署、管内市(区)町村にも周知徹底するよう指示しています。(担当は、総務課の増岡、岡田氏ということです)

その内容が問題です。
まず「1」では、2005年12月に閣議決定された「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあることが確認されています。
その上で「2」で次の様に書いてあります。

「『ジェンダー・フリー』については、この用語をめぐる誤解や混乱を解消するため、基本計画において、上記のとおり記述されたところであり、地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使用しないことが適切と考えます。」

これは、政府見解が、「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあったことから大きく逸脱し、使用中止/禁止へと移行したことを示しています。


「男女共同参画基本計画(第2次)」(2006年12月)では、「ジェンダー」「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という概念の説明の上で、次の様にまとめています。

「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。

つまり「男女共同参画基本計画(第2次)」に書いてあったことは、「ジェンダー・フリー」の名の下での誤った使用について注意を促すものでした。つまり、「ジェンダー」はもとより、「ジェンダー・フリー」概念についても全面否定ではなく、その誤った使用を批判していただけでした。

ところが、今回の「事務連絡」では、「地方公共団体においても、このような趣旨を踏まえ、今後はこの用語は使用しないことが適切」とまでいいきっています。ある「A」という用語の一部での間違った使用例があるからといって、「A」という用語の使用全体をやめるよう指導するというのは、論理が飛躍した対応であり、間違った対応です。政府見解の、説明なき「後退」です。そしてこれは「ジェンダーフリー」という学術用語、思想用語の使用を禁じ、それを用いるものを排除するということにつながる思想統制的で非民主主義的な対応です。「学問の自由」「思想・信条の自由」「表現の自由」に反しており、「異なる意見を認めない」という全体主義的な社会になっていく兆候を示している対応ともいえます。

まともに男女平等を求めてきた多くの人たちは、「ジェンダーフリー」を上記のような意味で使用しておらず、男女共同参画社会を進めていくこととなんら矛盾しない積極的な意味で使用してきました。
そのとき、そうした事実を無視して、バックラッシュ派の言い分(多くはデマゴギー)を、まるで事実かのように受け入れ、まず、「一部の間違った例」を書き、次に、そこから全面的に使用中止にするという、原則的姿勢も事実にもとづく科学的な姿勢もなく、なし崩し的に方針をバックラッシュ派が望む方向に変質させていったのです。

政府は、こうした間違った対応を真摯に反省し、まず2006年1月31日づけの「事務連絡『ジェンダー・フリー』について」文書を撤回し、次に、「男女共同参画基本計画(第2次)」の「ジェンダー(の視点)」と「ジェンダー・フリー」に関する記述自体を学問的水準を踏まえて、より公平かつ正確なものに修正・変更していくべきです(後者については次の「ウ」を参照のこと)。



ウ 「男女共同参画基本計画(第2次)」の記述の問題について
 
「男女共同参画基本計画(第2次)」(2005年12月)の中の「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という説明項(以下「第2次計画」と略す場合あり)は、バックラッシュ派の圧力の中で、内閣府男女共同参画局がなんとか「ジェンダー」という概念を残すために設けたものです。
ベースは、「『社会的・文化的に形成された性別』(ジェンダー)の表現等についての整理」という「男女共同参画基本計画に関する専門調査会」の報告(2005年10月31日発表)です。

国際的にも学問的にも「ジェンダー」概念を排するなど失笑モノですから、「ジェンダー」概念を擁護し存続させたことには一定程度、積極的に評価できる点があります。

しかし、上記「第2次計画」は、バックラッシュ派に配慮しすぎたために、さまざまな限界性や問題性を持っているとおもいます。以下、「第2次計画」の説明文を(A)−(G)と分けて引用したあと、各部分について問題点を指摘します。

(A)「人間には生まれついての生物学的性別(セックス/sex)がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた『男性像』『女性像』があり、このような男性、女性の別を『社会的性別』(ジェンダー/gender)という。『社会的性別』は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。」

まず、この(A)部分の中では、ジェンダーの説明をしており、それ自体は間違いではありませんが、実は、「ジェンダー」には、先に説明したように多様な意味があるにもかかわらず、ここでは、そのうちの一つだけ(定義「2」)を取り上げて、それのみであるかのように記述しています。そのため「ジェンダー」の他の意味を排除しているという点で誤っています。

たとえば、私のジェンダー定義の「3」「男/女はこうであるべきだという規範」および「男女への社会的期待や処遇が差異化される参照・準拠枠組み」の意味の場合、「ジェンダー」は、社会の多数派が少数派に「こうあるべき」と押し付けるものであるため、そういう押し付けはやめるべきだといえるときがあります。女性は「おしとやかであるべき」ということで、活発な言動をとる女性を批判し、その個性の自由な発揮を抑制するような圧力をかけるものが「ジェンダー」なのです。また「4」「性に関わる差別/被差別関係、権力関係・支配関係を示す概念」の意味の場合、「男性が女性の上位であり、女性は男に従うべきだ」というような「ジェンダー」です。

こうした「3」や「4」の場合、「ジェンダー」は不平等・非公正的であり、各人の個性の十分な発揮を抑制する人権抑圧的なものなので、その意味で「良くないもの」といえます。そのため、上記「第2次計画」の(A)の記述の「それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく」という記述は不適切といえます。この背景には、上記したように、ジェンダーの定義を「2」に限定し、他の意味を排除してしまったという問題があります。

実は、「第2次計画」は「ジェンダー」の意味を狭く「2」に限定した上で、「ジェンダーの視点(社会的性別の視点)」という概念の説明に、「3」や「4」の意味を一部入れるという構成をとっています。それが以下の部分です。

(B)「『社会的性別の視点』とは、『社会的性別』が性差別、性別による固定的役割分担、偏見等につながっている場合もあり、これらが社会的に作られたものであることを意識していこうとするものである。」

(C)「このように『社会的性別の視点』でとらえられる対象には、性差別、性別による固定的役割分担及び偏見等、男女共同参画社会の形成を阻害すると考えられるものがある。」

(D)「その一方で、対象の中には、男女共同参画社会の形成を阻害しないと考えられるものがあり、このようなものまで見直しを行おうとするものではない。社会制度・慣行の見直しを行う際には、社会的な合意を得ながら進める必要がある。」

しかし、「ジェンダーの視点」の説明において、「ジェンダー」の中には「性差別、性別による固定的役割分担、偏見等」につながるものがあり、それは男女共同参画を阻害するので見直される(修正される)べきと考えるというなら、「ジェンダー」自体にそうした意味もあると明記するのが論理的帰結です。(そこを明記しないために(A)−(D)は曖昧な文章となっています)。
(B)−(D)を踏まえてあえて読み込めば、「A」で述べていた「それ自体に良い、悪いの価値を含むものではない」という意味は、ジェンダーには、「良いものである場合と悪いものである場合の両方があるので一概に言えない」ということを指しているということでしょう。

しかしそうなら、そのように正確に書くべきであり、そうだとしてもそれは結局「良い/悪いという価値」を含んでいるということになります。

やはり、(A)で「ジェンダー」の意味を「2」に限定したことが間違いです。「ジェンダー」を「2」に限定してしまうことは、「3」「4」というジェンダー概念の真髄ともいえる大事な部分を骨抜きにする間違った定義です。


次に、「第2次計画」は、以下の(E)−(G)と述べていますが、これは、上記の(D)と連動して、バックラッシュ派の言い分を大幅に取り入れたものとなっています。

(E)「ジェンダー・フリー」という用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと、また、家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる。

(F)例えば、児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦等の事例は極めて非常識である。

(G)また、公共の施設におけるトイレの男女別色表示を同色にすることは、男女共同参画の趣旨から導き出されるものではない。


まず、「ジェンダー・フリー」についての定義がここには欠けています。本書「基本スタンス」で示したような「ジェンダーフリー」についての適切な理解をなんら示していないことが大問題です。それを省いて急に「適切でない例」から始めるという問題のある記述になっています。
「Q33」で説明したように、適切に「ジェンダー・フリー」を理解するなら、(E)−(G)のかなりの部分は不要かつ不適切となります。以下、個別の点に即して述べていきます。

(E)で「国民が求める男女共同参画社会」という表現を使っている点ですが、これはバックラッシュ派に擦り寄った表現だと思います。「国民」とは誰でしょう。「男女平等」や「男女共同参画社会」についての理解は多様であり、国民は一枚岩ではありません。バックラッシュ派が反対するものはダメということになると問題です。ここは少なくとも、「正しい男女共同参画社会の理解」とするべきでしょう。

次に、(E)で「性差を否定」することが否定的に記述されていますが、「性差」という概念は含蓄のあるものです。
「ジェンダー」の意味の中には、「性別による固定的役割分担」やジェンダー・バイアスといえる差別的な「性差」や、上下関係、権力関係につながる男女イメージという意味での「性差」、「差異化する政治」の結果として作られた「性差」もあるので、そのように理解した場合、否定すべき性差もあるといえます。

つまり、全面的に「性差を否定」することを間違いだとすることはできないわけです。肯定すべき性差と否定すべき性差があるとき、「性差を否定」することが常に良くないことであるかのように記述するのは、不公平であり、正しくありません。ここでは、そうした「性差」観を前提に「ジェンダー・フリー」が男女の差異を全面的になくすひどいものであるかのようなイメージを振りまいており、その点でも乱暴かつ間違った記述です。

同じように、(E)で「男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして人間の中性化を目指すこと」と書くことにも大きな問題があります。
「男らしさ、女らしさ」をなくすことは、ときには積極的な意味があります(Q8も参照)。しかしそれはもちろん「人間の中性化」を意味しません。
そうであるにもかかわらず、ここでは「男らしさ、女らしさをなくすこと」イコール「人間の中性化」と決め付け、それによって「ジェンダー・フリー」が間違ったものであるとのイメージを振りまくというレトリックをつかっています。したがってこの文章自体が適切なものではありません。

ここの後半の「男女の区別をなくして人間の中性化を目指す」という部分も、「男女の区別をなくす」とは何を意味しているのか不明なまま、明らかに間違っている「人間の中性化」とイコールで結ぶことで、「男女の区別をなくすこと」、ひいては「ジェンダー・フリー」自体を批判しています。しかし「男女の区別をなくすこと」を「ジェンダー」と「ジェンダーフリー」を適切に理解した上で、「ジェンダーの囚われから離脱する」というような意味で使うなら、それは擁護すべきことであり、「人間の中性化」とイコールで結ぶのが間違いです。

また、「男女の区別をなくすこと」を生物学的なオス・メスの区分も無視するような無茶な意味とするなら、そんなことは「ジェンダーフリー」とは関係ないので、やはりこの文章が不適切なものとなります。

「家族やひな祭り等の伝統文化を否定すること」についても、「ジェンダーフリー」はそうしたことを必ずしも求めていません。
しかし逆にあらゆる伝統を無条件に存続させるべきだともいえません(Q1参照)。「家族」についても常に無条件に肯定できるものではなく、すばらしいものであるときもあれば、抑圧の場になることもあります(Q12−19)。
そうしたていねいな議論が必要なときに、このような短い文章で単純に言い切ってしまうことには大きな問題があります。「家族や伝統の否定」とは何を意味するのかを明記せず、「ジェンダー・フリー」概念がまるで「家族や伝統の否定」のイコールであるかのようなニュアンスを与えて、「ジェンダーフリー」自体を否定するというレトリックを使用するべきではありません。

次に(F)の記述も、今の例と同じく、一面的に断定しているところに大きな問題があります。先ず「常識」というような曖昧なものを基準に評価することは、さきの「国民が求める」ということと同じく、論理的かつ公平な姿勢とはいえません。
「常識」という名で行われてきたことの中には、差別や人権抑圧などもあるわけです。明確に人権侵害があるかないかといった客観的基準で判断すべきです。

次に「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育」というように言うならば、当然「発達段階を踏まえていない」し、「行き過ぎている」のだからよくないのは当然です。

しかし、性教育自体にはすばらしい実践もあるにもかかわらず、バックラッシュ派は適切な教育実践にまで「行きすぎだ」「発達段階を踏まえていない」というレッテルを貼って攻撃しています。
とするなら、何が「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた」ものなのかをめぐってていねいな議論が必要というべきです(Q10,Q11参照)。

そこに言及せず、まるで「ジェンダーフリー」教育はすべて「児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育」であるかのように書くのは偏向した書き方です。すべてとは述べていないというなら、「ジェンダーフリー」の考えに基づいた適切な性教育もあると記すべきでしょう。
しかしそうしたことはここでは一切記述されておらず、「極めて非常識」な例だけを羅列しており、まるで「ジェンダーフリー」がダメなものであるかのような印象を持つ方向に誘導する書き方となっています。

「男女同室着替え、男女同室宿泊」についても、基本的には、男女平等教育(ジェンダーフリー教育)の名のもとにそのようなことをしているわけではありません(Q2)。

しかし年齢やその他の状況にもよります。幼稚園児、小学1,2年生ぐらいでは同室着替えに抵抗のない子もいるかもしれませんし、着替えといっても何かを軽く着るだけのようなものなら問題がない場合もあります。ここに事例としては載っていませんが、男女混合身体測定についても、「体操服や洋服を着たまま行う」ようなことも含めて男女混合を提起している場合もあるので、一概に事情を知らずに「非常識なこと」と決め付けることはできません。

しかし、基本的には、人権侵害となるような、当事者が嫌がるような「男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合身体測定」をジェンダーフリー思想が求めるわけはないのです。
そのようなほとんどありえない極端な事例をわざわざ持ち出して「ジェンダーフリー」概念批判を批判するのは、非常に政治的な意図を含んだ記述です。

次に「男女混合騎馬戦」の事例も「極めて非常識」としていますが、これも乱暴すぎる記述です。
というのは、「男女混合騎馬戦」は上記の性教育の場合と同じく、全面否定すべきものではないにもかかわらず、ここではまるでとてもひどいものであるかのように取り扱っています。
木村涼子氏が紹介するように(注1)、男子のみで実施される戦闘的な騎馬戦種目がもたらすメッセージ――男性は戦闘的であるべき、女性は先頭には加われない――を見直そうとする試みとして、適切に行われる「男女混合騎馬戦」は、否定するべきものではありません。
年齢や服装や組み方などさまざまな状況を総合的に見て、「男女混合騎馬戦」が適切であるかないかを判断すべきでしょう。
女子生徒が嫌がるのに身体接触を強制するような類の「男女混合騎馬戦」であるなら、それは、当然セクシュアル・ハラスメントであり人権侵害です。

しかし女性だけの騎馬(組)、男性だけの騎馬を作った上でそれらが混ざるような「男女混合騎馬戦」もあるでしょうし、中には男女が一緒になって組む騎馬でも、当事者がいやと思わない、楽しい場合もあるでしょう。そこは当事者の声も尊重し、全体を見て判断すべきところです。嫌がる子に強制すべきではもちろんありません。

(注1)木村涼子「共学に内在する男女の非対称性を解消するために――たとえば男女混合騎馬戦」『くらしと教育をつなぐWe』2006年2/3月号


最後に、(G)での「公共の施設におけるトイレの男女別色表示」ですが、これについても一面的に述べるのは適切ではありません。

「同色だけが正しい/すべて同色に変更すべき」などとはいえませんが、従来の「男性は黒・青・ズボン、女性は赤・スカート」といった固定的なイメージを見直そうとする意図には積極的なものがあります。男女共同参画の趣旨から導き出されている場合があり、それ自体は否定されるものではありません。
全体主義的強制(全部見直せ)が好ましくないということと、一部の自主的な見直しの試みとを混同すべきではありません。

このようにみてくると、文脈や全体の状況をみずに、一面的に「好ましくない事例」を書き並べること自体が問題です。
バックラッシュ派が言うことのかなりの部分は、現実とかけ離れているという指摘がすでになされているにもかかわらず(注2)、公的文書で「ジェンダー・フリー」の不適切な事例を書き並べて、バックラッシュ派の言い分をそのまま肯定しているかのような印象、及び「ジェンダーフリー」全体が間違ったものであるかのような印象を残す、不公平な記述スタイルが問題だといえます。


以上より、「男女共同参画基本計画(第2次)」における「『社会的性別』(ジェンダー)の視点」という部分については、記述自体を学問的水準を踏まえて、より公平かつ正確なものに修正・変更していくべきです。


(注2)木村涼子編著『ジェンダー・フリー・トラブル』(白澤社)、浅井春夫・他編『ジェンダーフリー・性教育バッシング:ここが知りたい50のQ&A』(大月書店)を参照のこと。





ブログ

ブログ http://blog.zaq.ne.jp/spisin/

こちらも見てください。軽いものはブログのほうに書いていきます。

「大峰山」の「女人禁制」のHPもできました。http://noborou.web.fc2.com/







新著紹介・大峰山HP


06年3月3日

1:「大峰山」の「女人禁制」問題を考えるHPができました。まだ設計中ですが、ぜひ見てください。

アドレス  http://noborou.web.fc2.com/

今後、昨年11月に区長さんと約束した、地元の人たちとの話し合いをしていきたいと思っています。
また新聞記事には、事実を正確に伝えないものもありましたので、それの検証記事も入れていきたいと思っています。


2:拙著『続・はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006年)

が06年3月末に発行されます。

前著『はじめて学ぶジェンダー論』の続編です。前著で扱えなかった、「ジェンダーの定義の整理」「性的解放」「セクシャリティに関わる性教育」「セックスワーク論」「性の商品化とポルノ」「ダイエット」「中絶」「性暴力論(DV、レイプ、セクハラ)」などをあつかっています

目次

はじめに
1章 スピリチュアルでシングル単位なジ   ェンダー論    

  1―1  私のジェンダー論の概略  
  1―2  ジェンダー概念について  
     
2章 性(セックス・セクシュアリティ)の解放を考える

2−1 セックス、性的解放について 
2−2 セックスワーク    
2−3 暴力的ポルノから性の商品化を考    える 
     コラム 児童買春  

3章 セクシュアリティ    
3−1 セクシュアリティに関わる諸問題    と基本姿勢 
3−2 中絶問題      
3−3 美への囚われ    
3−4 性について知っておこう:性教育    の必要性  

コラム 東京都立七尾養護学校の性教育実    践への攻撃   
コラム  基本のキ:性の神話Q&A          
3−5 性的マイノリティの権利:性の多   様性と性的少数者 

4章 性暴力から、非暴力とジェンダーについて考える 

4−1 性暴力とは   
4―2 DV    
4−3 レイプ  
      コラム 拷問と性暴力  
      コラム 戦時性暴力と従軍慰          安婦問題 
4−4 セクシャル・ハラスメント 
       コラム セクハラによる            「心の病」は労災 
       セクハラに関するワークシ        ョップ  

       考えてみよう  痴漢    
   知っておこう  ストーカー規正法  
4−5 児童に対する性的虐待  
     コラム    増える保護者の            性的虐待

4−6 暴力は差別であり、差別は暴力で    ある――非暴力のあり方

おわりに

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  

『ホテル・ルワンダ』

すばらしい映画でした。
先ず、あまりにも愚かな、人間の実態が浮き彫りになっていました。虐殺ができるのです。レイプができるのです。集団心理。民族主義的な単純な憎しみ。力への服従。一言で言って、暴力の強さにひれ伏すのが人間だということ。

しかし一方で、人は踏ん張れる。自分だけが「安全に逃げられる」時、逃げない人がいる。なぜか。いや、逆に、なぜ、人は、自分だけでも助かりたいのか。にもかかわらず、そうした自分をなぜ恥じるのか。この映画があり、この映画が伝えるものがある。

世界のある場所で、本当に起こっているひどい暴力実態。しかし、先進各国、そこの人々は、それに無関心です。ニュースを見て、「怖いね」といって、また食事を続けます。

このことを「突きつけられている」と捉えるかどうか。それは世界とつながるかということ。つながれば、またジェンダー問題にもつながれます。私と社会の変革の主体となります。
暴力はあふれています。しかし、私たちは、いまここから、ピースに生きるという実践によって、非暴力の思想、すなわち男女共同参画の感覚を伝えていけるのです。


講演

大阪市立矢田青少年会館主催

人生を悔いなく生きるための応援講座

   ―――男女がお互いを優しく認め合い、支えあう社会とは―――
                           伊田広行

4回連続講座  (毎週木曜 2月2日、9日、16日、23日)

1:家族について改めて考える

2:仕事と生活のバランスを本気で考える

3:人と人の関係をどんな感じにするか考える

4:私たちと子どもたちにとっての年金問題を考える


場所 大阪市立矢田青少年会館 
 2時―4時半 (質問コーナーは5時まで)

   (近鉄矢田駅から歩いて15分)

 連絡問合せ先 大阪市立矢田青少年会館  06−6697−3720






まともな意見

「大峰山プロジェクト」に関して:その6
                         イダヒロユキ
                        (11月21日記)

「性・宗教・メディア・倫理」というサイトで、「大峰山プロジェクト」への意見――「大峰山「炎上」について」――が書いてありました。バランスが取れている冷静で理性的な、まともなご意見でした。私(たち)のいたらなさを反省もしました。ありがとうございました。このサイトを見られている方もぜひ見ていただきたいと思います。

「一定の信頼関係や友好関係ができてこそ」というのはとても大事な観点ですね。私は、過去の運動で、以下に述べるように「女人禁制」開放に理解がある人がいることも踏まえ、更なる対話の契機として今回のことを始めました。まともな方たちと信頼関係を作っていきたいと思います。
当日の参加者の冷静な対応を見ていただければ、私たちが信頼関係を築きうる対象者であることが地元の人に少しは伝わったのではないかと思います。
むしろ、新聞報道などで「強行登山」などという誤報に間接的に触れて、再び観念的に対立意識を持つことを懸念します。直接会うことが大事です。

少し誤解あるいは、情報不足もあるかともいますので、記しておきます。
先ず私の肩書きは今は「大阪経済大学教授」ではなく、「立命館大学非常勤講師」です。

次に、地元住民の方に急にあのような質問をぶつけても理解されないだろうという点に関することですが、そうしたことも少し考慮して、送付した質問書にあわせて、「トランスジェンダー」「性同一性障害」「同性愛」など2ページにわたる用語の解説もつけておきました。もちろんそれだけで十分とは思いませんが、きわめてマジメにこれに対処していることが少しは伝わるものであったかと思います。

次に、「一般の信徒へぶつけた」という点ですが、質問書は、3本山、5護持院の方々にお送りしました。一般の信徒へぶつけたのではありません。ただし、3本山、5護持院に送ることで、関係者のみなさんに見ていただくことを期待していました。

次にこれは大事な点ですが、3本山(真言宗醍醐派総本山醍醐寺、本山修験宗本庁聖護院門跡、金峯山修験本宗総本山金峯山寺)は、1997年に基本的に「女人禁制」の撤廃を決した「声明文」までだしました。2000年の大祭をめどに、「女人禁制」を解くことも1997年には発表したのです。そこでは、「女性に開放することによって、従来の村落や地域社会に根ざした信仰から個の信仰にも対応し、家族や学校といった新たな形で共同体の信仰に発展させていく」とされています。当時開放論議が起こり新聞報道もなされ、もう一歩のところまで行きました。つまり、基本的に3本山は、「女人禁制」撤廃派なのです。ただ、一部地元勢力の強硬な反対にあって、それは、継続審議になっているのです。

今回の質問書に対しても、一つのところからは明確に、信仰上の見地から「女人禁制」撤廃に賛成と考えておられる旨のお手紙をいただきました。
ただし、地元信徒・5護持院(龍泉寺、櫻本坊、竹林院、東南院、喜蔵院)・役講社などの「大峰山寺の組織がまだそこまで踏み込んだ議論ができていない」ので、そこの判断を待ちたいという立場でした。

これまで「女人禁制」廃止運動をしている人たちが聞き取り調査したところによると、関係者の中では、「修験道とは自然の中で自分を見つめなおし、謙虚になることを目的としており、女性信者の敬虔な行動を見るにつけ男女に関わらない」、「「女人禁制」開放は新しい時代の修験道のあり方を探る一つの表れだ。最近の研究によれば、役行者は決して女性を排除していない。当初、戒律として男女別々の修行であったものが、その後時代の影響を受けて、「女人禁制」を定着させたもの。今日、登拝者の減少、女性信者の活躍など『大峰山』の信仰を取り巻く情況は変化してきた。宗教としてこれから千年は耐えられるような修験の教えを確立するためにも、「女人禁制」についても真剣に検討したい」、「吉野は『女人禁制』に必ずしもこだわっていないし、開放という立場でまとまっている。「女人禁制」は教義にはない」などと述べています。(『「女人禁制」Q&A』Q31参照)

つまり、基本的に、宗教的教義で「女人禁制」をしているのではないことは関係者の一部は認めているのです。開放派もいるのです。地元女性の中には、地元の閉鎖性、性抑圧性を語る人もいます。女性信者の中には、「開放されたら登りたい」という人もいます。

しかし、一部強硬に「女人禁制」開放に反対する人たちもおり、「世界文化遺産登録にあたって『大峰山女人禁制』の開放を求める会」の運動のひろがりに対抗して、「女人結界門」の前に「女人禁制」擁護の看板を新たに設置するなどの対抗的動きもあるのです。

これまで、「女人禁制」開放をめざす動きはたくさんあり、たとえば、1946年近畿登山協会が高女学生350名の登山を陳情するとか、同年、女性教師や生徒が登頂を試みるとか、女性新聞記者が登頂するとか、1949年女性宗教者15名が登頂する、1956年には、東京の「登山とスキー普及会」の女性登山者が登ろうとする、1999年女性10人が登頂する、などさまざまな試みがありました。(『「女人禁制」Q&A』Q29参照)

以上のような事実も知っていただけたらと思います。『「女人禁制」Q&A』の冷静なスタンスが伝わることを願います。
☆  ☆  ☆
なお、内田樹さんのブログ http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1355
で、「大峰山炎上」ということで、内田さんの無知と偏見ゆえの見解が載せられていました。2チャンネルレベルです。悲しいことですが、だからこそ、フェミへの正しい理解が広まることを願います。

「私は予言する。性差別は確実に解消の方向に向かってゆくであろう。だが、フェミニズムは、その「必勝不敗の論法」とその「正義」ゆえに、マルクス主義と同じく必ず滅びるであろう。」と述べて、「正論正義づらするな」という程度の批判でフェミを切れると思い込むほどの無知で単純な人ですが、ぜひ私の『スピリチュアル・シングル宣言』(明石書店)を読んでいただきたいなとおもいます。



11月20日 反論

「大峰山プロジェクト」に関して:その5:反論へのコメント
                         イダヒロユキ
                        (11月20日記)

「大峰山」の地元住民である久保彰守さんという方から11月はじめに手紙が来ました。基本的に、私たちの質問書を見た上で、それに答えるのではなく、私たちの運動自体を批判するというスタンスのお手紙でした。当事者(地元住民)の一員であり、多くの批判的な意見の代表的な要素をもっていると思われましたので、それへの簡単なコメントをすることを通じて、今後の議論の土台(整理)にすると同時に、その他の方がたの疑問などにお答えする要素も持たせたいと思います。なお、以下はすべて私個人の見解です。

1: まず久保さんは「男女差別というわけをお聞かせ願いたい」と書いておられます。それにはもちろんお答えしたいと思います。しかし、そういいながら久保さんは、話し合いを持とうというニュアンスでなく、私たちの側が一方的に間違っているかのように書かれています。男女差別でなく、男女区別だと断定して、それですむかのようです。

それに対しては、まさにそのことこそ、話し合いたいのだといいたいとおもいます。ここは議論がいるところなのです。一方が、差別だといい、一方が区別だといい、それで終わる問題ではないのです。『「女人禁制」Q&A』は丸々1冊をかけて、現代においてはそれが差別であると述べています。執筆者各人は、自分にとっての「女人禁制」を語っています。しかし、久保さんのお手紙にはそれを読んだ形跡がありません。ですからまさにこの点をめぐって話し合いをしなくてはならないのです。「差別ではない」というだけでなく、『「女人禁制」Q&A』を読んでいただき、私たちと話し合うテーブルについてください。私たちの質問にも向き合っていただきたいと思います。

2: 久保さんは、私たちを「男女差別であると決めつけるもの」「穏やかな生活を侵害するものたち」というように描いておられます。それこそ「決めつけ」でしょう。「女人禁制」の廃止を求める人たちを、「権利を振りかざす勝手でエゴな人たち(他人のことなどお構いナシで、自分たちの主張だけする人)」と決めつけるような表現をされていますが、そうした姿勢は不毛でしょう。「野次馬根性」(でやっている)などという決めつけもされていますが、それも不毛でしょう。

相手を知る前から色眼鏡で見るのはやめていただきたいと思います。ぜひ会って、一人一人の思いを聞いてください。私たちは一方的に「差別だ」ときめつけるつもりは毛頭ありません。この問題は複雑だと思っています。簡単に意見が一致するとは思っていません。でも「差別なのではないか」という意見にも一理あることを知っていただきたいのです。

少し硬い言葉で言うと、私(たち)は、「女人禁制」を普遍的・本質主義的に女性差別だと決めつけているわけではありません。「女人禁制」は文脈しだいでは、差別にもなるし、単なる区別にもなると思っています。大事なことは、いかなる文脈で「女人禁制」は差別になるのか、差別にならないのかを明らかにすることです。
後の「伝統」の議論にもかかわりますが、「昔からやっている伝統だから、変えなくてよい。差別ではない」というのは、きわめて非歴史的・非文脈的なとらえ方です。時代は変化しています。国民は均一ではありません。階級、階層、性、民族、政治的立場、属しているコミュニティなどによって、そして何より個人によって、差異があります。
そのとき、まさに直接的に「女人」という女性・ジェンダーの側面さえ無視=脱ジェンダー化して、本質主義的に「差別ではない」とすること自体が、とても政治的なのです。私たちはそこを問題としています。

性的マイノリティの人の実在という文脈で、まさに、そこからでた問い自体を無視し、ないもの(不可視)とし、ただ「とにかく登らないでください。女性か男性かは常識的に判断してください」とだけ述べる姿勢は、とてもジェンダー・バイアスのかかった態度なのです。性的マイノリティをみようとしないことは、排除対象である「女性」とは何か、そして登ってもよい「男性」とはなにか、を見ようとしないことです。「修行」ということがジェンダー化されているなかで、問題を脱ジェンダー化しているのです。

3:「女人禁制」をやめてほしいという要求は、「生活権を侵害する(地元の人への人権侵害だ)」などといわれますが、そのようなつもりはありません。「穏やかな生活を侵害すること」を目標とするものではありません。そんなことをしても私たちに何の得もありません。そんな極悪非道な人間ではありません。ではなぜ、私たちは「大峰山」の「女人禁制」を問題としたいのか。そこを聞いてほしいのです。

 私たちは、この性差別のある社会に生きており、「伝統」という名の思考停止のある社会に生きています。多様性を認めることの少ない社会に生きています。ジェンダーが見えないこととされ、ジェンダーに鈍感な対応があふれています。日本中にまだまだ女人禁制の場所、女性をタブーとする場所があります。

私たちは、そうした社会を変えて、みなが生きやすい社会に作り変えていきたいのです。 もちろん、社会を変えていくべき契機となる場所は「大峰山」に限りません。あちこちで女性への差別に抗議がなされており、差別を批判する裁判が起こされています。教育現場では、ジェンダーフリーの教育がなされ、社会全体で男女共同参画社会に変えていこうという努力が積み重ねられています。労働において、ジェンダー差別への戦い、異議申し立てがなされています。
そうしたこととつながって、大峰山の女人禁制も見直そうという声がずっと前から出されているのです。「大峰山」の「女人禁制」はそうしたことと無関係には存在していないのです。多くの署名も集められ、「女人禁制」に関する本もいくつも出版されてきました。
 ですから、「外部のものが勝手に来た」というような、社会と「大峰山」を切断したようなとらえ方に、私は違和感をもちます。つながっているのです。私たち一人ひとりは、この社会をよりよきものにしていくということにかかわっています。知らない、関係ない、では済まされないのです。社会のあちこちで性の秩序が再生産(ジェンダー化)されている現実と、「大峰山」の「女人禁制」はつながっています。「差別ではない」と強弁し、対話を拒否する姿勢そのものに、ジェンダーに鈍感で、むしろジェンダー差別の再生産に加担していることが出ていると思うのです。だからこそ、関係ないこととしてほうっておくことはできないのです。

4: また久保さんは、上述したことに関連して、「女人禁制」を求める側は、開放後の地域住民の「生活保障をできるのか」というような言い方をされていますが、これに対しても疑問があります。
そもそも、開放(女人禁制を廃止)したら「将来は過疎化の一途をたどり、廃墟となることは火を見るよりも明らか」と書かれていますが、その根拠がわかりません。信徒の人は、女人禁制がなくなると、ほんとうに修行しなくなるのでしょうか? 「女人禁制」をやめても、聖なる修行の山ということは続くはずです。むしろ女性信者も来るし、女性の登山者も増えるのではないですか? 男性修行者も、「女人禁制」をやめても来るのではないですか? 来なくなるという根拠は何ですか? 開放すると「8つの講社が解散する」という根拠は何ですか? 女性を排除しないと修行できないというのがおかしいといえます。

「差別」の上に成り立つ生活というのもおかしな話です。極端な例ですが、「暴力的ポルノグッズ」で生活している人がいるからといって、それを温存すべきということにはならないでしょう。それを減らしていく中で、別の仕事で生きていくしかないでしょう。「女人禁制」が差別かどうか自体が論点になりますが、もしそれが問題ある制度なら、それに依存しない生活基盤を作っていくしかないのではないでしょうか。

一部の修行者集団が「女人禁制」をやめたら来なくなるといっている(?)そうですが、もしそうしたことがあるなら、それは一種の「おどし」ともいえるわけで、それに唯々諾々と従っているだけでいいのでしょうか。
しかも逆に言えば、「女人禁制」維持強行派が変わればすべて変わるというだけのことになりますよね。強硬派集団が、「そうか、わかった、女人禁制をやめよう」といえば済むという問題だとすれば、「伝統」だから変えないという話ではなくなります。生活の問題は重要ですが、話し合いの余地がある問題だと思います。

もちろん、総合的に考えて、微妙な問題もあります。戦争中、労働組合や女性団体・一部女性解放論者は、戦争に協力することを条件に、その目的を達成(権利を拡大)したという事実があります。大峰山の「女人禁制」も、何らかの取引の側面があるのかもしれません。

私が聞きたいのは、「女人禁制」はひどいこと(差別的制度)で悪習だが、生活のために仕方なく存続させているとおもわれているのか、それとも、差別ではないと本気で思っておられるのか、という点です。どういう文脈(状況)では、差別でないといえるのでしょうか。どういう文脈状況の時には差別となるのでしょうか。そこが今後の話し合いの論点の一つです。
その上で、どうしたら「女人禁制」に依存しなくても生活していけるかを考えていくことはもちろんいると思います。それを排除しているのではないのです。今からこうしたことを考えていくことは必要なのではないでしょうか。「とにかくかかわらないでくれ。これまでどおりにやらせてくれ。そっとしておいてくれ」では、通じないでしょう。

5: 久保さんは、世界遺産登録は、「地元がその歴史と伝統を守り大自然を守り通してきたことへのご褒美」だと理解されているそうですが、だからといって、「女人禁制」を残してきたから世界遺産登録されたとはいえないのではないでしょうか。

6: 「大峰山寺の境内地であり、修験者の道場なので女性の立ち入りをご遠慮願っている」「尼寺に男性が入れないのと同じ」といいますが、これはまったく間違いです。この手の「反論」は、「男人禁制車両(女性専用車両)や宝塚歌劇の舞台に男人が無理やり入ってくるのと同じだ」といった程度の低い反論で繰り返されています。

まず、「女人結界」のところから山頂までの道の多くは公道(村道)であり、境内ではありません。寺のまったくの私有地であったりお寺の建物内であれば、特定の見解に基づいて女性が入れない場所があることもありうるとおもいますが、登山道はまったくそうではありません。その維持には公費が投入されており、誰もが通れる道です。
また国立公園内という意味でも、女性排除は問題です。

さらに「女性専用車両」は、まさに性暴力から守るために作られたもので、これと「女人禁制」とはまったく別物です。排除されているものの人権を考えているときに、この程度の形式論で語るところに、性差別、人の痛みへの無理解が出ているように思います。男子トイレに女性を入れろといっているのではないのです。人権侵害の痛みをわかってほしいといっているのです。

「ご遠慮願っている」というなら、もっと理解してもらえるように説明する責任があるでしょうが、それがなされていません。納得しない人は入山してもいいはずですが、事実上は一方的に禁止(入山拒否)しています。

7: 「ギリシャのアトス山も「女人禁制」ではないか」と書かれていますが、アトス山は、修行者のみが生活するところであり、訪問には厳密な条件があります。またそのアトス山でさえ、人権上問題だと指摘されています。それに対し、大峰山は、普通の登山家が登っているところで、アトス山とはまったく性質が異なっています。

8: 久保さんは、「女人禁制」は「伝統」だから変えなくてよいという反論をされています。男女平等と「伝統」との関係は、話し合っていくべき論点ですが、単純に対立するものではないのではないですか。伝統のいいところは存続させつつ、問題のあるところは改善していくという姿勢は、決して伝統の全面否定ではないと思います。

大塚英志『「伝統」とは何か』(ちくま新書)をぜひみていただきたいのですが、そもそも、まともな学問水準では、「伝統」とは作られたものだ、変化しうるものだということは常識です。急速な社会変化が過去との関係をあたらに作り直すことを必要としたとき、新しい「伝統」がつくられてきたのです。
彼は言います。「「伝統」を求めるがゆえに、それを「ある」ことにしてしまい、そしてそれを根拠として、ぼくたちはしばしば社会的政治的な判断をしようとする。つまり「伝統」は、ぼくたちの思考のあり方としてはいささかマッチポンプ的であり、しかし「伝統だから」と一度、根拠にしてしまうと、ぼくたちはそれをもはや冷静に検証できなくなる。」

また、「「伝統」と口にしたとたん、その来歴や根拠はほとんど問わない傾向にある。「伝統」とった時点で、それはなんとなく昔からずっとあるということを証明してしまっているように、大抵の人は感じてしまうはずだ。しかし「伝統」も、「歴史」と同様に「つくられた」ものである。特に今日、ぼくたちが「伝統」と信じる習慣や思考の多くは、明治以降の近代に新たに出来上がったものだ。」とも述べています。

つまり、伝統には起源があるのです。なぜそれがつくられたのか、生じたか、なぜそれが続いてきたのか。そして今、なぜそれが問い直されているのか。そうしたことを考えていく必要があるとおもいます。「伝統だから」では何の説明にもなりません。「続いてきたから意味がある」「続いてきたものを私たちの時代で変えてはならない」ともいえません。時代は変化するので、続けるべき理由がなくなるときがあるのです。変えていくべき責任感と決断力が求められるときがあるのです。女性天皇をめぐる議論にしても、土俵の女人禁制についても同じでしょう。

「大峰山」の「女人禁制」も、今、差別ではないか、廃止するべきではないかという疑義が出されているのです。そのとき、なぜ、存続させるべきなのか、改めて考え、説明・説得していく義務が存続派にはあるのではないのでしょうか。

たとえば、パート労働問題で、これもちゃんと自分の頭で考えないものは、「これまでそれでやってきたんだから」と思考停止して、「正社員は・・・という待遇、パートは、時給800円で社会保険なし、雇い止めあり、ボーナスなし」でいいと放置しています。ある種の「伝統」ですね。それが続いてきたんだからそれでいいだろうという発想です。こうした人は、社会問題を解決していくことができません。変えることができないのです。そしてそれはもちろん、経営者の人件費抑制に利用されています。差別に加担し、自分が「強者、正社員」の立場に無意識に立ってしまっているのです。

大峰山問題はここにかかわっているのです。パート問題をあなたはどう考え、どういう立場でそれにむかっていますか。それと同じく、「1300年続いた」ということをいうことで思考停止していませんか。

大塚氏が言うように、立場の異なる相手側のだめさだけしか目にはいらないということはよくあることです。「自分と異なる立場の人々の信じる歴史が「つくられ」たものだ、と批判することはひどく簡単だが、他方で、自分の側の歴史を疑うことはどうにも困難なことなのだ」という言葉を、どこまで私たちが忘れずにいられるか。

「それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きうるためにどうにかこうにか、共存できる価値を創るため」には、歴史や伝統といったものに批判的・批評的になれるような『個』を確立させ、それぞれの差異を踏まえて公共性を立ち上げるようなことが必要なのです。ある時代につくられた「伝統」に無批判的に身を委ねるのは、安易な、思考停止の姿勢といわざるをえません。

私たちの質問書では、そこのところを問題にしてお聞きしました。宗教関係者でも、女人禁制が必要だとは思わない方はたくさんいらっしゃいます。仏教の伝統ではないと主張されている方もおられます。大峰山の修行者の方で、「私は女人禁制をなくしてもいいと思う」とメールを下さった方もいらっしゃいます。「大峰山」の「女人禁制」は、誰が何のために作った「伝統」なのですか。それに答えようとせず、話し合いもしない姿勢とは、いったい何なのでしょう。

そしてまた、この問題をめぐって、インターネット上でしたり顔で論評する人の多くが、反フェミ、反開放(親・伝統、親「女人禁制」)です。そのことは何を物語っているのでしょうか。こういうときに、自分の立場をどこに置くかで、その人の思想性がすけてみえてきます。

私としては、まさにこれだけフェミ嫌いが多く、フェミへの無理解が多く、匿名で何かののしるような姿勢を持ちたい人が多いからこそ、非暴力主義を伝えるフェミが大事だなとおもっているのです。

「伝統」を語る人は、『「伝統」とは何か』をせめて読んでください。そういう水準で話しあっていきたいと思います。

9: 久保さんは、「責任や義務が大事で男女平等はそのあと」というような主張をされますが、ここには、「権利、民主主義、男女平等」ということへの誤った理解があるようにおもいます。

10: 全体として、『「女人禁制」Q&A』をぜんぜん読んでいないレベルのご意見です。ちゃんと読んでから返事していただきたいとおもいます。

11: 久保さんは、「大峰山」へ登ろうという呼びかけに「地元住民は戸惑っている」とおっしゃいますが、どういう手段でみなさんの意見を聴いたのでしょうか。地域住民の皆さんは、私たちをどのような集団だと思われたのでしょうか。その情報源はどこだったのでしょうか。

地方・地域ではなかなか他者と異なる意見は言いにくいといわれています。住民民主主義をどのように創っていくのかは大事な問題と思います。11月3日に、私はそこにこられた地域住民一人一人の方の声を聴きたいと思い、それを求めましたが、それは拒否され、一人一人の異なる意見はないかのように、代表一人が話をしていました。そういうスタイルでいいのでしょうか。

☆  ☆  ☆

以下、久保さんのお手紙ではないですが、多くの人がもっている批判意識に関わる2つの点に、とりあえず答えておきたいと思います。

A:強行登山という批判について

すでの私の説明と見解として書いていることですが、それをよく読みもしないで、いまでも事情を知りもせずに、ブログなどのいい加減な情報をもとに「合意を一方的に反故にして登山したことは、信頼を踏みにじったひどい行動だ」「強行突破した強行登山をしたのは許せない」ということだけを繰りかえす人がいます。
まったく間違いです。これまでの私の当日の状況説明をよく読んでいただきたいと思います。

まず、合意(登らないという約束)などなされていません。
大峰山側の区長さんがただ「登らないでほしい」という要望を一方的に述べ立てたうえで、一方的に話し合いを拒否し、あとは知りませんということで、その場を退去されたのです。ですから合意が成立するなどという余地はまったくなかったのです。私たちに納得するように説得されたのでもないのです。
意見も聞かない、気持ちも聞かない、質問書にも答えない、大峰山側の地元住民にも話はさせない、その場で質問書をくばることも禁じて、ただ帰っていかれたのです。「登山を暴力的に実力でとめることはできない。」と区長さんもおっしゃいました。私たちもそれは当然だと思いました。その上で、さあ話しあおうとしたのに、「話はしません、私たちの意志は伝えましたから」と、さっさと帰る方策をとらえたのです。それはきわめて「政治的」な態度でした。

 そうした中で、私たちのグループは、皆で登るという決定などせず、今日はここで解散しようということになりました。私たちは、登山・入山自体が目的ではなかったからです。「むこう側がいなくなったぞ、さあ登ろう。ルンルン」というようなものではないのです。ですから区長さんにも、今日は解散することにしましたと、その旨、お伝えしました。

その後、個人として登った方が数名いたということですが、そういう事情なので、まず、強行突破、強行登山(約束違反の登山)などではありません。「登らない合意」もなかったし、立ちふさがる人などもいなかったのです。
 
 そしてそもそも、私の考える民主主義では、各人が自分の感情や意見を出す権利があります。だから「山に登られると悲しい」「腹が立つ」「いやだ」という意見もありだと思っています。
 しかし、一方で、その登山道は公道であり、誰が入ってもいいところなのです。そこに入っていく権利は誰にでもあります。入っていった方がたにも言い分や思いはあるでしょう。入って登りたいというのも、また正当な感情・意見です。登った方を非難できませんし、非難する必要もないと、私は思っています。だから主催者である私たち実行委員会は、登るなとその人たちに言う権利などないと思っています。

登山したものがいたということは、それは異なる意見のものがいたという事実を示しているに過ぎません。「登ったこと」を非難できる絶対的立場など誰にもないのです。
なのに、したり顔で「強行登山は絶対に許せない!」と怒る方々は、自分の無意識のバイアスにまず気づいていただきたいと思います。

この点は、前稿でも述べたように、卒業式で、「日の丸・君が代」が強制されている中で、それに反対の意思を表明する権利があると思うかどうかに関わっています。私は、反対の意見を表明できる社会こそ望ましいと思います。「卒業式で君が代を歌わないやつが許せない」というような人が、「強行登山は許せない」というならわかります。同じ程度にファシズム的だからです。

 むしろ、強硬的態度は、大峰山の側だったのではないでしょうか。こちらの言い分や思いをまったく聞かないという態度を、非難する人はどう思っているのでしょうか。
 
今回、多くの参加者は登りませんでした。過去には登った女性もいます。それぞれです。その中で、今後話し合いをしていけばいいじゃないですか。登ったものは、話し合いをする権利がないとはいえません。相手が異なる意見の人だから話し合いをしないとなるでしょうか。「君が代・日の丸」に反対のものに対しては、話し合いに応じないというようなことでいいでしょうか。

一般的には、「まったく相手にするに値しない、ひどい人、低レベルの人、暴力的な人」ということもありえます。しかし今回の私たちの行動、登山した人たちにそれを当てはめることができるでしょうか。

B:無礼・一方的であったのか

もうひとつよくある批判感覚として、「話し合いを持ちかける相手に対して、礼節が欠けていた。無礼な質問状を出して、一方的に押しかけた」というものがあります。
これも事情を知らないままの一方的意見です。

礼節はある程度必要ですが、主観と主観のぶつかり合いということもあります。これまで話し合いをもとめる電話などに礼節を欠いた態度をとってきたのは一部大峰山側のひとだと聞いています。今回のことだけが急にあるのではなく、今までの経緯があるのです。過去、何度も「女人禁制」の見直し、話し合いが求められてきたのです。扉を閉じてきたのは、「女人禁制」維持派のほうでした。
そうしたなかで、今回のかかわりも、対話を進めていこうというコミュニケーションのきっかけのひとつです。

それに、質問書は、「無礼かどうか」に対しては、ニュートラルなものだといえるとおもいます。見る人によって感じ方は異なるでしょう。とり方は多様ですから、前に書いたように誤解を一部受ける表現があったことは認めたいと思いますが、だからこそ、それは会って話し合う中で解決していけばいいのです。見方を変えれば、あの質問書の文が皆にとって絶対的に失礼なものだとはいえないと私は考えています。あの質問をいいものだととらえる人もいます。

 これは異なる意見というものに慣れているかどうかに関係します。自分に批判的な意見があってもいいじゃないですか。「この質問はひどくないですか」といっていただければ、意図を説明し、足りない点は謝ります。そうしたコミュニケーションの積み重ねで、相互理解が深まるのです。あの質問書はふざけていません。真摯な質問です。それは質問に対する私の説明をちゃんと見ていただければわかるとおもいます。

 そして、あの場に行って、話し合いをすること自体も、見方を変えれば、そういう方法もあるなという程度のものです。
ですから「押しかけ」というのも、前に書いたように社会運動に対する無知あるいは偏見の要素がたぶんにあります。民主主義社会では、マイノリティが、さまざまな非暴力的方法で意見表明していくことが大事です。事態を民衆の運動の観点から見れないものは、「押しかけて行った」「迷惑をかけた」としかみえないのです。こうした話し合いや意思表示の行動を「ひどい」と思う感性こそ問い直していきたいという思いが私にはあります。
 
 何が違うのでしょうか。私は、反発や誤解、齟齬、反発もあるのも当然と見ています。それに対して、説明していき、そうか、人権意識を高める運動とはそういうことだったのか、と伝わっていくこと自体が社会運動の目標だと思っています。ですからこうした意見交換ができていく事が大事なのです。

11月3日のパフォーマンスは、多くの人にこの問題に関心をもってもらい、こうした意見交流が始まり深まるきっかけとなりました。封殺ではなく、開放しながらの異なるものの交流のプロセスこそ、目指していたものなのです。
まだまだ、フェミニズムへの誤解や偏見があります。「女人禁制」をなくしたいという意見の深い主張もつたわっていません。それが、11月3日のパフォーマンスで動き始めたのです。そういう意義があったと思います。この運動はまだまだ続いていきます。

反論もあるでしょう。でも、私のほうにもまた言い分はあります。フェミを見切ったつもりになっている「あなた」の「傲慢さ」を問題としていきたいと私は思っています。

       以上






05年11月17日


この情況を保守派はどういいわけするのか

異なる意見を許さないような状況になってきているのに、日本はいい国だ、民主主義国家だというような能天気な人が多い。この無関心さ、鈍感さが、「伝統といえばOK,問題があるからと考えて新しいものに作り変えるなんて嫌い、だからジェンダーフリーもダイッキライ」というような人の存在とつながっている。
そうした情況を示す一例の記事。典型的なので、ここに引用しておく。

東京新聞の記事
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20051114/mng_____tokuho__000.shtml
●横行する『プチ逮捕』 立川ビラ事件 一審無罪でも 

 お上に異議をとなえる人々への「プチ逮捕」が横行している。「プチ」といっても身柄を取られたうえ、家宅捜索付き。委縮効果は十分だ。
昨年の立川反戦ビラ事件では、一審で無罪判決(現在は控訴審中)が出たものの、警察、検察の強気は続く。
対象も一昔前の新左翼系活動家から共産党や市民、僧侶(そうりょ)にまで広がった。九月総選挙での「小泉大勝」後、一段と拍車がかかる。 (田原拓治)

■沖縄で平和祈念 突然の公妨容疑

 先月二十九日、米軍再編の現場である沖縄県の米軍嘉手納基地第二ゲート前。午前七時半、ときおり小雨のぱらつく中、太鼓を手にした白装束の僧侶ら十数人が座り込みを始めた。

 僧侶らは「非暴力、不服従」のインドのガンジーに倣う日本山妙法寺の一行。同月、沖縄各地を歩いてきた。年一回、ことしで十九回目の「平和祈念行脚」だ。
基地前の一日行動も恒例だった。当日は土曜日。太鼓を打ち誦経(ずきょう)する一方、基地に出入りする米兵の家族らにビラを渡した。

 午前十一時ごろ、沖縄署の二台のパトカーが来た。座り込みの場所を歩道に移し、一行の車両を移動するよう命じた。僧侶の一人、木津博允上人(69)=東京在住=
が一台のパトカーに近づくと、車は急発進した。木津さんは倒れかけた。

 「危ない」。木津さんは停車したパトカーに詰め寄った。やがて同署の地域課長が現場に急行し、木津さんは公務執行妨害容疑で逮捕された。
沖縄署の発表によると「(同容疑者は)助手席に両手を乗せ、パトカーの前後輪の間に足を差し挟み、別の盗難現場に行く公務を妨げた」という。

 逮捕された際、木津さんは首を痛め、数日間断食。逮捕に抗議し、取り調べには黙秘している。拘置先こそ、署から拘置所に移ったが、現在も拘置は続き、
接見も禁じられている。

 今月七日の拘置理由開示公判で、弁護人らは「警察官がパトカーに乗っていながら、なぜ容疑者の足の位置が分かるのか」などと被疑事実を追及。
しかし、裁判所は拘置延長を認めた。

■制裁、見せしめ弁護士が批判も

 沖縄署の新田朝栄副署長は拘置請求の理由を「黙秘している。関係者と口裏を合わせ、証拠隠滅の恐れがある」と説明する。
だが、被害者はパトカーに乗っていた三人の警察官で、しかも現行犯逮捕だ。どう証拠隠滅できるのだろうか。

 この事件を担当する三宅俊司弁護士は「制裁、見せしめの類(たぐい)だ」と言い切る。「警官の命令に反論し、逮捕して反省するかと思ったらしない。
周りも怖がらない。意地でもやってやるということでしょう」

 沖縄平和市民連絡会の当山栄事務局長は「今回の事件は反基地運動全体への弾圧だ。これから本格化する米軍再編への反対闘争に対する牽制(けんせい)だろう。
上人さんには頭が下がる」と語る。

■『戦前の法難時代に回帰』懸念

 一方、日本山妙法寺の関係者は「国内で逮捕者が出たのは一九七三年に神奈川県の相模原で、ベトナム戦争に向かう米軍戦車の前で座り込んで以来。
戦前の法難(弾圧)の時代に回帰しつつある」と懸念する。

■小さな非で逮捕 捜索、実名発表

 米軍再編に絡んでは先月十五日にも神奈川県大和市で、マンションの八階踊り場から米軍厚木基地を監視していた市職員三人が住居侵入容疑で逮捕された。

 三人のうち、二人は年度内にも判決を迎える第三次厚木爆音訴訟の原告団に属し、一人は新左翼系の環境団体メンバー。
五年以上にわたり月一回、踊り場から定点観測を続けてきた。

 当日は二日後に夜間離着陸訓練が始まるとの情報を得ての行動だった。これまで住民とのトラブルはなかったが、
九月以来、マンション入り口などに「関係者以外の立ち入りを禁ず」の張り紙が張られていた。

 三人は自宅などの家宅捜索後、逮捕の翌々日には処分保留で釈放されたが、このうちの一人はこう語る。

 「現場に着いて双眼鏡を出すや、制服警官が来た。『基地を監視している』と言うと不審なので身分を明かせと。
一人が免許証を見せ、二人が拒むと逮捕だと告げられた。あわてて二人も免許証を見せたが『いること自体、違法だ』と取り合わない。その間、退去しろの一言もなかった」

 数分後にはパトカー五台が駆けつけた。警察側は逮捕された一人に「住民から苦情があった」と説明したという。
だが、管理組合長宅では取材に「そんな人たちが出入りしていたことは知らないし、住民の苦情も聞いていない。まして届け出たこともない」と話す。

 県内の反基地運動共闘団体代表で、大和市議の大波修二氏は「三人がマンションに無断で立ち入ったことは反省すべき。
が、司法判断で違法とされてきた爆音が放置される一方、この小さな非で逮捕、家宅捜索、マスコミの実名報道という責めまで負うのは不当に過ぎる仕打ち」と憤る。

 こうした米軍再編に反対する現場とは別に、近年新たに目立つのは共産党系のビラ配りへの逮捕だ。
昨年以来、三件あり、中でも公務員の政治活動を禁じた国家公務員法への違反を適用する例が目を引く。

 同法は終戦直後の四八年に労働運動の高揚を警戒する連合国軍最高司令官マッカーサーの書簡を受けた政令201号が基になったが、
違憲論争が絶えず、運用には人事院も慎重だった。

 同党系の日本国民救援会は「警察は言論活動であるビラ配りと犯罪を“迷惑”という言葉で市民に同一視させようとしている。
戦争(有事)体制に不可欠な公務員の協力を強制する狙いもある」と批判する。

 さらに九月の「小泉大勝」後、従来、警察との緊張関係とはあまり縁がなかった消費者団体への圧力も事実上、増している。

 日本消費者連盟事務局の吉村英二氏は「例えば、私たちはしばしば省庁に申し入れたり、交渉をする。
その間、省庁前の路上でビラを配るが、最近は警官が十数人来てここで配るな、と言ってくる」と明かす。

■「「議員会館内で立ち寄り禁止」

 「国会議員会館の様子も違ってきた。以前は親しい議員の紹介で入って、懇談のついでに面識のない議員の部屋にもビラなどを置いてきた。
杓子(しゃくし)定規には紹介されていない議員の部屋に行くのは内規違反なんだろうが、いままで問題はなかった。でも、最近は衛視がついて来て止められる」

 昨年十二月の立川反戦ビラ事件一審判決では「政治的表現は民主主義社会の根幹をなす」と三人の被告に無罪が言い渡された。
しかし、時代の流れはそれとは逆方向に回りつつある。

 公安事件を手がける浅野史生弁護士(第二東京弁護士会)は現状をこうみる。

 「起訴価値がない事件でも身柄を拘束し、家宅捜索をするのは活動自粛を狙ってのこと。処分保留もいつ起訴されるのか、と委縮させる効果がある。
政府が共謀罪などの成立を急ぐ中、現場ではそれを先取りしているということだ」



多様性の理解に向けて

05年11月3日「大峰山プロジェクト」に関して:その4
                        イダヒロユキ
                        (11月16日記)

以下、私個人の見解です。

私たちの社会運動が目指しているものは何なのでしょうか。私なりの一つの言い方は、それは、非暴力の思想とスタイル・方法が広がることだと思っています。

たとえば、大阪朝鮮高級学校の生徒が、大阪市立大学医学部看護学科の推薦入試の出題を断られた問題で、NPO法人「コリアNGOセンター」が、多民族・多文化共生の社会作りをゆるがしかねない、とする抗議文を11月7日にだしました。
 
いろいろな思想・立場で異なる意見があるでしょうが、私は、抗議する権利、抗議する人がいて、それを行える自由があることが大事だと思っています。
「大峰山」問題で伝えたいのは、そんなことです。

多数派・マジョリティは、自分たちを標準化し、マイノリティの存在を無視したり忘却し、マイノリティが声を上げると嫌がったり、邪魔者扱いしたり、悪者扱い、変人扱いします。それをなくして多様性が尊重される社会を目指しています。「大峰山」問題では、そこが問われています。

「国旗・国歌法」自体がひどいものと私はおもいますが、それを通すとき「教育現場で強制はしない」と政府は答弁したにもかかわらず、学校現場では、「日の丸・君が代」が事実上強制され、日の丸を掲げているか、声を出して君が代を歌っているか、チェックされています。それに従わないものは処分されています。どこかの全体主義国家の話ではありません。日本のことです。

根津公子さんは、「日の丸・君が代」の強制に屈することは自分の良心に反する、子どもたちにそんな姿勢を見せては、私の人生が否定されるということで、抵抗を貫き停職処分をうけましたが、学校の校門前に「出勤」するという戦いをされました。私は、こうしたひとりひとりの決意と行動が多くの人を動かしているということから学んできました。私は、根津さんのような生き方に共感する立場なのです。

「日の丸・君が代」が好きで、当然と思っているものは、それに反対する者が「厳粛なる式を壊す破壊活動者」にみえます。根津さんの行動が非常識なものに見えます。

でもここには明らかなバイアスがあります。想像してみて下さい。もしフェミニストばかりのあつまりで、フェミニストでない人がいて、そういう意見を言ったとき、嘲笑されたり、破壊活動するなと怒られたり、言い分に耳を傾けずアタマから否定されたら・・・。
多くの人は、多数派のフェミニストの態度こそおかしいと思うでしょう? ちゃんと意見を聞くべきだ、異なる意見のものがいてもいいのだといいたくなるでしょう。でも日の丸君が代を正しいと信じて、異論を認めないという立場なら、同じことをしているのです。

根津さんが処分されても抵抗してすわりこんでいるところを子どもたち、地域の人たちに見せることこそ、民主主義の教育なのではないでしょうか。民主的な地域づくりなのではないでしょうか。

「日の丸・君が代」に賛成(反対)するものばかりがいる中で、「日の丸・君が代」に反対(賛成)だということがどんなに難しいか。それでも、民主主義者なら、意見が分かれる問題に対して、異論を認めることを大事にするでしょう。
ですから、私の考えでは、「日の丸・君が代」に反対するものは、一斉強制に反対しているのであって、別の場所で(あるいはときには同じ場所でも)「日の丸・君が代」をすきなものがそれを歌ったり掲揚することに反対しないと思います。少なくとも私は。 私の尊敬できるフェミニストは、異論を聴く耳を持っています。

そうした立場ですから、「日の丸・君が代」に反対する権利と賛成できる権利の両方を守ることが大事だと思います。式において、君が代を歌わないとか、起立しないといった行動を取る自由は保障されるべきだと思います。

式に政治を持ち込むなという人は、自分の政治性に自覚的になるべきです。強制している側こそ、政治を持ち込んでいるのです。そして、教育が自立した個人を育てていくものと考える私は、式においても、多様な意見があることを表明しあうことが大事と思っています。勇気やスピリチュアルなものが見えるのは、そういう時なのです。

多数派が、自分たちを正しいと思って、少数派を弾圧することを私は、良しとしない立場なのです。

「大峰山」問題は、ここに関わっています。
「大峰山」の「女人禁制」問題には賛否両論があります。「女人禁制」に反対だと意見表明して何が悪いでしょうか。話し合いに行って何が悪いでしょうか。11月3日に話し合いを拒否したのは、「大峰山」側の人たちでした。

でも今後、話し合いましょうということになりました。大きな一歩前進です。異なる意見の者たちが話し合うこと、その過程があきらかにされ、みながこの問題を考えていき、相互理解を深め、すぐに「解決」とか「意見一致・合意・和解」にならないとしても、歩み寄りがすすむことが希望です。

それを嫌っているのは誰ですか。なぜ話し合いがすすむのがいやなのですか。何にいきり立っているのですか。相手を罵倒するものたちは、自分の愚かさに気づきもしないほど愚かなのでしょう。

非暴力闘争の歴史は、さまざまな「戦い方」を積み重ねてきました。
集会を開催する、デモをする、ストライキをする、団体交渉をする、ビラをまく、シュプレヒコールをあげる、ピケをはる、協力しない、署名活動をする、納税しない、座り込んで動かない、道路に座り込んで逮捕される、卵を投げつける、横断幕を掲げる、立ち続ける、ハンガーストライキ、ダイインなどの多様なパフォーマンス、などなど多様なスタイルがあります。
グリーンピースのように、法律に一部反するようなところに入って大きな横断幕を掲げるといった「過激」なパフォーマンを行うのも非暴力闘争の一つです。マイケル・ムーアのように、皮肉る映画作品を作るのも有効なスタイルです。欧米各国では今でもそうした活動が活発に行われています。

しかし、日本では、いま、反体制的な社会運動が減少し、上記のような非暴力活動のほとんどを、「迷惑な変な活動、過激な暴力行為、法律に違反する社会破壊的な人たちの行動」とみるような「雰囲気」があるようです。「卵を投げる」ということの民衆の抵抗の歴史を感じる力を失っているのは誰なのでしょう。

でも私は、日本が多様性ある共生社会になるために、上記のようなさまざまな非暴力的行動をとる人が増える社会になればいいのになと思います。それを許容する雰囲気の社会になればいいのになと思います。異論をいえる社会。異なる意見のものがいるということ、とくにマイノリティが存在しているということを自覚するような社会になればいいと思っています。社会的に力を奪われた側、立場が弱い側、マイノリティの側が、ちゃんと生きていけるためには、能力主義だけではダメなのです。ですから、非暴力的なさまざまな「闘争」スタイルの保障はとても大事なのです。

「大峰山」の「女人禁制」の場所に行くことは、そうした世界的な非暴力的活動の水準の観点から見れば、なんら過激でも非常識でもない穏当な活動ではないかと思っています。質問書を提出し、それに基づいて話し合いましょうというパフォーマンスは、十分ありでしょう。私など、むしろ暴力的に対応されても、こちらは非暴力で対応しようと思っていたのです。
無理やり暴力的に強行突破で登山するなどまったく考えていませんでした。「女人禁制」の結界門という特殊な場で、「登る」という可能的行為を前にして、何を感じるのか、賛否両論を話し合ってみたかったのです。登りたいという女性、登りたいというトランスジェンダーのひとがいるとき、どう感じるのかを口に出して頂きたかったのです。

そんなやりかたは「日本人の感覚」にあわないというかもしれませんが、「日本人の感覚」というのも人によって違うでしょう。そうしたものを持ち出してまたまた多様な意見やパフォーマンスを封じ込めることこそへんです。

だから私は、11月3日の行動や質問書に対して、さまざまな意見があるのがいいと思っています。さまざまな意見があるということは、とてもまともです。問題は、自分が正しいと思って、相手を見切ったつもりになって批判することでしょう。
よく知りもしないで、批判するのは軽率な行動だとおもいます。顔がつながって信頼関係があれば、軽率な批判もしないでしょう。

「大峰山」問題で、私たちに問われているのは、こうした点に関する自分の見解でしょう。


昨日、さーやさん(現在、黒田清子さん)の結婚式が行われました。私個人は、みちこさんと黒田清子さんになんら恨みもないですし、美しい親子愛だろうなとおもっており、幸せを願っています。
しかし、健全な社会という観点からは、異論を許さない雰囲気で、おめでとう一色で報道し、しかも敬語の嵐で、過剰にありがたがったり、雲の上の方たちのように扱うのは、へんだと、私は思っています。天皇制自体に批判や異論があってもいいのです。戦後、そうした議論が活発なときもありました。
共産党も天皇制廃止をいっていました。そうした意見がちゃんと言えることが大事でしょう。
故・ナンシー関さんが、今の皇太子とまさこさんの結婚のとき、ちょっとおかしいんじゃないのと批判したことは、大事なことでした。そうした意見が封殺される社会は、ナショナリストや右翼が嫌うどこかの全体主義国と似てはいないでしょうか。

思い出すべきは、天皇家への多くの人の素朴な思いが、戦前、戦争体制に利用されたことでした。北朝鮮やイラクでも、独裁者は同じような感情を利用します。民衆はうまく情報操作されるとコントロールされるものなのです。
メディアの報道を疑う能力を持ち、天皇制度に賛成の人と反対の人が共存できてこそ、一方的に利用される戦前のような雰囲気にならないことが保障されるのだと思います。

昨日だけでも世界中で多くのひとが結婚しました。そのどれもが、おめでたいというなら同じ程度におめでたいのだという感覚が私にはあります。ことさら天皇家だけを美化するのはどうかと思います。またよく知りもしない人の結婚を、そんなにおめでたいと思わない人がいてもいいとおもう感覚が私にはあります。
そうしたことを許さないような報道の仕方に異論があります。

こうした意見も偏狭な国家主義者・右翼からは、「なんと不敬な発言だ、国賊だ、非国民だ」ということになるでしょう。「国民みながおめでたいと思っているときに、一部フェミニストやサヨクだけが偏狭にも文句をつけている」と思うのでしょう。国旗・国歌問題と同じですね。自分が正しい、反対するものこそおかしいという決めつけ。
私はそういうものに異論をさしはさんでいるのです。そこにバイアスがあるよ、と指摘しているのです。
 
異論と多様性ということを考える上で、もう一つの例が、昨日の中国外相の発言です。同外相は、「ドイツの指導者がヒトラーやナチス(の追悼施設)を参拝したら、欧州の人々はどう感じるだろうか」「重要なのは、日本の指導者が、再び中国とアジアの人民の感情を傷つけないことだ」と述べました。

偏狭な国家主義者・右翼は、怒り心頭でしょう。「ヒトラーと陛下(天皇様)や『戦犯』とされた軍人さんたちを同列にするとは失礼だ」と。

でも、中国外相の例えは、私個人の見解としては、間違っていないと思っています。そういう例えはありうると思います。

問題は、私のような意見や中国外相のような意見を日本のなかで言えることが大事だということです。大きな声で、「なんと言うことを言うんだ!」と発言を抑圧する雰囲気が徐々に日本で大きくなってきています。

「大峰山」の「女人禁制」問題は、こうしたことに関わっていると思います。天皇制、戦争・改憲への態度、などと重なってきます。「大峰山」の「女人禁制」を続けるべきだと思っておられる方々には、ぜひ、異なる意見もあるのだということを知って、その人たちの声にも耳を傾けてくださいますよう、お願いしたいと思います。話し合っていきましょう。






05年11月16日


非宗教者による、宗教応援とそのための条件
                               イダヒロユキ

私は、合理主義者で非宗教者であるが、合理の限界を意識し、スピリチュアルな感覚に親しみを持ち、宗教のすばらしさを認める者である。非宗教者と宗教者の相互尊敬が必要と考える者である。私は、男女平等・ジェンダー論を専門とする学者であり、人権論を広く「スピリチュアリティ」というものとの関係で豊富に展開したいと考えている者である。そんな私が、「スピリチュアルに生きる人々」から学んだことをまとめた小文で、タイの修行僧、藤川チンナワンソ清弘さんを紹介した。それが縁で仏教、宗教について思うことを書かせていただくことになったので、今回は、「非宗教者による、宗教応援とそのための条件」について書いてみたい。何らかのご参考になれば幸いである。

スピリチュアルケア

私の目下の関心は、スピリチュアルケアにある。スピリチュアルケアとは、終末期にある患者の人生の問題をじっくり聞いて、悩みに付き合い、死の不安や恐怖を受け止め、希望を見出すような援助といわれている。だが、私は、人生の危機に際して深い質で関わる全般がスピリチュアルケアだと広義にとらえている。
このスピリチュアルケアは、字句から明らかなように、スピリチュアリティに関わる。そこが「深さ」の意味だ。そして、もちろん、ここは宗教性と隣接する。

私のスピリチュアリティの捉え方は、簡単に言うと、人間と世界を、「知性、身体、精神」だけでなく、「たましい」のレベルを含めてトータルに考える視点、「動植物、生態系、他国・他民族を含む世界、他者、過去、未来」などとのつながりで私を捉える視点、自分の心の奥底レベルで生きる意味を考える視点、近代合理主義の枠を超える視点、生の有限性/死(ときには宗教)を入れる視点などの総合のことである。そうした視点の「深さ」は、みえにくさ、きれいさ、高み、広さ、濃さ、身体、行動、表情などとしても表れる。

そして、私が私の狭い個人的領域にとどまらずに、私をつながりにおいて拡張して捉えるがゆえに、スピリチュアリティは、社会的行動として出現する、と考える。社会をより善きものに変えるという責任から逃げることに居直ること(無関心)は、個人の内的成長と矛盾する、と考える。

すばらしい宗教実践を行っている人たち

このスピリチュアルケアを、宗教者の重要な実践の一つと捉えているひとたちがいる。日本ホスピス在宅ケア研究会の中のスピリチュアルケア部会に集まっている宗教者の方たち(大下大圓さん・他)がその一例だ(注1)。スピリチュアルケアを広義に捉えれば、従来の枠を超えて地域に打って出て社会活動・社会変革活動を行っている宗教者もスピリチュアルな活動を行っているとみることができる。

(注1)
大下大圓『癒し癒されるスピリチュアルケア』医学書院、窪寺俊之『スピリチュアルケア学序説』三輪書店、日本ホスピス・在宅ケア研究会・スピリチュアル部会編『スピリチュアルケア・テキスト』1号、2号、谷山洋三・伊藤高章・窪寺俊之『スピリチュアルケアを語る』関西学院大学出版会、などを参照のこと。


上田紀行『がんばれ仏教!』(NHKブックス)で紹介されている仏教者の方たち、世界平和のために行動したティク・ナット・ハン(『仏の教え ビーイング・ピース』中公文庫)、地域で高齢者ケアシステムを作る高橋卓志(『家で死ぬという選択』企画室僧伽)、先に紹介した藤川清弘(『タイでオモロイ坊主になってもうた』現代書館)、釜が崎で活動している本田哲郎神父(『小さくされた者の側に立つ神』新世社)や入佐明美(『地下足袋の詩』東方出版)、その他、ダライ・ラマ、M・L・キング、ガンジー、解放の神学の神父たちなど世界中で非暴力的行動をとってきた人々は、そうした社会的なスピリチュアル活動(ケア)を実践している宗教者の例といえよう。

すばらしい。私はそういう宗教者を尊敬する。まさに、その信仰を深められたがゆえに、それが行動となって表れた言行一致の人たちだと思う。こうした宗教者が増えることが希望である。そういう中で、学校教育においても適切な宗教教育がなされるであろうと思われる。

宗教がまともであるための条件

本稿では、紙幅がないので、次に、以上のことを踏まえたうえで、宗教がすばらしいものであるために、前提条件(宗教への苦言)を数点述べさせていただきたい。これは、私がまともな宗教者を尊敬し、非宗教者も含めた多くの人に宗教の積極性、スピリチュアルな観点の魅力が浸透してほしいと願うからこその言動である。

「死後の世界論」を強制しない

まず、スピリチュアルであることの必要条件として「死後の世界がある」ということをもちだすべきでない、「死後の世界がある」を万人に証明/説得しようとすべきではないという点である。

一部宗教者には「死後の世界がある」と決め付けて押し付ける傾向が見られるが、それには無理がある。それは証明/説得できないものであり、「死後の世界」をあると考えても、ないと考えてもよく、どちらであろうと、「死」に適切に向き合えるし、スピリチュアルなケアはできるからである。

自分の特定の考えに固執する人は、異なった考えを認める姿勢がない人であり、そのこと自体が「穏やかで受容的・共生的な生き方」=「ピース」を体現していない、といえる。ティク・ナット・ハンがいうように、まともな人は、今の自分の知識見解を不変、絶対的真理と思わず、自分の見解にとらわれないようにしている。自愛に満ちた対話によって、伝わるものは伝わるのであり、真理は観念的知識でなく人生において見出されるのだ。

迷信・オカルト・カルト批判

次に、迷信・オカルト・カルト批判の必要性の話。ここも簡単にしか書けないが、安易な「超常現象への無批判性、心霊写真、死んでも生き返る、生命軽視、死後の世界・輪廻観」などには批判的な教育が必要だと私は思う。これらについても見解の違いがあってもいいし、微妙な、深い議論の余地はあると思うが、まずは、基本的な科学的姿勢で、安易な迷信・オカルト的見方を批判することが、実はスピリチュアリティや宗教を積極的に語るために必要なのではないか、と問題提起したい。

しばしば、宗教やオカルト領域では、科学的認識に関わることまで、科学の問題ではなく、信じるかどうかの問題だとすり替えることが行われている。「呪われた場所、心霊スポット、地縛霊、呪い、たたり、水子、占星術、こっくりさん、血液型占い、幽霊、霊視、超能力、予知現象(ノストラダムスの予言)、不思議体験、不可解な観測事実(UFOなど)、テレパシー、虫の知らせ、生まれかわり、前世・来世、幽体離脱」などに対しては、たとえば、安斎育郎『科学と非科学の間:超常現象の流行と科学の役割』(かもがわ出版)、柿田睦夫『霊・因縁・たたり:これでもあなたは信じるか』(かもがわ出版)などによって、不当に体験を一般化・絶対化しないこと、錯誤に惑わされないこと、思考を停止して不可知論に逃げないこと、専門家などといった肩書きに惑わされないことといった基本視点を押さえておくことが必要だと思う。

それは、決して、まともな宗教を弱めはしない。いい加減な認識の背景には、現実生活での自分への不満や自分の力への断念を、非合理な力への信仰(依存)によって自己救済しようという逃避/ごまかしがある。科学的精神を養い、逃避ではないカタチでスピリチュアリティに向かってこそ、宗教もその真のすばらしさを体現できるであろうと思う。
直面している問題の原因を科学的合理的に分析し、それを可決するための合理的な方法を検討し、自然や社会への主体的な働きかけを通じて問題を解決していくという姿勢と、なんら矛盾しない宗教であってほしいと願う。

意識の持ち方(内面)だけを変えればいいというのは、社会矛盾とその変革から人々の目をそらさせる体制擁護の論であり、受苦・受忍の事実上の強制である。私の内面と外面はつながっている。私の内的成長と内的変容は、外的世界の変革と結びつくものでなくてはならない。

過剰な献金(高額商品)、過剰な勧誘、人権抑圧的な処遇、勧誘や教化における洗脳、脱退の自由がないといった強制性/詐欺性などを特徴とするカルト(逸脱的教団、神秘主義の小集団)に対しても、批判が必要である。だが、何が「逸脱性、反社会性」なのか。既成宗教は、カルト性を持っていないといえるのか。そことの自己区別を通じて、まともな宗教やまともなスピリチュアリティ論は立ち上がるであろう。

靖国問題と宗教

そんな中で、今年も靖国参拝をめぐってさまざまな立場から意見が出された。ここでその議論に深入りはできないが、「戦没者の霊を慰める」「魂を鎮める」といった宗教的表現の下に安易に自国中心的/戦争肯定的な言動が行われていることに、私は苛立ちと悲しみを覚える。

私は、敗戦国のみに戦争責任があるのではなく、戦勝国にも戦争をして人を殺したという加害者責任があると思っているが、そこから導き出されるのは、「日本は悪くなかった」ではなく、逆に、「二度と戦争という過ちは繰り返しません」といった非暴力の誓いではないだろうか。

スピリチュアリティの観点からは、「日本のために戦った」かどうかなど問題ではない。人と人は国境を越えてつながっているからである。広島・長崎で原爆のために死んだ人も、日本軍が殺したアジアの人々も、米軍やソ連軍に殺された日本軍人や民間人も、みなが犠牲者である。そのうちの一部(基本は日本軍人)しかたてまつ奉らない靖国に、スピリチュアリティはあるのか。

また同時に、日本人にも中国人にも米国人にも、軍人として敵国側の人間に対し、レイプ、略奪、暴行、殺人、虐殺、といったひどいことをした者が多数いたのは事実だろうし、それをとくに指揮した責任者がいた。その彼らをスピリチュアリティの名において、許すべきではない。その行為を憎み、その再発を防止することこそスピリチュアリティである。

だが靖国は、戦争犯罪加害者・責任者を免罪し、今再び戦争のできる国へと願う人々によって祭り上げられている。そこに宗教の名に恥じない水準はあるのか(靖国・神道は宗教ではないという逃げは不可能である)。その意味で、靖国問題は、「純然たるわが日本国の国内問題」などではない。宗教が問われている。

私は、宗教性、あるいはスピリチュアリティなどは、何処に立ち現れるかという話をしている。つながりであるそれは、つながりの実践においてである。たとえば靖国の問題にタブーをみて触れないところに、スピリチュアリティはあるのかと問うているのだ。

スピリチュアルな関わり(ケア)とは、相手のスピリチュアリティを理解することが第一であり、その理解のプロセスそのものがケアである。自分の価値観を基準に相手を高みから審判するのでなく、相手の世界に入って、相手の物語の筋道、論理の運び方、声のトーン、表情などで、相手のスピリチュアリティを共感の中でつかんでいく。そして、そのプロセスの中で、また自分自身のスピリチュアリティに気づいていくという関わり。それを「寄り添い」というのだろう。靖国に「寄り添い」の姿勢はあるのか。

スピリチュアリティあふれる宗教は、教団や教義・儀式の中に自動的に存在するのではない。人と人が、相互のスピリチュアリティに気づいていくような静かな交流ができること。あらゆる「国境/壁」を越えて、つながりに覚醒していくこと。そこに希望がある。あえて言えば、そこに「真の宗教」もあるのだと思う。

宗教に無知な者が勝手を言わせてもらいました。私の考えていることが少しでも、思考(瞑想、内的成長)の契機になれば幸いです。

プロフィール/文献
立命館大学、高野山大学等非常勤講師(ジェンダー論、スピリチュアルケア論)。日本女性学会幹事。執筆・講演・学習会講師・ファシリテーターなども行う。男女平等・人権問題・社会政策・労働問題・家族/恋愛問題、平和問題、人生(生き方)論をジェンダーとシングル単位の視点から考察している。近年は、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ人権論/人生論の確立やスピリチュアルケア論の研究、自殺防止センターでの電話相談ボランティア、日本ホスピス在宅ケア研究会のスピリチュアル部会の活動、などに取り組んでいる。

主な著書に、『初めて学ぶジェンダー論』(大月書店)、『スピリチュアル・シングル宣言』(明石書店)『シングル化する日本』(洋泉社新書)、『シングル単位の恋愛・家族論』(世界思想社)などがある。
スピリチュアリティ関連では、
『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店の他に、
「スピリチュアルケアをめぐる議論を見渡す」『大阪経大論集』54巻第5号 
「自殺防止活動とスピリチュアルケアについて」『大阪経大論集』54巻第6号
「幸福な生き方、充実した生き方について」『大阪経大論集』55巻第2号 
「スピリチュアルに生きる人々@〜G」『大阪経大論集』54巻第5号〜55巻6号
などがある。(経大論集原稿の一部は、伊田のHP および大阪経大のHPで閲覧可能)


大峰山質問書の意味

05年11月3日「大峰山プロジェクト」に関して:その3
                          イダヒロユキ
                          (11月8日記)



まず、「G-FRONT関西」と「「女人禁制」を考える会」は、今回の登山プロジェクトの主催者ではありません。そこの掲示板に心無い書き込みがいつものごとく集まっており、荒らされています。
自分のHP・ブログで意見表明するのは勝手ですが、「荒らす」のはやめていただきたいと思います。中にはまともな意見もあります。しかし、こうしたメール上での議論はほとんど不毛です。誤解を生みます。誠実に考えコミュニケーションしたい人こそ、掲示板に書き散らすというスタイルをしないと私は思います。
どうしても伝えたい意見は、ominesan_tozan@sakai.zaq.ne.jp のほうへ送ってください。



次に、『「女人禁制」Q&A』(解放出版社)を読んでから言っていただきたいなと思う意見がたくさんあります。皆さんが読んでいるということはないのはわかっていますが、自信満々に非難・批判をする人には、やはり、先ずは『「女人禁制」Q&A』を読んでよねといいたいですね。ある程度のことさえ知らずに言われている意見が多いので、知っていただいてから意見をいっていただければ、もう少し冷静に、相互尊敬をもって話せるのではないでしょうか。
再度言いますが、私のスタンスは、異なる意見のものをバカにするのはやめようということです。



「今回あなた方は「登山をやめて欲しい」と懇願している地元住民の意思を 踏みにじって強硬に登山したそうですね。」などといったまちがった意見がウェブ上で飛び交っています。まったく事実に反しています。何も当日の状況も知らずに、一方的情報を無批判的に鵜呑みにし、色メガネで見て決め付ける姿勢がここにも出ています。そして2チャンネル的に「チンピラのような理由だけで他人の心を踏みつけにする悪魔達は地獄に落ちて欲しい。」といったような言葉が並んでいます。

どうか、このHPを見ているまともな方は、冷静に全体を見ていただきたいと思います。新聞報道やブログ上での一方的情報を鵜呑みにしないでください。
私たちのやり方に不十分点もあっただろうと思います。それについては、今後会議を持って反省点をまとめて公表したいなと、私個人は思っています。

しかし、少しでも全体を見ることのできる人なら、書き込みに出ている多くの誹謗中傷、罵り、非難の類が的外れであることがわかるでしょう。私たちの姿勢は、対話を求めるものでした。対話を拒絶し、聴きあわない対立の構図に持ち込んだのは私たちではありません。一方的に誹謗するような姿勢の人こそ、自分の暴力性を振り返るべきでしょう。

「ジェンダーフリー」という概念一つでも、私はそれの有効性を主張しています。しかし、よく知りもしない人が、調子に乗って「ジェンダーフリー」をしたり顔で批判しています。そのようなことがいっぱいあるのです。今回もそのようなことが起こっています。

でも私は、希望をまったく捨てていません。まともな人には伝わるという確信があります。「女人禁制」を残すべきだとはやはりいえないでしょう。さまざまなことを乗り越えなくてはならないとしても。

4 

誤解が多い点なので、私たちが出した質問書の意図を私なりの言葉で簡単に書いておきたいと思います。

質問1 「大峰山」に女性が入山してはいけない理由をお聞かせください。「伝統である」という場合の、その伝統が作られた理由(なぜ「女人禁制」にしたか)を教えてください。文書があれば、それも教えてください。

→ 説明の必要はないと思います。文言どおりです。

質問2 戸籍上で男から女に性別を変更した人は、入山してもいいですか?
質問3 戸籍上で女から男に性別を変更した人は、入山してもいいですか?
質問4 身体は男性ですが、自分の性の意識(性自認)が女性の人は、入山してもいいですか?
質問5 身体は女性ですが、自分の性の意識(性自認)が男性の人は、入山してもいいですか?
質問6 戸籍上の性別は男ですが、性別適合手術などによって身体は女性になっている人は、入山してもいいですか?
質問7 戸籍上の性別は女ですが、性別適合手術などによって身体は男性になっている人は、入山してもいいですか?
質問8 戸籍上は男性ですが、服装・髪型などの外見が女性的である人は、入山してもいいですか? 歌舞伎の女形が女装している場合には入山が許されますか?
質問9 戸籍上は女性ですが、服装・髪型などの外見が男性的である人は、入山してもいいですか? 宝塚の男役が男装している場合には入山が許されますか?

→ 以上の質問2−9は、「女人禁制」を正しいことだと考えている人たちに、男女2分法の枠内に当てはまらない人々がいるということをしっていただき、その点から、自分たちが排除している「女人」「女性」とは何なのかを考えていただきたいと思って提出した質問です。
急に言ってもわからないかもしれませんが、当日、当事者の人がいくので、その思いを聞いていただきたかったのです。その存在を感じていただきたかったのです。男性、女性の2つしかないと思っている方もいらっしゃるかと思いますが、だからこそ、質問書をみて、考えはじめていただきたかったのです。自分たちのやっていることが「当たり前」と思っておられる人に、従来考えられてきた「女」・「男」だけではない、どちらでもない人がいるときに、「女性」という定義は揺らぐはずです。揺らいだとき、再び、なぜ、女性を排除するのかという問いが、別の角度から浮かび上がってきます。そうした思考の出発点をつくりたかったのです。「男性なら良くて、女性ならダメ」ということの自明さが揺らぐというところに行きたかったのです。

11月3日、私たちのこの質問書をそこに来ている地元の人に配ろうとしたとき、区長はそれを阻止し、あとで皆さんに渡しますといいました。事前に3本山5護持院に送付しておいたので、私としては、村の皆さんにもその情報が行き渡っているものと考えていました。
でもそれは甘かったようです。
当日、あそこに来られた村の人々50−100人の方々の多くは、あの質問書自体を見ていないようでした。また見ていてもさっと批判的に見ただけで、そこに込められた真摯な思いを汲み取ってもらっていないと感じました。それでは、私たちが何を対話しようとしているのかも判らないと思いました。
そしてその質問書を前にして、あそこで説明をしたかったのですが、それもさせてもらえませんでした。確かに質問書だけではわかりにくかったかと思います。そこは私たちの不十分点の一つでしょう。

でもだからこそ、あの場で、これはどういう意味ですか、と聞いていただければ、説明もでき、誤解を解くこともできました。決して失礼な問いを面白半分に投げつけたつもりはなかったのです。そうした対話を始める道具としての質問書でした。全国で賛同してくださった多くの方も、質問書のそうした積極面に共感してくださったものと思っています。

以上のことは以下の質問についても言えることです。

質問10 男性同性愛の人は、入山してもいいですか?女性同性愛の人は、入山してもいいですか? 

→ この質問は、女性の入山を排除する理由の一つとして「修行のジャマになる」ということがあるので、それならば、同性愛の場合、男性が横にいても「修行のジャマ」になるのではないかと問うことで、「修行のジャマ」という理由の正当性自体を考えてこたえていただきたいと思って質問したものです。

  また女性同性愛者は、男性に性的興味を持たないと考えられますので、「男性のジャマ」にならないのではとも考えられます。これは少し、無理な発想ですが、一応ここで聞いておきました。

狙いは、みなが異性愛であるという前提はなりたたないということをお伝えしたかったのです。そうしたとき、「修行のジャマ」ということと「女人禁制」との間には齟齬が生じるということを提起したかったのです。「女人禁制」は異性愛と男女2分法を前提にした制度です。しかしその基盤自体が揺らいでいることを知っていただきたかったのです。
そしてこうしたことを考えていく延長に、そもそも、修行ということと、「セクシャルな魅力のある人が傍らにいる」こととが本当に矛盾するのか、という問いにつながって行くと思っていました。


質問11 修行者・僧侶が性別を変更したものであるとか、同性愛者であると明確になった場合、どのような対応をされますか?

→ ご存知のように、2004年7月に「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」が施行され、一定の条件付きですが、性別の変更が可能になりました。
とすれば、上記質問2−9にも関わりますが、男性のように見える方も、ひょっとすると、性別を変更された方かもしれません。そこで、性別を変更されたとわかったとき、「女人禁制」を守ろうとされる方はどう対応されるのか、純粋にお聞きしたかったのです。
同性愛者については、質問10に関わりますが、同性の存在が「修行のジャマ」になりうるのかもしれないと思い、その場合、どう対処されるのかをお聞きしました。

質問12  月経(生理)がない/終わった女性は、入山してもいいですか?

→ 「女人禁制」の理由の一つに、「女性は穢れている」という認識があります。穢れ意識には月経・出産などでの出血が関わっているとも言われています。そこで、「月経がない/終わった女性」なら、どう考えておられるのかを聞くことで、「穢れ」を理由にされるのかどうかをお聞きしたかったのです。
この点は、質問1に関わります。


質問13 部落出身者の入山が禁止されていたことがあったかとおもいますが、それが変えられたのはいつで、理由は何ですか?

→ 「女人禁制」の最大の理由としては、「伝統だから守る」というものがあげられています。私の頭脳では、それは説明になっていないようにおもうのですが――たんに現象をなぞっているだけ、或いは、トートロジーのように思える―――、とにかくこの言い方が幅をきかせています。そこで、「伝統なら絶対何があっても変えないのか」ということを問いたいと考えました。そして、実は、伝統としては、部落出身者も排除していたことがあるので、伝統といえどもひどいものは変更したではないかと問うているわけです。
この問いも、真摯に受け止めてもらえば、思考が始まるはずのものです。とても大事な問いです。

質問14 男性なら誰でも入山していいのでしょうか。男性で「過去に犯罪を犯した人、現在犯している人、執行猶予中の人、ナチス礼賛者の人、しょうがい者、ハンセン病患者(回復者)、外国人、異教徒の方」の中で、入山してはいけない人はいますか?

→ この問いは誤解を受けやすいかと思いますが、狙いは、修行のための「聖なる場所」を守るという理由で「女人禁制」といいつつ、男性ならだれでもいいというのは、あまりにご都合主義ではないかと感じましたので、問いかけてみました。

女性でも修行したい人はいます。女性でも素直にハイキング・登山したい人がいます。それが、「聖なる山」を汚すとは思えません。
逆に、ここは人権と絡む微妙な問題ですが、人権侵害をするようなひどい人が入山するのは、聖なる山を汚さないのかという問いを出して聞きたかったのです。そのため、あえて、「過去に犯罪を犯した人、現在犯している人、執行猶予中の人、ナチス礼賛者の人」と書きました。
しかし人権の観点からは、そうした人に対しても入山拒否すべきではないように思います。そして事実、「大峰山」はそうした人を排除していません。それはいいのですが、だとしたら、なぜ「女性」は排除なのかと再度、問いは帰ってくるのです。「過去に犯罪を犯した男性、現在犯している男性、執行猶予中の男性、ナチス礼賛の男性」よりも、「女性」は「穢れている」「聖なる場所を汚す」というのですか、と聞きたかったのです。

また、「しょうがい者、ハンセン病患者(回復者)、外国人、異教徒の方」は、過去、疎まれていたり、差別の対象でした。「聖なる場所」を汚すものと見るような偏見もあったかと思います。しかし今、もちろん、そうした方々の入山拒否はしていません。伝統を変えたのです。そうした方々の入山を認めるのは、まともな対応だと私は感じました。であるなら、女性も過去、差別の対象でありましたが、現代においては、入山を認めればいいのではないかと問いたかったのです。

問い15 修行とは関係なく登山・ハイキングを楽しむために入山・登山している男性がいるかと思いますが、では、同じ目的の女性も入山してもいいように思うのですが、どうして修行とは関係ない女性が入山することは禁じられているのですか。

→ この問いはあまり説明が要らないように思います。

問い16 男性が修行するのに、女性はジャマですか。

→ これは、問い1にも関わりますが、大事なことなので、あえてここで明確に聞きました。

問い17 「大峰山」に関わる修行するもの、宗教者、修験者などの中には、結婚されている方もいると聞いていますので、性交渉(セックス)自体の否定はないとおもいますが、では、「大峰山」の中で性交渉することはどうなのですか? その理由も教えてください。 また修行に行く直前に、あるいは修行を終えて下山してきた直後に、「大峰山」のふもとの宿の中で性交渉することは戒律上どうなっていますか。

→ こうしたセクシュアリティ、セックスに関わる問いは、フェミニズムやジェンダー研究をしているものにはなんら抵抗はないのですが、今の日本では、こうした問い自体を不快に思われる方もいるようです。ここは決して興味本位、あるいいは「失礼な質問をぶつけてやろう」と思って出したものではありません。極めてまじめに問いかけをしています。

質問の狙いは、「女人禁制」の理由として女性がいると「修行のジャマになる」ということだそうなので、その中身は、性的欲望対象がいると性的なことを考えてしまい集中できないというようなことがあるのかと推測して、いくつかのことを聞こうと思ったのです。

まず、修行ということと、セックス或いは性的なことを考えるのは本当に矛盾するのかと聞きたかったのです。私あるいは私たちの中には、性的(セクシュアル)な面での解放は決して恥ずかしいことではなくすばらしいことだという考えがあります。ですから素直に、セックス(性交渉)をすることと、聖なる修業は矛盾しないのではないかと思ったのです。少なくとも私は、山の上で、夜、セックスやマスターベーションをするのはだめなことではないのではないかと思っています。そこで、その点を聞いてみました。

次に、「女人禁制」の結界門の外側にでてくると、過去、売買春のようなことがあったと聞いています。とすると、修行とセックスの関係はどうなのかを単純にお尋ねしたかったのです。現代においては、山のふもとで売買春があるとはおもいませんが、山のふもとまでは女性も来れるので、修行の前やあとの、妻あるいは恋人とのセックスはどうなのかを素直に聞きたかったのです。
これによって、セックス(性交渉)というものをどう考えておられるのかをお聞きしたかったのです。修行と対立するものなのか。対立しないものなのか。対立しないなら、山の中に女性が入ってもいいのではないのか。
というのは、これが、「女人禁制」の理由とどう絡むのかを考えたかったからです。そもそも、女性がいるから修行のジャマになるというのが、どういうことなのか、よくわからないのです。そのためにこのようなことをお聞きしたかったのです。
失礼に感じた方がおられたとしましたら、不十分な問いだったかと思いますが、意図は以上のようなマジメなものでした。


問い18 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
問い19 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

→ この2つの問いも、その意図を理解してもらっていないとき、「失礼だ」と誤解を受けやすいかと思いますが、信頼感があればその意味は十分理解していただけるものと思います。この問いの狙いは、現在、「大峰山」は女性を排除しているわけですが、もし、男性どおしの性交渉が認められているなら、女性がいてもいい(女性の存在があっても、性交渉するわけでもなく、ただ意識してしまうという程度のことなのだから)ということになりそうなので、聞いてみたわけです。
  そして、もし、男性どおしの性交渉がダメなら、やはり、問い10,11に関わることが出てくるわけです。男性も排除しないのかと。
  また山の中でマスターベーションするということは、「女人禁制」の考えでは、それもダメということではないかと思ったので、聞いてみたわけです。しかしひょっとすると、そうしたことは何も規制していないという返事があるかもしれません。わからないので聞いてみたいと思ったのです。

  でも多分、マジメに、聖なる山の上で、そのようなことをするわけがないだろう(そんなことを修行に来たものがするはずがない)といわれると予測しています。でもだからこそ、聞きたいのです。では、たとえ女性がいても、聖なる山の上で、修行するとき、女性の存在など眼に入らないのではないのかと。女性がいても修行できるのではないのかと。そのようなことを考えるはずがないだろうと。ではなぜ、「女人禁制」なのか。
  つまり、私たちは本当に、「女人禁制」を続ける理由がわからないのです。だからいろいろな角度から問いを出して、知りたいと思ったのです。

  次に、登山者やハイカーの男性はたくさん入山しています。その人たちは、別に修行をしているわけではありません。その場合、その人たちが、性的欲望を感じるようなことを考えてもいいとお考えなのかどうかを知りたかったのです。登山者がセックスしたりマスターベーションすることは許可されているのか。それは聖なる場所を汚すとお考えなのか、それは別にかまわないということなのか。
  それが別にかまわないなら、修行とは関係ない女性も入ってもいいように思うがどうなのか。

  セックスしたりマスターベーションすることが聖なる場所を汚すのでダメだというなら、次のポルノ雑誌の質問が絡んできます。
  ポルノ雑誌のことを書いたのは、マスターベーションのとき、それを用いる場合が多いと思うので、もし、マスターベーションのようなことを禁じるとしたら、ポルノ雑誌の類の持ち込みも禁止なのではないかと類推して聞いたわけです。そしてポルノ雑誌の持ち込み禁止を看板に書いたりしているのかどうか、お聞きしたいと思い、それとの関係で、女性の存在は、ポルノ雑誌と似たようなものなのか(だから入山禁止なのか)どうかも話しあってみたいなと思ったわけです。
  別に持ち込んでいいなら、なぜ女性だけ入山禁止なのか、ここから考えても女性が入ってもいいということにつながるかもしれないと思って、聞いてみました。

  繰り返しますが、こうした質問をする私たちの感覚は、セックスやマスターベーションを汚らしいものとは思っていないというところから出発しています。ですから、バカにしたり、失礼な扱いをしてやろうと思って聞いているのではないのです。しかし、解説ナシで読むだけでは、誤解を与える不十分な聞き方だったかもしれないと私は少し反省しています。
  説明することで、誤解は解けるものと信じています。

問い20 山の上に酒を持ち込んで飲むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

→ この問いも、問い18,19と同じで、飲酒という行動は、聖なる山を汚すのかどうか、汚す行為なら、飲酒を禁止しているのかどうか、酒の持ち込みは禁止しているのか、禁止していないなら、どうして女性だけ入山を禁止するのか、などと話をしてみたかったのです。

問い21 もし女性が入山したら、どのようなことがその人に起こりますか。また周りの人にはどのようなことが起こりますか。また山や環境などにもどのようなことが起こりますか。
問い22 過去に「大峰山」に登った女性たちのことをどう思っておられますか? 

→ 「女人禁制」が続いていますが、一方、『「女人禁制」Q&A』の本にも書いてあるように、過去、多くの女性が実際には入山/登山しています。それに対して、どうお考えなのか、教えていただきたいと思っていました。
聖なる山を汚す行為をしたひどい人なのか? だからそういう人には神様の罰が下っているのか? 誰にどのような影響が起こるのか。起こると思っておられるのか。実際、起こったのか。

こうした問いから、本当のところ、女性が入山して、何が問題なのか、そこのところを知りたいと思ったのです。私のホンネでは、過去女性が入山しても別に問題はなかったのではないのか、という思いがあります。一部の人はそのことを快く思わなかったでしょうが、そもそも、女性が登っても、実害はないのではないのか。つまりただ、「女人禁制」を続けたいという人の考えが「女人禁制」を続けているだけではないのか、という思いがあったので、この問いを出してみました。


問い23 犬や馬や猫などの動物のメスが入山してもいいのはなぜですか?

→ この問いもふざけているのではありません。ギリシャ正教の聖山アトスでは、ネズミを捕る猫以外は、家畜でもメスはだめとされているそうなので、聞いてみました。大峰山も「女人禁制」をするなら、動物のメスもダメとしているのか、していないのかを知りたいと思い、動物のメスがよくて人間だけメス(女性)がダメなのはどうしてかも聞いてみたいと思いました。

なお、「大峰山」と「アトス山」には、違いがあると言われています。アトス山は、隔絶された場所で、基本的に厳しい戒律を守る修道士だけが生活しているところで、妻帯も不可となっています。外部のものが入るには、巡礼事務所の許可が必要で、その許可がなかなか下りず、許可が出ても原則3泊4日までしか滞在できません。
それに対し「大峰山」は男性ならハイキングを含めて誰でも入れます。結婚もできます。かなり違います。
しかもアトス山においても、欧州議会は、「男女同権」「EU内を自由に行き来する権利」に反するとの決議を出しています。アトス山の例があるから、「大峰山」でも「女人禁制」を続けていいのだというわけにはいきません。(『「女人禁制」Q&A』p171参照)


問い24 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」その他「聖なるもの」は、人権侵害、暴力、差別を認めないのですか? 時には認めますか?

→ もちろん、「人権侵害、暴力、差別など認めない」と考えておられるだろうと思っています。でも、そのことをはっきりとお聞きしたいと思います。そしてその上で、では、「女人禁制」は人権侵害や差別ではないのか、対話を重ねないのは暴力的態度ではないのかと問うていきたいと思っています。
もちろん、「区別であって差別でない」という言い分を言う方もいらっしゃるでしょうが、まさにそこをめぐっていろいろ話し合いがなされる点なのです。あらかじめ答えが決まっているのではなく、考えの異なるものたちがいるのです。そのものたちの対話を始めるためにも、この原点の確認をしておきたいと思いました。これは、私たちが共通に立つ基盤だと思うからです。人権に勝る伝統や慣習はないのではないかと思うのですが、そうでないという意見もあるでしょう。でも人権が大事という原点は共有したいと思っています。

問い25 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」「聖なるもの」は、すべての人を平等に愛するとおもうのですが、入山したいという女性を苦しめるのはなぜですか?

→ これも単純に意見が一致するとは思っていません。でも、「女人禁制」で辛い思いをしている人がいるのです。「外部のもの」が遊び半分でいっているのではないのです。そういう場所があると言うことは、実は、この社会のさまざまな場面での差別というものがあることの反映の一つなのです。フェミニストや性的マイノリティの人権擁護を考えるものたちにとって、そうしたものとどう向き合うかということがとわれているのです。
今、ジェンダーフリーバッシングや性教育バッシングが横行しています。そういうものとどう向き合うかも同類です。すべてはプロセスです。「大峰山」解放だけが大事なのでもなければ、それさえあればこの世の差別がなくなるというものでもありません。でも、相撲の土俵にしろ、女性の天皇をめぐる反対論にしろ、その他さまざまなところでのジェンダーバイアスや女性排除、女性蔑視ということと、「大峰山」の「女人禁制」はつながっています。だからこそ、多くの事を考えることの一つとして、この問題胃にも向かうのです。

また、この問い25は、別の角度からの意味も持っています。それは、聖なる山のスピリチュアリティは、人権ということとどう関わるのかという問いです。聖なる修行の山だということはすばらしいと思います。でもだからこそ、普通の場所以上に、あらゆる人に優しい、誰も差別せず、誰もを癒す場所なのではないかと思うのです。そういう場所において、「女人禁制」が本当にふさわしい特性なのかということを話し合いたいと思って、この問いを出しました。


問い26 ある宗教の教義・経典・宗教文書などが人権侵害の内容をもっていたとき、それを変えるべきと思いますか?
問い27 「大峰山」の伝統は誰がいつごろ作ったのですか? 証拠・文書はありますか。
 
→ この2つの問いも、問い13や25に関わって、伝統というものを不変のものとするのか、変えていくことも必要とおもっているのかということを話し合うための問いです。
私は、伝統を大事にしつつも、人権侵害など問題がある箇所は変更していき、豊かなものに発展させていくのがいいのではないかと考えています。
2003年には、欧州議会で「いかなる伝統、慣習も、人権より優先するものであってはならない」という決議もなされました。

問い28 登山道の一部は公道だということですが、そこの通行を制限することに問題はないのですか?

→ この点については、かなり詳しく『「女人禁制」Q&A』に書いてあります。今回の私たちの行動に対する非難のうちで多いものの一つがこの点に関わるものです。つまり、「大峰山」という宗教の場所をどうするかは宗教団体が決めればいいのであって、外部のものがとやかく言うべきではないという考えです。「尼寺に男が入ってもいいと思っているのか」「宝塚歌劇団に男性が入っていいと思うのか」などとよく言われます。それを言って得意げに論破したと思っている方が多いのです。

しかし、「大峰山」の「女人禁制」の結界門から山頂への登山道は、公道です。「女人禁制」区域には公道が含まれているのです。ですから法的にいって誰もが通れる道なのです。尼寺や宝塚の問題とはまったく性質が異なります。道の補修も税金でなされています。宗教教団の私有地ではないのです。
公の場所に、特定の人々が、女性をいれないというのは、憲法や男女共同参画社会基本法にも抵触しないのでしょうか。
ですから、「女人禁制」をする主体に、どのような権利があってそれを行っているのか、法的な問題をどう考えておられるのか、お聞きしたいとおもってこの問いを出しています。(『「女人禁制」Q&A』p200−212参照)

問い29 「女人禁制」に関する関係者や信徒の皆さん全体の意見をどのようにして把握されているのですか。アンケート調査や投票行動などをされたことはあるのですか?
問い30 今でも一部の信徒は開放すべきという意見だと聞きます。信徒など関係者の過半数が「女人禁制をやめよう」という意見になったら、伝統を変えますか? 過半数でも変えない場合、開放派が何割をこえたら開放されますか?

→ この2つの問いは、どのようにして、「女人禁制」を廃止することができるのかというプロセスの展望を持つことを考えるための重要な問いです。伝統だから絶対変えないというのか、みなの意見の結果として「女人禁制」を維持しているのかという大事な点です。

11月3日の成果の一つとして、この点に関しては少しお話が聞けました。つまり、いままで、ちゃんとみなの意見を調べたわけではないが、感触として8:2、あるいは欲目で9:1程度で「女人禁制」維持派が多いと区長さんは思っているとのことでした。統計調査はなされていないのです。そして小さな村社会です。異なる意見を言いにくい雰囲気があるといわれています。

 ですから、私たちは、関連団体の中で、「女人禁制」を廃止してもいいのではという意見を出せる場所をつくること、情報や外部の人との話も含めて、話し合いが積み重ねられていくこと、などが大事だなと思っています。
そして過半数を超えたらその団体は開放派になること、そして関連団体の多くあるいは全部が開放派になれば、「女人禁制」が廃止されるのだということがわかってきたのです。つまり、変化の可能性はあるのです。あとは、各団体で民主主義的なことが保障されていくことが必要でしょう。そうした点を話し合っていくための問いとして、この問いは重要なのです。


問い31 『「女人禁制」Q&A』(源淳子編著、解放出版社)では、さまざまな観点から、女人禁制が批判されています。これらの点をめぐって、じっくりと意見交換・勉強会をしたいと思います。そうした話しあい/学びあいの場をもちませんか。

→ その意図は明白でしょう。

以上、質問書の意図を解説してきました。ふざけているのではなく極めてマジメに質問しています。「ふざけている」と思われた方の誤解が解けることを願っています。不十分な点は反省したいとおもっていますが、バカにしたりふざけたのではないと理解していただくことと平行して、「この問いはもっとこう聞けばいい」、「この聞き方は意図に反してここがダメだ」というような建設的な意見をいただければと思います。


新聞記者の方にも、不用意な表現の記事によって誤解が生じている面があるかとおもいますが、本稿などをみて、誤解を解く方向で新たなる記事を書いていただければうれしいなと思っています。

まだまだ書くべきことはありますが、まずはここでいったん閉じます。

注:
前稿「その2」のなかの字の訂正    語寺院  → 護持院






「大峰山」のこと:2

05年11月3日「大峰山プロジェクト」に関して:その2
                        イダヒロユキ
                         (11月7日記)

11月4日に書いた文章(以下、「前稿」と呼ぶ)の続きを書いておきます。

あの場では無理だったか?
11月3日の女人結界門の前という、あの場が「最初から敵対的雰囲気であったではないか、だからあそこでのワークショップ的友好的な話し合いは最初から無理だった」という意見があるかと思います。

しかし、では、いったいどこに、敵対的でない、話し合いの場所や雰囲気があったというのでしょうか。この世の中は女性差別にあふれており、そのことを指摘すれば10倍の声で、それは差別じゃない、伝統を守れと反撃がきます。この大峰山問題でも、はじめから「女人禁制」開放を求める人々には偏見が付きまとっており、ひどいやつらだというレッテルが貼られていて、話し合いをして相互理解を探っていこうとする場はどこにも設けられていません。2004年に「世界文化遺産登録にあたって『大峰山』の『女人禁制』の開放を求める会」が開放賛成の署名を集めて提出したあとも真摯な話し合いの場は設けられていません。6年ほど前に実際に登った女性のことが報道されると、激しいバッシングがありました。
また性的マイノリティは、その存在さえも無視されたり揶揄されており、まともにあつかってこられなかったのです。「女人禁制」ということの前で、誰がどういう思いで悲しく思うのかということに、耳を傾ける雰囲気は、この世には、ほとんどなかったのです。
後にもう少し詳しく紹介しますが、今回のことでも、5つの語寺院は事前に送った質問書に答えようとさえせず、最初から相手にしない、ただ登山中止を求めるという問答無用の姿勢の返答をしてきており、それを受けて、地元の人々(その代表)は、11月3日最初から聞く耳をもたずに臨んで来ました。今回の報道のあとでも、インターネット上で、今回のパフォーマンスに対して、よく事情も知りもしない人々が、悪意の言葉を投げつけ、ものすごいバッシング状況です。女性憎悪、フェミニズム憎悪、フェミへの無理解は、事実としてたくさん存在します。

 これは何を意味するのでしょうか。大峰山「女人禁制」開放について、開放を求める人であるとかフェミニストというだけで、多くの人が、敵対的対応をとっており、話し合いを模索していこうとする雰囲気はほとんどないのが現状であるということではないでしょうか。

それに対し、今回のパフォーマンスにおいて、あの場で、友好的とまでは行かなくとも、先ずは相手の顔を見て、言い分を少しでも聞いていくということは可能だったのです。
ところがそのチャンスをみすみす潰し、敵対的雰囲気にしたのは、誰だったのでしょうか。誰が最初から問答無用の姿勢だったのでしょうか。登山プロジェクトを企画した私たちは、「地元の人の意見などどうでもいい、とにかく登るんだ」などという姿勢ではありませんでした。あの場で話し合いをしたかったのです。

私個人は女性が登るのは何も悪いことだとは思っていません。「女人禁制」はやめたらいいとおもっています。ですから、登ろうとおもってあそこにいくこと自体が悪いこととも思わないのです。しかし、それを嫌がる人がいる。反対の人がいる。そのこともわかっているからこそ、質問状を出し、そこで考えの異なる人々(異文化の人々とも言えるでしょう)が出会い、話し合ってみたかったのです。けんか腰ではなく、穏やかに。静かに。

説得されたのか?
一部新聞には、登山中止を説得されて、グループは納得したので登山を中止したというような趣旨の報道がありました。しかし、前稿に書いたように、私(そして私たち)は、まったく納得していません。

「A側の説得があってB側が納得する」というプロセスには、A側の一方的語りだけでなく、B側の質問や反論や意見をA側に出し、双方の議論、やり取りがあって、ようやく、B側が納得するという結果にいたるものです。しかし、今回、そうしたやり取りの余地は最初から、地元代表の区長の態度によって排除されていました。「話し合いをしません、意見も気持ちも聞きません、質問にもお答えしません」という姿勢だったのです。

そうした中でどうして「納得」できるでしょうか。私たちはまったく納得していない。新聞記者、及び読者の方々に、ぜひこの点は伝えておきたいと思います。

私たちの多くが登らなかったのは、「女人禁制」維持の論理に「納得」したからでなく、むしろまったく「納得」できていないからこそ、今後にこの続きをどうしてもしなくてはいけないと思ったからです。まだまったく途中なのです。一方的にあの場を去っていかれたからこそ、話し合いをしたかった私たちは、不満や不充足感でいっぱいでした。

その意味で、「大峰山」側の登らせないという政治的姿勢は貫かれたのです。「私たちはお願いした。後はあなたたちが決めること」と言い放って、話し合いをせずにその場を去ることで、これで登山したら「だからあいつらはひどいやつだ。地元住民の気持ちを知っているくせに登山するとんでもない輩だ」というレッテルを貼ることができるという作戦であることは明白でした。

しかし私たちは敵対的行動に出ること自体が目的ではなかったので、「じゃあ、登山しよう」とはならなかったのです。ルンルン気分で登ろうとはならなかったのです。そして今後話し合うという約束だけは何とか取り付けたのです。ですから、あの場で解散しました。
私の感覚は、あのような「登山中止要請だけ宣言し、お願いしますとだけ連呼し、その場を去る」という政治的行動自体を嫌悪します。私は、政治的駆け引きをしたいのではないのです。心をわって素直に地元の人と話し合いをしたかった。まさにそこに、私たち「女人禁制」開放派の思想があるとおもうからです。闘って敵に勝ちたいのではない。どちらが力が強いか、どちらが駆け引きがうまいかを争いたくないのです。
でも、従来どおり、戦いの姿勢で対応されてしまいました。それはまさしく暴力的でした(暴力とは物理的なものだけではありません)。
残念です。そして悲しいです。この世は、暴力だらけです。

そのときの私(多分私たち)は、とりあえず「負ける」ことを選びました。「大峰山」側の狙いがわかっており、してやったりとおもうだろうともわかりながらも、また、新聞に不十分な記述がされ、バッシングだけが広がるであろうという予測がありながらも、今後への期待を込めて、あの場では、ただ解散しました。

非暴力闘争の「勝利」とはなんなのでしょうか。私は、敗北するのも必要なプロセスだと思っています。負けても、その志の高さを示していく。その中で、相手方に、何を伝えたいのかが伝わっていく。そうした「戦い方」が非暴力闘争なのです。政治的駆け引きで、相手が悔しがる勝利をすることが目標ではないのです。今度の例で言えば、「大峰山」開放を願う人々や性的マイノリティの人たちやフェミニストの、生き方や思いや志が伝わっていくことが狙いなのです。

すぐに効果はないでしょう。
しかし、新聞記者の方々には、少しは伝わったのではないかと思っています。私たちの声を聴いて、立ち振る舞いを見て、こいつらは何を考えているのかを少しは感じとっていただいたと思っています。

そして地元の人でさえも、今回、始めて顔をあわせたわけです。その上で、この文章を読んでいただいたりすることの積み重ねの中で、かならず、「敵対的対応」だけではない対応が出てくるものと信じています。
そして、その方法論こそ、私(および多分私たち)が伝えたいことの真髄なのです。「女人禁制」はその表面的現象に過ぎません。山に女性が入るか否か自体が大事なのではなく、この過程の中で、何にこだわっているかが伝わるかどうかが、大事なのです。
性的マイノリティの人権を含めた性差別を考え、差別をなくしていくということは、そういうことなのです。

☆  ☆  ☆

前稿の字句の訂正をしておきます。

第4段落の4行目
「一歩的」は、「一方的」の誤りでした。

「桝谷源逸区長が・・・・と登山中止を一方的に求めただけで、「今日は話し合いはしない、質問書にも答えない、そちらの言い分を聞くこともしない」という姿勢を一貫して示していた」

が正しい文章です。




大峰山でおこったこと

05年11月3日の「大峰山に登ろうプロジェクト」に関して
                        イダヒロユキ

すでに新聞報道を見られたかもしれませんが、11月3日、「大峰山」にいってきました。こちら側は35名程度の参加者でした。しかし新聞報道では、昨日の状況について私の捉え方とかなり違うまとめ方をされているところがありました。そこで、私個人の責任で、簡単に11月3日の状況の報告をしておきたいと思います。
詳しくは、後日まとめる予定ですし、実行委員会としてのまとめなり、意見も出す予定ですので、これは暫定的な個人的まとめです。

先ず、いくつかの新聞報道で「地元住民約100人と議論した結果、登山中止」「大峰山登山口にらみ合い 団体と地元 女人禁制議論物別れ」「話し合ったが、物別れ・・」「地元の住民ら約50人が登山を取りやめるよう説得にあたった」「地元住民らが引き上げたため、グループ側も今後も話し合いを継続するとして納得」「説得応じ大峰登山中止」といったような表現がみられました。
  
しかし、私の認識では、「議論や話し合い」は事実上していません。「説得に応じた納得」もしていません。「にらみ合い」でもなかったと思っています。でも、新聞記者の方にこのように書かれたという意味で、このように伝わったのだと思いますので、ここで説明させていただきたいと思います。

私が捉えた事実は、地元の洞川(どろがわ)地区信徒総代、桝谷源逸(ますたに・げんいち)区長が「先人から受け継いだ伝統や生活がある。地元の心情を理解してほしい」と登山中止を一歩的に求めただけで、「今日は話し合いはしない、質問書にも答えない、そちらの言い分を聞くこともしない」という姿勢を一貫して示していたというものです。

私たちが、「話し合いをしたい、そちらの方々の普通の人、とくにここに来ておられる女性の方の意見や気持ちを聞きたい」といっても、「いや、今日は私だけが代表として話すし、他の方は話しません」と拒絶されたと受け止めています。
そして、私が「ここに来ている性的マイノリティ(少数派)の人たちや女性の人など参加者個々人の思いを聞いてください」といっても「いや、聞きません」と拒絶されたとおもいます。呼びかけ人の他の方からいくつかの質問を出しても、それを契機に議論に入っていくようなことはほとんどなく、浅いやり取りで止められてしまいました。

その入り口でのやり取りの中ですこし、「何を基準に男女を分けるのですか」「女人禁制を続けるに当たって、みなの意見を聞いたのですか」というような話はすこしはできました。そこでは、8対2ぐらいの割合で「女人禁制」維持派が多いという感触を得ている、との返答はありました。

そういうやり取りは結果としてすこしできましたが、話し合いはしないという拒絶の中で、最後まで、こちらの言い分を聞くという時間はなかったと思います。

そしてほとんど話も深まらないまま、多くの時間は、区長が一方的に言い分を話すのを私たちたちはだまって聞いていました。すこし口を挟みましたが、まずは相手に話してもらうのをさえぎらないでおこうと思ったので、言葉をさえぎってこちらの言い分を話すのでなく、聞いていたのです。論争して論破することが目的ではなかったからです。

そしてその中で、「今日は無理やり登りたいのではなく、ここで話し合いたいのです」と何度かいって、こちらの参加者の一人一人の声を聴いてほしいと何度かいったのですが、それは一切拒絶され続け、そして30―40分ぐらいたった時点だったかとおもいますが、区長が、「私たちはとにかく登らないでほしいということは伝えました。後はあなたたちが登るのを実力でとめるようなことはしません」との旨の発言をして、「さえ、皆さん、引き上げましょう」といったようなことを言って、地元住民みながいっせいに帰り始めたのです。
私(たち)は、これから話をしたい、まだ私たちの思いは何もいっていないし、地元の方々個々人の思いも何も聞いていないという思いでしたので、「待ってください、話し合いましょうよ」と口々にいったのですが、一切無視されました。最初から、強行的に帰るという、そういうやり方が決められていたようです。

そしてその帰るときに地元に住む女性たち(一部男性たち)がいっせいに、「登らないで下さい」「お願いします」「お願いします」「お願いします」と声を上げて、それだけで帰られました。そのなかにおひとり(?)涙ぐんでお折られる方もいらっしゃったので、新聞には「涙ながらに訴える人もいた」というように書かれていました。

こうした状況の全体を「話し合い」というのでしょうか。「説得に応じて登山を中止した」というのでしょうか。

ここで、今回のプロジェクトの私の意図を説明しておきたいと思います。一部誤解があるようですが、私たち実行委員会は、大峰山に何がなんでも登るということが第一目標だったのではありません。すでに過去、女性たちは多く登っています。登ること自体が目的ではないので、登ろうとする勢力と、登らせないとする勢力の「にらみ合い」でもなかったのです。
今回は、性的マイノリティの視点を組み込んで先に質問書を郵送し、その質問に答えてもらう中で話をしたかったのです。気持ちの聞きあいをしたかったのです。
事情をよく知らない方の中には、「そんな場所に押しかけてそこで話をするというのでなく、もっと別の場所で話しあいの場がもてなかったのか」とおもう方がいるようです。

しかし、さきごろ出版された源淳子編著『女人禁制Q&A』」(解放出版社)に書かれているように、過去さまざまなやり方で話しあいが求められてきたのですが、それが行き詰まっている状態なのでした。地元住民一人一人の生の声が聴けない状況が続いてきたのです。
そうした流れの中で、今回は、今までのグループとは違ったメンバーが、違った角度から、問題提起をしたのです。そしてその話し合いも、どこかの会議室で代表(リーダー、ほとんど男性)というような人が数人集まって話すのではなく、まさに、「女人禁制」という結界門の前で、その場の雰囲気の中で、普通の人同士が、とくに女性も参加して、心をひらいて、お互いを知ろう、そうすれば、敵対的状況にすこし突破口が開けるかもしれない、とおもったのです。

しかも、そのとき、トランスジェンダーの方からの「私は戸籍は男ですが、自分のことは女性とおもっています。私はとおってはいけないのですか」という問いを真摯に受けとめて考えていただきたいとおもったのです。

集団で押しかけ、集団の力で無理やり押し切って通過するというようなことが目的ではなかったのです。青空の下での話しあいというようなスタイルは、日本ではなじみがないかもしれませんが、密室よりもいい点がたくさんあるようにおもっています。リーダー任せではなく、下からの民主主義的な話し合いのイメージです。

上記した本にも書かれていますし、今回、主にお話をされた区長さんや個人的に意見を聞いた方もそうですが、「大峰山」の「女人禁制」を維持しようと思っておられる方々は、「女人禁制」廃止を求める人たちやフェミニストや今回のグループの人のことを「私たちの地域に土足で入り込んでくるひどいやつらだ」というニュアンスで捉えられているようなのです。
でも、実は、開放派のひとりひとりがどういう思いでそういっているのか、聴いていないのです。そして聞いてもらえる場所作りもこれまで否定されてきたのです。そういう中での「対立」が続いてきたのです。

だからこそ、今回は、あの場所(現場)で、ワークショップのようなカタチで、みながお互いを知る、異なった意見の人を知り合う、相手の人たちは、どのような人で、どのような思いなのかを知るというようなことをしたかったのです。そうすれば、相手を知らないまま怖がったり迷惑とおもったり、罵倒したり、嫌ったりすることが少しは減るのではないかと思ったのです。だって、今回参加した一人一人は、「人権人権と叫んで、相手の迷惑も考えないエゴイスト」などではないのですから。そのことを知ってほしかったのです。

しかし、その願いは、拒否され、「話し合いはしない、意見は聞かない」という姿勢で、一方的に区長のみで対応されたのです。多くの地元住民の人は、依然として、開放を求める人を、以前のように捉えたまま帰られてしまったのです。

問題の本質のひとつはここにあります。
民主主義的に話し合うというのは簡単ですが、実はとても難しいことです。異なるものが、多様性を尊重しつつ、妥協点を探ったり、共存の道を探るというのは、難しいことです。その難しいことをはじめる第一歩として、相手に色眼鏡をかけてはじめから「敵」だとみなさずに、先ずは聞いてみよう、平和的に話し合おうということが、多様性尊重の民主主義だと思うのです。

その狙いを拒否し、相手にひどい人たちだというレッテルを貼り、何も聞かずに言いたいことだけ言って去っていくという姿勢にこそ、この「女人禁制」をめぐる問題の問題点があります。「女人禁制の大峰山を守ってきた地元の信仰や心情を無視せず、どうか理解ある行動をしてほしい」といいつつ、相手側を無視し、相手を理解しようとはしない。そしてそのことに問題を感じていない。そういう対応だったのです。

ですから、区長があとで新聞記者の方に「我々の立場、心情を理解していただけたものと思っている。数人が山に入られたのは非常に残念」と答えたことには、悲しみを覚えます。この人は、自分たち地元民の今日の行動自体が、双方の立場、心情を理解する道を閉ざしているのだということがわかっていないのだとわかったからです。35名の参加者の心情をまったく聞くことなく、聞くことを拒絶し、地元住民個々人の声、とくに女性の声を出すことも事実上禁じて、どうして深いところで心情をお互いが理解できるでしょうか。対立が解けて、問題の解決に至るでしょうか。対立を作っているのは誰なのでしょうか。

何度も頭を下げて「お願いします」「お願いします」と連呼される姿にはもちろん感じるものがありました。この方たちは、本当にそう思っているのだろうと思いました。でも、開放を求める相手側の声を一言たりとも聴かずに、「お願いします」といって帰っていくという自分たちの姿勢に、相手を少しは理解したい、理解しあい、仲良く解決の道を探りたいという思いがあったでしょうか。私には感じられませんでした。その意味で、そういう姿勢そのものが、「女人禁制」というものを維持する感性なのだと私は思いました。

男性区長が一人話し、あとは個々人の発言はない。命令のもと、いっせいに帰る。
そうしたところに、ひとりひとりが自分の頭で考えていくという姿勢はあるのでしょうか。
「女人禁制」問題の「解決」とは何でしょうか。「女人禁制」の撤廃を求める人がいなくなることが、解決なのでしょうか。「差別ではない、区別だ」といわれますが、まさにそこをめぐって、話し合いが必要なのに、「相手の意見は聞きません、差別ではありません」と繰り返し叫ぶことで、どうして、理解してもらえると思えるのでしょうか。
この文章を読んでいる方々には、この点を考えていただきたいと思っています。

以上、経過の説明と私の見解を思いつくまま書きました。
私の思い違いもあるかもしれません。

ただし、成果もありました。

「大峰山」側の方が一方的に帰られたあと、私たち参加者グループはその場で話し合いを持ちました。そこで出た意見の多くは、今後、話し合いの場を持つことを「大峰山」側が約束したのだから、今日はあえて登ることはせずに、ここで解散しようというものでした。
登ったことで、地元の人たちが「やっぱりひどいやつらだ」とおもって、今後の話し合いの場自体がなくなるのは望むことではないという思いがおおくのひとのなかにありました。ですからそこで解散となったのです。
(その後、個人的に数名の方が入っていかれたということですが、それは個人の判断です。私個人は、山に入る人がいるのも、それはその人の思想の表れで、そうした人も含めて話し合いが行われていけばいいと思っています。考えが異なる人がいるのは前提ですから)

私たちにとって、うれしかったことの一つが、一人の地元の女性が、みなが帰ったあとに一人残って、個人的に質問にきてくださったことでした。彼女は、今、自分で、「女人禁制」は差別なのか、単なる区別なのか、考えているとのことでした。彼女は、私たちに「ふざけてやっている人はいないのですか」とか「今日、登るのは私はよくないとおもいます」とか、ちゃんと自分の思いや質問をいってくださいました。ですから少し話し合いができたのです。こちらのグループからもいくつか質問が出ました。それは考え方は違っても、理解していこうとする対話の始まりの光景でした。

しかしそれが10分弱続いたころでしょうか、地元のある男性が「親御さんが向こうで呼んでるから・・」と彼女のところにきて、彼女を連れ戻していきました。私たちたちのそのときの思いを察していただきたいと思います。彼女の今後を私たちの多くは心の中で想像しました。
彼女の存在、彼女の行動、そして呼び戻しに来た男性の行動が表していたことは何だったのでしょうか。

その他、話し合いまでには至らなかったものの、私たちの一人一人の顔、話し方を少しみてもらったことで、「この人たちは鬼のようにひどい人たちだ」、というようなまったく知らないままの誤解は少しは減っただろうと思います。

解散のあと、地元の人と個人的に少しは話せる機会も偶然もてました。私たちと実際話をされた方は、こいつらも人間なんだと認識してもらえたのではないかと思っています。

また区長さんが、関係諸団体全部が開放というまでは開放しないとおっしゃいましたので、それなら逆に言うと、今後、内部でも話し合いを重ね、過半数を超えればその団体は開放派に転じ、それが全団体になると、「女人禁制」の伝統も変更するのだというのだということがわかりました。つまり、永遠不変の伝統ではなかったのです。
事実、内部では、1年中「女人禁制」ではなく、1年のうち、修行の時期を終えたら、一般の男女に開放する時期も設けてはどうかというような意見もあるそうです。

その他、「女人禁制」をやめると、日本で唯一の「女人禁制」の山という優位性が消えてこの地域が廃れるといった心配もあるようです。こちらからは最後に、世界遺産になったなかで、発想を転換されて、多くの男女が来る地域にしていくことで栄えていくのではというような意見もでました。

まだまだ論点はありますが、11月3日において、「大峰山」側の言い分になんら質問や反論をする時間は持てませんでした。

そのため、今後、ウェブ上などで、こちら側の意見をのべて、議論をしていき、話し合いの場の議論の質を高めることをしていきたいと考えています。区長には、『女人禁制Q&A』の本も渡しました。この後の議論は、この本に書かれていることも踏まえて、話し合っていきたいと思っています。
取り急ぎ、11月3日の状況を、私の視点からまとめておきます。 
 以上(11月4日記)






05年10月20日

大峰山に登ろう

「大峰山」は今でも「女人禁制」です。そこで、05年11月3日に、トランスジェンダーの人たちなど、多様な性的アイデンティティを持っている人がいったらどうなるだろうかということになり、登山してみることになりました。
その際、「大峰山」関係者の方々と話し合いを持ちたいと考え、質問書を作ってみました。

世界遺産にも登録された「大峰山」に、みんなで登りませんか。
ただ、困ったことにこの「大峰山」は「女人禁制」となっています。
この「女人」っていったいどういう基準なのでしょう。
そしてなぜ「女人禁制」なのでしょう。
その他にもわからないことがたくさん。
そこで実際に「大峰山」に登って、質問状をお渡ししようと思います。
一緒に楽しく「大峰山」に登って下さる参加者の方を募集いたします。
なお、個人の性自認、性指向、戸籍上の性別、肉体上の性別はとくに問いません。
あわせて、この登山の賛同人になっていただける方を募集します。

登山の予定
集合日時:11月3日(祝) 09:20  (雨天順延 11月6日)
集合場所:洞川温泉 バス停

連絡先:「大峰山」に登ろう実行委員会
呼びかけ人 伊田広行 桂睦子 柴谷洋子 森なお 森村さやか
ominesan_tozan@sakai.zaq.ne.jp


質問書

1 「大峰山」に女性が入山してはいけない理由をお聞かせください。「伝統である」という場合の、その伝統が作られた理由(なぜ「女人禁制」にしたか)を教えてください。文書があれば、それも教えてください。

2 戸籍上で男性から女性に性を転換した人は、入山してもいいですか?
3 戸籍上で女性から男性に性を転換した人は、入山してもいいですか?

4 身体は男性ですが、自分の性の意識(性自認)が女性の人は、入山してもいいですか?
5 身体は女性ですが、自分の性の意識(性自認)が男性の人は、入山してもいいですか?

6 戸籍上は男性ですが、手術などによって身体は女性になっている人は、入山してもいいですか?
7 戸籍上は女性ですが、手術などによって身体は男性になっている人は、入山してもいいですか?

8 戸籍上は男性ですが、服装・髪型などの外見が女性的である人は、入山してもいいですか? 歌舞伎の女形が女装している場合には入山が許されますか?

9 戸籍上は女性ですが、服装・髪型などの外見が男性的である人は、入山してもいいですか? 宝塚の男役が男装している場合には入山が許されますか?

10 男性同性愛の人は、入山してもいいですか?女性同性愛の人は、入山してもいいですか? 
11 修行者・僧侶が性を転換したものであるとか、同性愛者であると明確になった場合、どのような対応をされますか?

12 生理がない/終わった女性は、入山してもいいですか?

13 部落出身者の入山が禁止されていたことがあったかとおもいますが、それが変えられたのはいつで、理由は何ですか?

14 男性なら誰でも入山していいのでしょうか。男性で「過去に犯罪を犯した人、現在犯している人、執行猶予中の人、ナチス礼賛者の人、しょうがい者、ハンセン病患者(回復者)、外国人、異教徒の方」の中で、入山してはいけない人はいますか?

15 修行とは関係なく登山・ハイキングを楽しむために入山・登山している男性がいるかと思いますが、では、同じ目的の女性も入山してもいいように思うのですが、どうして修行とは関係ない女性が入山することは禁じられているのですか。

16 男性が修行するのに、女性はジャマですか。

17 「大峰山」に関わる修行するもの、宗教者、修験者などの中には、結婚されている方もいると聞いていますので、性交渉(セックス)自体の否定はないとおもいますが、では、「大峰山」の中で性交渉することはどうなのですか? その理由も教えてください。 また修行に行く直前に、あるいは修行を終えて下山してきた直後に、「大峰山」のふもとの宿の中で性交渉することは戒律上どうなっていますか。

18 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
19 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
20 山の上に酒を持ち込んで飲むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?

21 もし女性が入山したら、どのようなことがその人に起こりますか。また周りの人にはどのようなことが起こりますか。また山や環境などにもどのようなことが起こりますか。
22 過去に「大峰山」に登った女性たちのことをどう思っておられますか? 
23 犬や馬や猫などの動物のメスが入山してもいいのはなぜですか?

24 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」その他「聖なるもの」は、人権侵害、暴力、差別を認めないのですか? 時には認めますか?
25 「大峰山」に関わる「神様」「仏様」「聖なるもの」は、すべての人を平等に愛するとおもうのですが、入山したいという女性を苦しめるのはなぜですか?
26 ある宗教の教義・経典・宗教文書などが人権侵害の内容をもっていたとき、それを変えるべきと思いますか?

27 「大峰山」の伝統は誰がいつごろ作ったのですか? 証拠・文書はありますか。 
28 登山道の一部は公道だということですが、そこの通行を制限することに問題はないのですか?
29 「女人禁制」に関する関係者や信徒の皆さん全体の意見をどのようにして把握されているのですか。アンケート調査や投票行動などをされたことはあるのですか?
30 今でも一部の信徒は開放すべきという意見だと聴きます。信徒など関係者の過半数が「女人禁制をやめよう」という意見になったら、伝統を変えますか? 過半数でも変えない場合、開放派が何割をこえたら開放されますか?

31 『「女人禁制」Q&A』(源淳子編著、解放出版社)では、さまざまな観点から、女人禁制が批判されています。これらの点をめぐって、じっくりと意見交換・勉強会をしたいと思います。そうした話しあい/学びあいの場をもちませんか。



05年10月19日


ハンセン病関係の差別裁判について

05年10月25日東京地裁103号法廷で「ソロクト(小鹿島)・楽生院裁判」の判決公判が開かれます。
これについて、厚生労働省に意見書を送りました。


裁判についての情報
参考 DAYS JAPAN (05.10号)の楽生院の報道
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海を渡った隔離政策を問う

韓国ソロクト・台湾楽生院ハンセン病訴訟

判決(10月25日)前のお知らせとお願い
   2001年5月11日、熊本地裁でハンセン病国賠訴訟判決が出されました。この判決は日本政府が行ってきたハンセン病者への強制隔離政策の誤りを明確にしました。この画期的な判決を受けて、国は「悔悟と反省の念を込め…深くおわびする…」と述べた「ハンセン病補償法」をつくり、被害を受けたすべての人に補償金を支払うことになりました。ちなみに、この法律には国籍や居住地による制限はありません。

 このようにハンセン病者に対する強制隔離政策を「反省」したとする国が、ソロクトと楽生院の入所者たちを「ハンセン病補償法」の適用から除外することは不当なことであり、新たな差別をつくることにほかなりません。さらには、このことはアジア・太平洋戦争の植民地支配の歴史についても、なんら反省していないことをも表しているのです。
 この裁判は、日本の植民地主義によるハンセン病強制隔離政策の被害の救済を求めるだけでなく、過去の戦争責任や歴史とどう向き合い、国際社会でどのような役割を果たして行こうとしているのか、私たちの国の基本的な姿勢をも問う裁判でした。

  その意味で、この裁判の判決とその後の動きに注目することは大切なことです。勝訴判決が出されそれが確定することによって、韓国や台湾の人たちにも当然なこととして「ハンセン病補償法」が適用されるように支援をお願いします。それは4年前の熊本判決が「今日まで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点」と呼んで明らかにした「ハンセン病政策によって生み出された差別・偏見」を私たちの社会から取り除いていく働きのひとつでもあるからです。

 具体的には東京で「ソロクト・楽生院支援連絡会」が主催する判決前夜集会や判決を受けて控訴阻止の行動に参加することを提案します。またより多くの友人たちにも呼びかけてはがきやメール、ファックスで控訴しないように厚生労働省や首相官邸などに声を届ける取り組みも大切なことです。
 
厚生労働省 意見書送付先
下記のHP
https://www-secure.mhlw.go.jp/getmail/getmail.html

☆  ☆  ☆ 
イダヒロユキ 05年10月19日作成  
厚生労働省へ意見書

私は、大学などでジェンダー論などの人権教育を行っているものです。

 2001年5月の熊本地裁、ハンセン病国賠訴訟判決にもとづいて、「ハンセン病補償法」ができ、被害を受けた人に補償金を支払うことになったのは、遅すぎたとはいえ、まともなことだと思っています。

しかし、あろうことか、ソロクトと楽生院の入所者たちに適用しないとする差別政策があり、それが裁判になっているという。当然適用すべきです。

差別の上塗りをすることに恥を感じないのでしょうか。25日の判決で、ソロクト、楽生院の患者さんたちに補償が適用されるという判決が出た場合には、ぜひとも控訴しないでいただきたい。せめて、差別をここでとどめていただきたい。

これ以上、手を汚すな! あなたたちは自分の子どもたち、孫たちに誇れる仕事をしているのではないのか。子どもたちに語れないような仕事をするな。官僚制度や組織の名の下に、思考停止して、自己責任を放棄して、自分の手を汚すな! あなた一人でも決断し、上司に対抗せよ! それができないなら辞職せよ。






インタビュー 05年

サリュ44号 巻頭インタビュー(05年)
(タイトル)
スピリチュアルなものが響きあう
目に見えないものと出会っていくということ

(リード)
人のこころの奥深い面や、他人とつながっていく面を大切にしながら、個人として自立していこうというのが、「スピリチュアル・シングル主義」。集団の規律が守られた「わかりやすい関係」のなかに私を閉じ込めないで、創造的な生き方をしようと提唱されている伊田広行さんにお話を伺いました。

(プロフィール)
1958年生まれ。大阪経済大学教員(2005年3月に退職予定)。専門分野である社会政策・労働問題・家族/恋愛問題をジェンダーとシングル単位の視点から考察。近年は、教育学、社会学、文化人類学、心理学、宗教学を踏まえつつ、それらの総合科学としての、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ人権論・人生論の確立やスピリチュアルケア論に取り組む。主な著作は、『シングル化する日本』洋泉社新書、『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店、『初めて学ぶジェンダー論』大月書店。第39回寺子屋トークのゲスト。


大阪経済大学教員:伊田広行さん

○理性の外にあるものとの出会い

もともと正義感が強く、人権にも関心があり勉強もしていたので、ぼくは女性差別をしない人だと思い込んでいました。それが26歳の時、6年間つきあっていた彼女に振られて、自分の男的/カップル単位的な思考がはじめて見えてきたんです。ノートに「一生あなたと別れません」と書いて署名してみたり、彼女は自分の分身、二人は一体だと思い込んでいて、非常に「スキのない人であること、いい人であること」を重視する、ある種「先生」的な人だったことが冷静にわかるようになりました。男として好かれるため、強く勝ち続け、しっかりしないといけないと思っていましたし、口で説得すれば、愛され、尊敬されると信じていました。
この失恋は今でも夢に出てくるほどのトラウマになりました。理性でコントロールできていたものが、揺さぶられてコントロールできなくなるというこの体験は理性を超える身体や感性部分の重要性を深く考えるきっかけを与えてくれました。合理的に物事を考えている自分の外側にも自分の全体があり、世界はそこにも拡がっているというのが見えてきたんです。だから小さい頃に受けた虐待の被害者がその苦しみを頭で乗り切ったとしても、後になってときどき恐怖感がでてくるのは、こういうことかもしれないと理解できます。そのような苦しみを想像できるのも、この失恋体験があるからです。
挫折といえば、いくつかの病気体験とか、受験の失敗とか、学会で評価されないとかもあるけど、それ以外に、ぼくは、92年の就職活動では履歴書を何通も出して落ちたんですよ。自分は社会では必要とされていない、認められていないと落ち込みました。自分の力を試す場さえ与えられずに、社会から無視されたように感じて否定感が高まります。学生でも能力や人間性のよさとは無関係に就職活動で成功したり、いい人間でも合格しなかったり、理不尽なこともあります。まじめだけど、ちょっと暗くて、ぽつぽつとしか話せない学生は落ちやすいとか、そんな単純な世界です。落ちたとしても自分の個性だと思って、またエンパワメントする道を見つけたらいいのではないでしょうか。自分を肯定するためにどこかで働いたり、収入を得る体験も経て、これもできるんだと思った上で納得した方が楽ですよね。例えばコンビニでのバイト、工場で働くなど、敢えてしんどいことをする時期があってもいいんです。それも現実なんだから。もし就職活動がだめだとしても違う活動で自己肯定すればいい。

○目に見えない大切なもの
学生と日常的に接して、今の若者が持っている心のかたさを変えることは難しいと感じています。自分からNPO活動やボランティアなどで社会参加する学生はほんの一部。でもこれは大人の反映でもあります。大人にしろ、若者にしろ、「戦争や人権侵害はだめでしょ」と啓発するだけでは足りず、より根本から問題提起したいと思い、ぼくが用いたのが「スピリチュアル」という言葉です。今まで学生が接してきた親や先生の言う分かりやすいこと、学歴、テスト、入社試験の結果などではない、目に見えないスピリチュアルなものといった、わかりにくいものがあるよということが必要だと思います。そんなあいまいなものも“存在”するということを伝えて、いわば自分にとってスピリチュアルとは何だろうかと一人一人が考え続けるための種をまいているのです。つながり、自分の本当にしたいことの気づきへの扉の入り口の命名としてスピリチュアルという呼び方をおいたのです。
社会全体はすぐには変わらないけど、この瞬間の関係は目指すようなスピリチュアルなものに変わると思っています。NPOは効率だけを念頭に置くと、旧来の政党や企業と同じような組織体になり、現実主義という名のもとに、素朴な人の気持ちを後退させてしまいます。だからあまりマネジメントや効率性を求めるのではなく、結果よりも、もっと手作り感や非・合理性を大事にしてほしい。もちろん社会ではより具体的な政策を出すことも増えるので、プロフェッショナルな人がいてもいい。けれども「組織まずありき」ではなくて、一人一人の思いを大事にした学び合い、時間をかけた関係や手作り感を増やしていくこと、そして他者への思いやり、想像、共感を大切にするスピリチュアルな感覚が今求められていると思います。




いろいろなエッセイ

「部落解放」水平線 原稿
 受容・共感と簡単に言うが・・・
            伊田広行 大阪経済大学 教員

 私は、社会政策、労働問題、ジェンダー・男女平等政策などをこれまで活動・研究領域としてきたのであるが、近年はあらゆる場・関係における見えにくい権力・抑圧に皆が敏感になっていくことが大事だという観点で、スピリチュアルな人権論を打ち立てたいと考えている。これに関連する話であるが、読者の皆さんは、「受容」とか「共感的理解」が大事であるというようなことは耳にされたことがあるだろう。だが言うは易く行うは難しである。私は、自殺防止に関わる傾聴ボランティア系(註)での講座を受けるなかで、自分が相談する側に回る体験などを通じて、どうでもいい「事柄」を聞かれることで話の流れを断ち切られ、自分が望んでいない方向に話をもって行かれる苦痛や、適切でないまとめや言い換えを言われる違和感を実感した。では「感情に寄り添そう」というときのかなめ要は何だろうか。  
 まず、上から下への関係である「治療する、教える、導く、助ける、解決してあげる、励ます、問い詰める」という姿勢でなく、同じ目線の友達関係になって、ともに学ぶ、教えてもらう、寄り添う、一緒に考えていくという姿勢をもつことだろう。テクニック/マニュアルで対応するのでなく、自分の全身全霊を傾けてその瞬間、ここでの即興性と個別性を大事にして、本気でかかわること。決まっているところに行くのでなく、決まっていないところに行かねばならない。軽く受け流さずに、相手が表出した感情や〈たましい〉に一つ一つ丁寧に心の底からの感情的受容を示すこと。そのためには、「それはつらかったですね」といった決り文句に頼らず、こちらが受け止めたものをユニークに表現できるよう多様な言語能力をもつ必要がある。
〈弱さ〉こそ大切という価値観をもつことも大事である。普通では話しにくいことだが、本当に話したいことについて、逃げずに正面から向き合い話し合うこと。一見そう見えなくとも相手は大事なことを語っているのだから、表面的訴えや質問に振り回されずに、一言一言を集中して聴き、相手の論理にくらいつき、その人の奥にある感情や本当に言いたいことを想像すること。
聴いている自分自身の感情や〈たましい〉にも耳をすまし、深く驚きをもって聴き、それを正直に適切に表現すること。あまり考えずに状況を尋ねたり理由を探ったり分析したりせず、その状況がどれほどしんどいか想像力を働かせ、無批判的に感情で受けとめること。「死んで楽になりたい」「私は醜い、ダメな人間」「○○がめっちゃ腹立つ」「全然眠れない」「誰もわかってくれない」などとても重いことを言われると、動揺してつい命令・否定・叱責したり、問い詰めたり、励ましたり、説教したり、アドバイスしたり、話題をそらしたり、笑って軽いことと思わそうとしたくなりがちであるが、まずは相手の文脈に寄り添って、「死にたい(醜い)と思ってはるんやね」「楽になれたらいいねえ」「腹立ちますよね」「眠れるといいねー」「気持ちわかってほしいよねー」「そう思って当然だよね」「がんばってきはってんねえ」といったような受容的な姿勢をもち、それに則して具体的にどんなときにどのように思うのか、どのように感じ、どのように苦しいのか等を聴いていくこと。むやみに相手の話をまとめたり、先取りせず、あせって言葉を重ねず、話の腰を折らず、沈黙を尊重し、待つことを重視すること。よくある話・知識の話をせず、他の人と重ねて一般化せず、その人の感情に焦点を当てること。 
こうしたことの全体を身につけることが、家族・職場・友人関係における抑圧的関係をなくし、対等なコミュニケーションをもたらし、人権が守られるということであろう。これらは、頭で理解しているだけでは絶対にダメである。実際にやってみて、そのやり取りをテープにとって自分で見直したり、第3者にみてもらうことによって、自分のだめなところに自分で気づき、修正していくこと(自己改造)ができるのである。

註  悩みを抱えた人たちの電話相談に24時間態勢で応じているNPO法人「国際ビフレンダーズ・大阪自殺防止センター」(電話 06−6251−4343)。東京と、松山にも支部がある。同類のものに「日本いのちの電話連盟」がある。




『月刊ボランティア』原稿
「NPO・ボランティアの中の男と女」コーナー エッセイ  
ジェンダー切り口でボランティアやNPO活動を考える  

孤独のむつかしさ               イダヒロユキ

ボランティアやNPO活動は、「自己」の範囲が自分や家族やわが社どまりであるという狭くてエゴイスティックな段階の後の、「自己」の範囲が地域や人類、生態系全体にまで拡張する段階に対応した非貨幣的な関係の典型であるということで、とても未来を先取りしたものであるとおもっている。
とするなら、そうした活動内で、ジェンダーに対して旧態依然とした感覚なら、それはないんじゃないかってことを、孤独についての考察と絡めて少し書いてみたい。

僕は、ジェンダー問題が理解できるか否かの試金石のひとつは、孤独ということをどう考えるかだと思っている。僕の敬愛する安積遊歩さんと辛淑玉さんの対談本『女に選ばれる男たち』(太郎次郎社)はいい本だが、彼女たちは今共同生活している男性パートナーにとても厳しい。その意味は本で展開されているので、わからなくもないが、しかし、遊歩さんは、男に、とにかくこの女性とやっていくと決めたら、相手が別れるといってもそれだけはイヤという感じを伝えろ、この人は離れていくんじゃないかっていう心配をさせるなという。

うーん。この2人はもっともまともなフェミニストで、僕は心から信頼しているから、この発言も悪くはとらない。「逃げるな」というすごみ凄みのある言葉を吐くだけの人生を潜り抜けてきた人たちだ。だから、人と人が心の奥の〈たましい〉で信頼したとき、表面的な喧嘩などでは「簡単に離れない」というのはわかる。
ただ、僕は今の日本の状況を考えるとき、むしろ逆に、「すぐに離れること」の大切さを強調したいと思っている。それは逃げることができる「男性、健常者、日本人」の立場だと批判されるだろうか。

どういうことかというと、僕は日本社会はとても群れたがる社会で、家族や会社がなくては生きていけない、独り者は寂しく不幸だという思い込みが強い社会で、その中で権力関係が生じているので、そうした中で、個人の自立ということをはっきりと打ち出すためには、「離れろ」とはっきり言うことが重要ということなんだ。これは、「共依存」問題でも指摘されているところだ。

みんな一緒が嬉しい、一人は寂しいなーと思い、結婚したり恋人ができたり家族がいたり友達がいると、自分のことがわかってもらえて、愛されて、不安はなくなり、寂しくなくなり、シアワセになれると思い込んでるのは、あまりにも幼すぎる人間関係の捉え方だと思う。「人生最大のイベントは結婚」、「あなたも早く結婚したらいいよ」などと平気で言ったり、「相手を縛ること、嫉妬すること」(支配ゲーム)が愛情の表れだと思い込むのは、愚かしい。
 当然、そういう人は、親しい人と喧嘩したり、自分の気持ちがわかってもらえなかったりすると、どうしてなんだーと怒ったり失望したりする。もっと自分を幸せにしてくれる人を求め、自分は不幸だと嘆く。理想状態じゃない、理想の相手がいないという不安定感・不幸感を持っている。

こういう人は、孤独が嫌いだ。理想状態の逆だと思っている。そして寂しいからと、ともだちや恋人や家族という「群れ」に入って孤独という寂しさから逃げようとしている。そしていったん、家族や恋人や友だちになったら、「他人としての適度な距離感」をなくして、一挙に甘えたり役割を押し付けて当然と鈍感になる。自分で努力することから逃げて、人に依存したりする。「人は弱いからそれでいいじゃないか」といったりする。「・・・してやる」というようなことに平気になる。

 で、僕は、思う。孤独はほんとうに悪いものか? 結婚していないとダメ、恋人や友人がいないとダメって思ってるから、それを基準に、孤独を恐れてるんじゃないのか?
「愛されたい」「幸せになりたい」という気持ち自体に隠れているのは、小さいころからの生育過程のどこかで身に染み付いた、心の不安定感だと思う。多かれ少なかれそうしたものはあるだろうが、それに居直っちゃいけない。受身でどこかの共同体に入れば幸せになれると思っている限り、安定した幸せ感は得られない。

それよりも、まず、人は孤独から始まると思ったほうがいい。それは何も、人を切り捨てたり、嫌いになったり、信じなかったりするというようなことじゃない。他人との関係の前に、まず、自分というものを肯定する力をもつということ。自分は自分でいい。人目や世間体なんて気にしない。人よりも成績がいいとか悪いとか、きれいかとか、金持ちかとか、愛してくれる人の多さとか、そんなふうに比べて優越感をもたないと幸せになれないという発想から脱することが重要ってこと。とすれば、当然、女の子らしくしなくっちゃとか、親や恋人が求める「いい人」でいなくっちゃということにならない。そうしていると、自分というものへの本当の自信が培われる。見下されたり、手下にされたり、虐げられることに抵抗する力がつく。

その後でこそ、つまりドロドロした支配のしあいゲームに巻き込まれない「離れる力」こそが、相手との対等な関係、感謝の信頼関係を培かう。いつでも離れうるという可能性を心に忘れないことが、むしろ〈たましい〉の作動を援助する。

ジェンダーを考えるのは本当に難しい。だが、NPOなどが、上記したように効率優先・市場中心社会において、未来社会を先取りする生き方を目指すチャレンジングなものならば、結婚やパートナーシップや孤独についても、根源的に考えてみなくっちゃ。相手との今ここでの権力関係を繊細に見つめなおすというその第一歩を自分から踏み出していくのはどうですか。



ラブピースクラブ  投稿

ジョン・キャメロン・ミチェル監督・脚本・主演『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001年アメリカ)について

愛のカタワレを探して歌われる「オリジン・オブ・ラブ」のメロディは切ない。「もともとは手足が4本ずつ、頭二つ、失われた半身を求めるのが愛」というプラトンのアイデアは、何度も目にしたものだけど、伝え方に、痛々しい喪失感をふまえそれでも何かを求めるという〈たましい〉があれば、やっぱりいいものになる。

全体として、音楽が、舞台をふまえているからか、懐かしいような、気持ちを底から掻き立てるような、中島みゆきにも通じる、正統派の盛り上げ方をもったもので、ありきたりのようなのに、感動してしまった。歌詞・せりふに力がある。音楽もそれをストレートに出す。わかりやすい音楽。みゆきだ。

「アングリー・インチ」他のあの打ち付けるような古臭い下品なロックって感じ、「ミッドナイト・レディオ」の、ヨーコやアレサの歌に救われ勇気づけられ、はみ出し者たちよ両手を高く突き上げろと歌う、革命歌の連帯のような気持ち、もうそれだけでサイコーだ。自分たちの信じる歌を歌うこと、お客がこなくても理解されなくても、自分たちの正しさを信じること。下品さを見下し、〈たましい〉で聞こうとしない客たち。そのしんどさ。「薄汚れた街」のせつなさ。

そしてパンフでも何人もがいうように、「ウィッグ・イン・ア・ボックス」がかかるシーン。僕らは、孤独で壊れそうでダメなぼろぼろの主人公が、それでもカツラをかぶり化粧し歌を歌って、自分を鼓舞し、気持ちを入れ替えていくときの、人の厳しい現実に立ち向かうしぶとさに感動する。そんな、別人になるという乗り切り方、元気のもち方、に希望を見出す。せめて家に帰って、ベッドに潜るまでは。

ロクデナシ、はみ出し者たちを賛美し、共感するブルーハーツが好きな僕が、こんな下品で、場末の寂しさと既成観念から自由になろうとする、愛と自由のロック・スピリッツ溢れる映画に涙しないわけがない。情感のある音楽で、うまく作られていると後で思うけれど、みている途中も、今も、この映画のことを忘れないで生きていたいと思うような。ワイルドサイドを歩けって感じ。そう、僕は、ワイルドサイドを歩きたいんだった!(中野翠が文章書いてたけど、おまえみたいな保守的な奴がこの映画をわかったようにいうなよと思った。)

恋愛観としても、みている途中は、ちょっと、カップル単位思考だけかなとおもったけど、シルバースタインの「ミッシングピース:僕を探しに」「ビッグオーとの出会い」も踏まえているみたいで、「自分の半身、かけら、カタワレ」に幸せを求めてもそれはダメで、ぼろぼろのダメな自分こそが、WHOLE(全体性ある満たされた存在)だという気付きにいたる物語、ありのままの自分の肯定、エンパワメントつまりシングル単位にちゃんとなっている。愛や〈孤独〉ということの奥には、自分は何者なのかという問いがある。結婚やパートナーが愛してくれるという形はたいしたことじゃない。自分の中核への旅、つまりスピリチュアルな生き方は、哲学者というより、こういうぼろぼろのとりみだしの人生にこそあるということ。この映画のテーマはここ。「誰かじゃなく、自分がそばにいるじゃないか」と自分に言える人になることこそ、求めたいたものの核にある。

ただ、CDの解説文で、井上貴子さんが次のように書いてるのには違うなって思った。彼女は、「愛、自由、はみ出し者たちの自由の王国としてのロック、そんな幻想は古臭い。もはや生き様としてのロックなど誰も必要としていない。同時多発テロなど現実には音楽にできることは何もない。現実はどこまでも音楽のような美とは相容れない。世界はちっとも変わらないけれど、この映画での涙や笑いが少しこころと体をあったかくする。」というようなことを書いている。

この『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のよさを際立たせるためにあえて反語的に彼女はそうしているんだけど、僕には、それでも透けてくる彼女の世界観が気に障った。居直りすぎなんだよ。もうそんなのには飽きた。今さら、理想は古いなんていうのが古いんだよ。世界はちっとも変わらないなんて言う、あなたはどこにいて何をしているのかってことじゃないのか。そういう問いが聞こえてこない。痛々しくないんだよ。
音楽映画評論しているあなたのそののんきな立場は何? 何でそんな仕事してるの? それで金もらってるの? 映画や音楽で少しあったかくなって、どーなんだよ。いかがわしい精神世界論とどう違うんだよ。おまえは何を喪失したんだよ! 世界を変えようとして挫折したのかよ! 
 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を語るなら、そこが問題なんじゃないの? 口先だけで形容詞並べて評論するな! って感じ。



大阪経大 『本の虫』原稿       990925  イダヒロユキ
――辺見庸[98]『不安の世紀から』角川文庫を読んで――

表題  「不安の世紀末にワタシはスピリチュアリティを遠くに見つける」

 漠たる不安感が日本中を覆っている。世紀末である。辺見は、そのあたりを様々な角度から表現する。曰く「対象のない恐れの感覚が“不安”である」、「価値一般の陥没、対立構図の拡散、あらゆる理念への不信感がひろがっている」、「生きる意義、目的とは何なのか、この種の実存不安も、過去のどの時期よりも広く蔓延している」、「摩擦がなく、快適で、合理的な、窒息状態に日本はなっている」と。また、それが「漠たる」ものであるということ自体にこそ、日本的な、危機的特徴がある。

現在は、目的なき無限発展を正当化し座視しするようなニヒリズムに陥っており、漠たる不安を感じながらも、異議申立てをしない、そうするのがとんでもない時代錯誤であるというような冷笑的感覚にとらわれていると。それを辺見は、「集団的無意識」と捉える。オウム真理教は、特別の異物ではなく、モノとお金と消費と欲望の飽くなき狂騒の過程で、社会の胎内に知らずして宿していた我々の無意識の闇の反映でしかない。

 その現状認識は私も同じである。しかしはっきりいおう。私は今、そうした漠たる不安の中にいない。一度<絶望>したからである。「近代主義的普遍」の限界を知り、確たるものがないという相対主義にとっくにたどりつき、その先に、<私にとっての積極的な意味>を見つける作業を積み重ねてきたからだ。不安定こそ常態であると、危機の時代であると自覚しているからだ。辺見もまた、そこまで到達し、いくつかの方向を提示する。身体感覚あるところで、狭い善悪にとらわれず、人間の性(さが)を多様性を政治より上位に見て、全体的に捉えたいという。市民主義の良識や安っぽいヒューマニズムの浅はかさに、近代主義的限界をはっきりと見る。「事件」があっても報道があって新聞が売れて、また同じ事が起こるというニヒリズムにたどり着き、「メディアに飽きた」とまったくまともな感覚を呈する。

 ただし辺見は、「どうせ何をしても…」というような無力感にかまけているわけではない。解説に登場した鈴木光司のようにナショナリストとして自己肯定するわけでもない。それは例えば「B29爆撃機エノラゲイに搭乗し、広島に原爆を投下しに行ったパイロットの立場」に立って考えてみようという姿勢に明確に顕れている。
個人の判断で、あの状況の中で、組織に組み込まれたまじめな個人がエノラゲイの投下ボタンを押さないでひき返せるか。辺見は、高見からの評論でなく、ぎりぎりの選択を自分に突きつける想像力をもって、それでもなお個人としてこれはいけないと声をあげるべきときがあるというのである。
希望とは、「であるがゆえに」生まれるのではなく、「にもかかわらず」現れるイメージであると捉える。そうした覚悟の上に、彼は、モノにかわって失ってきたもの、精神、感動、心の底からの怒り、空腹、絶滅する人類、「種」としての自覚など、原初的感覚を取り戻す戦いをはじめることを提唱する。また彼は、絶対的真理を信奉する原理主義に対抗して、積極的な相対主義「プロテアニズム」を希望の発想として対置する。それは変わりつづける能力であり、人生に意味を与えてくれることを見出すための方策である。

 言いたいことは分かる。可能性は認める。だがあまりにも抽象的なままだ。私としては、辺見の提起は端緒でしかない。私はもっと先に進みたい。そう考えて、「スピリチュアル・シングル主義」という概念を提起してみた(『大阪経大論集』50巻1−3号)。「近代秩序が揺らぎつつあるという時代変化を認識し、孤独ということを見つめ、家族単位の発想から脱却し、近代の性別秩序を超えようとする、自己決定能力の高い<新しい個=シングル>を単位とする社会システムと生き方」を提唱する「シングル単位概念」については、これまで各拙著でかなり展開してきたが、最近はそこにスピリチュアリティという視点を付け加えようと考えている。

スピリチュアリティは、私が、ここまでに経験し、歴史を見て、思考した結果見えてきた、「私にとっての、21世紀を生きるにあたっての、大切で魅力的な価値」である。私の志と責任に関わり、私を突き動かすもの、私の身体性に関わるものが、スピリチュアリティである。例えば中島みゆきの「ファイト!」を私がどう身体化するのかという翻訳である。辺見が「詩だけが人間性を救う」ということの私なりの具体化がスピリチュアリティである。私はスピリチュアル度の高い生き方をする人を増やしたいのだ。私は、理性で小さく縮こまるのでなく、矛盾を抱えて大きく過剰でありたい。そしてなおかつ相手との距離をもつシングル単位人間になりたい。浅はかな近代主義的昏睡状態に対して、私は個的な闘いを続けるであろう。

ラブピースクラブ 投稿 02年9月
Let yourself go. (遠慮しないで自由になって)
                               イダ・ヒロ
待ってたぜーこんな本!!ってのが、出ました。フェミでシングル単位感覚がほーんともうパップパップと溢れている本。
スーザン・ギルマン著『うまくいっている女の、かなり冴えた考え方』PHP出版、です。

小気味いい。自由でエッチで、皮肉屋で、ユーモアがあって、欲望に忠実で、前向きで明るくて、生意気でパワフルで、女に優しくて、バカなペニスもちに負けてない。サラパレツキーの女探偵、ヴィクを思い出す。こんな友達が欲しい。LPCの感じに近い。ニューヨーカーっぽい。『SEX AND THE CITY』に少し近い。『フレンズ』を笑える感じも少し。フツーの言葉で消化したフェミを語っている。もちろん全部が「正しい」とか「意見が同じ」ってわけじゃない。でもそんなの、とーぜんじゃん。

どんな内容か、少し、紹介しよう。

男に媚びた時代遅れの雑誌を読まされていることに怒っている著者のスーザンは、女性がうまく世渡りするための実用的なアドバイスと、笑いが大事と考えている。
だから型破りな、元気の出る、気の利いた次世代の女性の生きる実用的ルール、底力を引き出す知的なマニフェストを作ろうとしたわけ。それがこの本。それも、夫探しやオーガズムだけでなく、恋やお金、友達、セックス、健康、ダイエット、食事、仕事、家族、セクハラ、信仰、政治、スポーツなど、全般にわたって語った本。

仕事では、もっと要求しよう、稼ごうという。男を捕まえるように、つんとすまして、ミステリアスに構え、相手の出方を待ち、自分を高く売ること。相手がちゃんと扱わないならNOをいうこと。歩ける靴を履き、やたらに大きなバッグを持ち歩かず、服のためにダイエットや整形手術を考えず、占い師に仕事の相談はしない。物体に謝らず、トイレでも我慢しない。そんな風になろうって。
20代は仕事では基本的に最悪で当然で、経験の時期。惨めな仕事にしがみつく必要はないが、一挙に理想的で創造的なことはできない。泣き言を言わずに下済みから学ぼう。

友達では、恋人の次というような残り物扱いせず、女友達の悪口は言わないようにし、自分や仲間を古い価値観で袋叩きにするのを止め、友達の彼氏には手を出さず、自画自賛しあい、「魔女連盟」とか「お茶とホットケーキ売春団」といった名の女のネットワークを作ろうという。

知らない奴との初デートは、就職面接と美人コンテストとスピーチ大会をあわせたような淘汰のプロセスもんで、リスクあるから疲れて嫌って当然。愛国的軍事雑誌を読むような奴とか、絶対避けるべき男はいるけど、そうでないならチャレンジするしかないが、デートの本当の目的は、誰かステキな王子様に出会うことではなくて、友達に話す笑いの種を見つけることだし、バカから何かを学ぶことにある。

男なしでイケるのは「あばずれ」とされるが、オナニーは自分とのふれあいを深め、自分の体を知り、コントロールできることで、大好きな人とのセックスだ。91歳のおばあちゃんがいうには「わしらに自分の体を触って欲しくなかったら、神様は腕をもっと短く作っただろうよ」。オナニーのことを、「指を歩かせる」とかのほかに、「ボタンを押す」「共和党に入れる」とか、いいかえちゃおう。

女性のセックスの理由を多くの人は、@愛し合っているから、A赤ちゃんを作るため、Bあばずれだから、Cほとんど意識がないから(わけがわからず)の4つとしか考えてないし、「寝ない理由」を「責任感があるから、純潔だから、慎み深いから」とみている。

でも、セックスの本当の理由は、無数にある。自己確認、人類学的興味、懐柔、注意を払ってもらうため、赤ちゃん、お金、カタルシス、話のネタ、しゃれたおもちゃ、落ち込み、ダイエット、捨てられないため、酒酔い、断るよりラク、逃避、興奮、空想、恐怖、大人ぶる、元気を感じたい、求められたい、プレゼントをもらうため、美容、お礼、就職、親密さ、愛、仲直り、人に好かれたいから、メロドラマ、哀れみ、ナチュラルハイ、郷愁、ヒマ、友達からのプレッシャー、相手がホットだから、抱きしめて欲しいから、人を喜ばすため、パワーを感じるため、証明、反動、復習、自己教育、スポーツ、親へのあてつけ、バイブの電池切れ、楽しいし気持ちよくなれるから、などなど。

「独身女はみんなみじめ」とか「いい男は若くてかわいい子がお好き」「真の愛は瞬時のもの。運命の人に出会えばすぐわかる」「男の子は好きな子をいじめる」「バレンタインデーを一人で過ごす人には価値がなく、哀れみに値する」「レズビアンは楽」「ストレートは楽」「愛は真の恵みである」なんていう、恋愛の神話はぜーんぶまちがっている。

なーんて話がこの後もいろいろ続くんだけど、こんな要約じゃ、この本の面白さは伝わらない。その語り口の楽しさにあるんだから。

で、その語り口のうしろに見え隠れするちゃんとした思いが僕は好きだ。「アメリカ文化はますますビジュアル化してるけど、その利にあずかるべきは、モデルじゃなくて、カメラ やコンピューターのうしろにいる女たち。」

「某有名女子大の女子大生たちが『プレイボーイ』にヌードを出したこと。動機は何かって? 決まってるじゃない。知能が高いだけじゃないことを世の中に知らせるため。『頭がいいだけじゃないのよ』って。いやーね。私たち聡明な女神は『脱がないと、単なる天才数学者じゃないとわかってもらえない』なんて女に思わせる風潮に疑問をもたないと。」

「女の最大の武器が本当に「美しさと性的魅力」なら、「お金を返して」といいたいわ。だって何世紀もの間、女は・・かなりバカらしいことを信じさせられてきたんだもん。纏足したり、真鍮の輪をはめて首を長くしたり、豊胸手術をしたり、「女の武器」を磨くためにどれだけ体を痛めつけてきたことか。それで何か得るものがあった?お給料が上がった? 政治に声を反映できた?洗濯を手伝ってもらえた? もっといえば、それで世の中はよくなったかしら?人種差別がなくなった?平和が訪れた?確かに美しさには男をそそる力はあるけど、それは箱入りドーナツにだってある。私たち、もっと望みを高くもたない?賞味期間をもう少し長くしてさ。」

「若いストレートの女性たちが、今こぞってフェミニストバッシングに走るのはなぜだろう?」「アフリカ系アメリカ人は『あらー、どうしましょ。白人に嫌われちゃう』なんていって、人種差別についての発言を控えたりしない。・・・でもストレートの女たちは違う。『フェミニストだって言ったら、男に愛されない』と本気で思うのだ」

僕は、最近〈たましい〉を大事にしたいと考えてるんだけど、そこでも自分で押さえておきたいと思っているのが、「俗、闇、悪、笑いの大事さ」ってこと。きれいな正義を語るいい人になんかなりたくねーと思って、そのバランスを探してる。で、このスーザンの本では、そのあたりのバランスがいい感じなんだよね。「いい人」でいるなんてダメだー、ペニス・ジョークいいじゃん、ポリティカルコレクトネスというガードルは窮屈、アラニス・モリセットのように大声で怒りを表明すればいいじゃないかって。型――いい子であれ悪い子であれ――にはまることを拒否し、自分らしくある勇気をもっている人が魅力的だって。

「自分の問題を笑い飛ばせることほど、革命的なことはない。ユーモアは――いつもそうあるべきなんだけど――私たちの究極的な力の道具、私たちの第一の武器だ。革新的プリマドンナにとって、自分たちのことや世の中のことをくそまじめに考えることほど、命取りになることはない。はっきりいえば、自分の存在に、アホらしさのきらめきや、喜劇性が見えない人には、何かを守ったり、治めたりする仕事は向かない」

楽しい語り口の一端を少し紹介しておくと・・・
女・子どもは、生意気だ、大口を叩くなと家族・親戚から抑圧されてきたけど、次のように反撃してやろうと例示されたものは、こんな感じ。

「まだ結婚しないの?」 ⇒ 「そ、やりまくっている」
「太ったわね」 ⇒ 「いいセックスしてるからね」
「それで、いつ、ちゃんとした仕事につく気なの」 ⇒ 「エロチックダンスのどこが、ちゃんとしてないの」
「もう若くないんだから」 ⇒「げっ。それが悪いことみたいな言い方じゃん。」
「もう若くないんだから」 ⇒「だから愛人はみな年下なの」
「もう若くないんだから」 ⇒「そうね。でも叔父さんがその勢いでふけていったら、すぐおむつに逆戻りだね。」
「孫の顔はいつ見られるのかしら?」 ⇒ 「さあね。お母さん、いつ腰骨折るの?」

キャリアウーマンが、「どうして子どもを作らないの?」と聞かれたら、「あなたの子どもを雇っているから」と。

「私達は、これまでと違った方法で、勇気を出して、自分のすることに責任をとらないといけない。でもそれがどうだっていうの? 大人らしく責任をとることよりすばらしいことが、他に何かある?」

これが、「うまくいってる女の、かなり冴えた考え方」。いい題だよね。ここでの紹介の100倍は面白いから読んでみて!

なお、類似傾向で少しカタメのいい本は、『シングルという生き方』カルメン・アルボルク著(水声社)。これもおすすめ。


映画評

ケン・ローチ監督『ブレッド&ローズ』2000年イギリス=ドイツ=スペイン映画
 
学歴も米国籍もないラテン・アメリカ系女性移民マヤが働こうとする。働く場所がない。バーで体を触られるようないやな仕事しかない。彼女は姉が働いている清掃労働をしたいと願う。それはけっして高賃金ではないし、エリートたちには「見えない」存在になることではあったが、仲間がいて、なんとか生活を続けられる望ましいものだった。
 姉のローザのおかげで仕事にありつけたものの、最初の1か月分の給料を現場監督のオヤジにピンハネされたり、仲間の清掃員が遅刻を理由に首を切られたりする。仲間をチクらないからと解雇されるようなひどい状況だ。
労働組合を組織する活動をしているサムは、SEIU(全米サービス従業員組合)の“ジャスティス・フォー・ジャニターズ・キャンペーン”(清掃労働者に正義を!)を行っており、彼と知り合ったマヤたちは徐々に、自分たちのおかれた境遇の悪さ――低賃金、福利厚生なし、長時間労働、不安定就労、不当解雇――を認識するようになり、労働組合活動に近づいていく。それはもちろん、管理者たちの妨害に直面するのであるが、彼女たちは、過去の運動や仲間たちから影響を受けて徐々にたくましくなっていく。
 
この映画をみて、いろいろ思うところがあった。
どこの国でも、底辺を支える労働者たちの生き様は似ている。偉そうに管理者に言われる。中間搾取される。クビになることが怖くて、ひどい扱いに対しても何もいえない。とても立場が弱い。不法入国者であったり、グリーンカードをもたないため、さらにつけこまれる。金がなく、大学に入るというほんの少しのことさえ遠くなってしまう。
 そんな中、ずるい人も、臆病な人もいるし、自分の安全を優先する人もいる。裏切りもある。危ない組合活動などに手を出さないと判断する人がいるのも当然だろう。だが、いったん、労働組合の論理に触れると、難しい理屈とか複雑な知識とは関係なく、一直線に突き進む人たちがいる。決して全員ではないが、何人かは、仲間を大切に思うとか、自分の悔しい思いを大事に抱えて、ちょっとやそっとの困難さにはたじろがない。すぐに諦めもしない。主人公のマヤも、「学」があるわけじゃない。大学に行く時間も金もない。だが、彼女は、悔しさを忘れはしない。仲間のために盗みまでするやつだ。
 そうした“気質”と呼応するように、SEIUなどの労組の運動スタイルも、オーソドックスな面――経営者はひどい搾取をしている、あなたたちには金を取り返す権利があるという訴え方――と、大胆な創造性に彩られた面――相手の企業や経営者を追い詰めるためには、脅しやだましやいやがらせでも何だってする!――の両面がある。この映画での組合戦術をみていると、そこには、何か懐かしいにおいがある。それは、日本では長らく忘れられている、手作りの創造性のようなものだ。
そして、労働者たちは、デモを繰り返し、逮捕をさえ恐れない。日本じゃ、ちょっと考えられない。デモ?しかも、少人数で、会社の前で、何度も何度も。逮捕?日本じゃ、すぐに、逮捕を避けるような「方針」を出すだろう。「指導者」?未組織労働者と心から交流し、一緒に逮捕される、熱い生き方を持った活動家は、どこにいったのか。活動とはそういうものだったのだと思わせてくれるような、原点。だが、勇気というか、〈たましい〉というか、そういう崇高な感情は、いわなくても通じる。それを核にして、歌をうたい行進する。労働者の素直さ、たくましさ、まっすぐさは、やはり、何か大事なもののように思える。日本じゃ見えなくなったもの?それはなんだったのだろう。
おもえば、ケン・ローチは、そうした日本では“見えなくなったもの”を映像にしてきた稀有な監督だった。『リフ・ラフ』で、『マイネームイズジョー』で、彼は、どうしようもない「労働者階級」の悲哀を描いた。映画的なヒーローが出てきたり事件があって、すっとする結末があるわけじゃない。むしろ、どうしようもない現実が描かれる。でも、そこには、ケン・ローチの優しい眼差しがある。『ブラス!』や『リトルダンサー』にも共通する、イギリス労働者階級への共感の匂いだ。
 そうした匂いがもっとも浮き出ていたのが、マヤの姉の切実な叫びだろう。みていない人のためにすべては書かないが、お姉さんの存在感を描いたことがこの映画を印象深いものにしている。人間は侮れないと、最近僕は思う。表面はスーとしていても、一皮めくれば、多くの人は言うに言えない闇を抱えている。だがそれは、真実のほとばしりの領域でもある。表層をなぞるような人間観では何事も立ち行かない。姉の叫びは、人間の希望だ。日本では、叫びがなかなか見えない。主流労働運動から、叫びの匂いが消えて久しい。
 清掃労働者は、エリートには見えない存在? それは恥ずべきことでも、脱出すべき場所ということでもない。エリートたちとは何なのか。政治家や中央官僚は自分が日本を背負っていると思っている。企業で2億・3億円の商売をしている人は自分が凄いことをしている気になっている。マスコミ・報道人は自分が世界の最先端に位置して世界を見張っている気になっている。大企業に属している者は、自分がエリートで世間の成功者だと思っている。学者は凡人には分からない真実を見ている気になっている。作家は自分だけが深く苦悩しており、自分だけが心のキビを感じている気になっている。テレビタレントは業界に属し、有名であることが最上の価値と思っている。弁護士は自分がこの世のルールを支配していると思っている。
 だが、そんな人生はつまらない人生だ(と私は思う)。なぜか。無意識的にしろ意識的にしろ、既存秩序に従属し、金や情報や地位に捕らわれて、本質的な危機感を持てていないからだ。まじめな無名の人々の気持ちの中のスピリチュアル水準でのすばらしさをわからず、自分の愚かさをわからず、自分は特別と思っているからだ。自分の無能を恥じ入る感性を持ちあわせていないからだ。偉そうにすることの愚かさ、自分が生き生きと生きるということが分かっていないからだ。攻撃性や権力性や競争性や破壊性の愚かさをわかっていないからだ。世間の秩序に捕らわれない自分らしさということの大事さが分かっていないからだ。金持ちである、社会的に成功している、有能・優秀ということと人間としての誠実さ、人間の質の良さは全く無関係ということがわかっていないからだ。
 労働運動とは何なのか。きっとそれは、エリートではない無名性ということだろう。見えないものの大切さを核にもつ、自分への尊厳と仲間たちとの連帯の表れという無名性なのだ。パンと、バラを!
                           02年12月 イダヒロユキ
 
「私の市民論」 『Volo(ウォロ)』2003年12月号

やむにやまれず動き出す、スピリチュアルな人
                              イダヒロユキ

私が今、興味のある生き方は、人生のラストである「死」をいれて、悔いのないような人生(生きる意味のある人生)をデザインして、毎日を生きるというものである。一挙に北欧のようなまともな社会にならないとしても、自分が理想をもって息長く生き残り、人生を楽しみながら自分にできることをやっていく。自分の解放、自分に恥じない生き方をするという姿勢が自分の周りに影響を与え、小さくとも自分の周りでの関係を実際に変えていくことで、それが未来社会の雛型となって、徐々に社会に影響を与え、大きな変革につながっていくという展望に希望がある。そのときの主体が、私のイメージする「積極的な市民」である。

NPOが社会を変える

 こうした発想の典型が、NPOによる社会変革ビジョンである。このNPOによる社会変化の一例として、最近来日した、米国のレイプ・クライシス・センター(BAWAR:Bay Area Women Against Rape)の活動を紹介しておきたい(03年10月20日に、NPOのSEANが主催した催しにおいて、レイプクライシス・サイバーズネット関西:RCSNKとBAWARが発表したことを元に筆者が要約)。

BAWARはカリフォルニアで1971年にたった3人ではじめられた、米国初の性暴力被害者支援組織であるが、現在では有給スタッフ7名、ボランティア70名以上を抱えており、活動内容も経験のなかで必要とされるものを増やしていき、今では24時間の電話相談活動、病院・警察への付き添い、子どもの虐待防止プログラム、その他学校・地域での研修、緊急シェルター、自立支援シェルターなど多様なものを抱えている。同種のNPOは、いまや全米で900以上も存在するまでに広がって折り、中には医療施設をもって運営するといった大規模なNPOもある。

 ここで注目すべきは、まず必要と感じた者たちがやむにやまれず活動を始め(先駆性)、その活動の中で必要と思われるものへと活動が広がっていったことである。ニーズからNPOの活動は展開される。そうした活動の成功や有効性をみて、他の地域にも同じような活動が広がっていく(波及)。そして同じ課題で取り組む諸団体が連絡を取り合い、連携・協力し、「同盟」を結んでいく。どこでも同じ共通の問題にぶつかることから、それを解決するために必要な制度・システム変更の要求が芽生えていく(問題の顕在化)。そこで、法律・条例制定や改正を目指し、新法(制度)案や改正案を作り、共同でコーディネーターを雇い、ロビー活動を行い、システムを実際に変えていく。
行政や企業、他の組織などとの粘り強い交渉は、実績の累積とともに信頼関係を培い、実を結んでいき、地域のシステム全体が変わっていく。たとえばBAWARのような地域のレイプ・クライシス・センター(RCC)は、地域の性暴力被害緊急対応チームの重要メンバーになり、病院や警察との協力関係をもつようになり、警察に通報された事件はすべてRCCが支援することとされ、弁護士・警察・行政がRCCに相談に行くようになっている。


 つまり、ある課題のNPOは、その問題においては最先端においてもっとも現実・現場をよく知っている経験豊かな「専門家」であり、その問題に心を砕いている熱心な者たちであるので、あらゆる問題を平等・標準(平均)・多数の視点で扱う行政(しかもその職員は必ずしも専門性や経験や情熱をもっているわけではない)よりも、有効/良質に活動をすることができるのである。
したがって被害者への対応(対人サービス)といった微妙で高度な活動は、NPOの方がむいている。行政はそのことを認め、協力関係を築いていく。制度・法律の制定・改正においても、現実をよく知っているNPOの意見・経験を反映させることでよいものに変化していく。そうして社会システムは当事者の権利がより守られる方向に改革されていくのである。

スピリチュアルな人

 まとめるなら、教育、労働、環境、マイノリティ、特定グループ、人権擁護、政治、国際協力、宗教、異文化交流、アートなどあらゆる方面(社会問題)でのNPOが存在しており、それらが社会システムを変えていくために実践を積み重ねて、積極的提案を行うことで、社会が現実的に変わっている。そうした変革の展望の出発点は、ある社会問題にいち早く気づき心を砕いて行動する少数の人たち(スピリチュアルな主体)である。

NPOはけっして行政の下請け機関であってはならない。先行研究が示すように、NPOには先駆性(社会的実験)、自発性、独立性(非政府、他の組織から自律)、多元性(多様な選択肢を保障するという豊かさ)、批判性(行政や企業のチェック)、人間性(心を込めた質をもつ特性)、非画一性(個性/多様性に対応)、民主性(市民の参画、当事者尊重)などがあり、それらは社会にとってNPO――企業、行政に対する第3のセクター(ボランタリーセクター)――が必要である事を示している。
語るだけ(心痛めるだけ、祈るだけ、瞑想するだけ、投票するだけ)では変わらない。身近なところから変えていくのがNPO的実践であり、それを行う人が「積極的な市民」である。

 その他の分野でも、新しい、希望を感じられる運動には、こうした〈たましい〉をもった個人の声を大事にする、そしてみずから動いていくというNPO的な――私の言葉では〈スピリチュアル・シングル主義〉的な性質が共通に見られる(拙著『スピリチュアル・シングル宣言』明石書店、参照)。

 人権意識を高める学習運動においても、ワークショップ型学びが、〈スピ・シン主義〉の実際の出現形態となる。〈スピ・シン主義〉とよく似た発想の白井俊一『人権相談ワークショップ』(解放出版社)はそのあたりをうまくまとめている好著であろう。個人の内面変革と社会システム改革の統一を目指す学び自体が、NPO的活動/性質であり、かつ「新しい運動」の重要な一部なのである。

『クーヨン』04年10月号 
「men’s voice caf&eacute; 」   今月のマスター:イダヒロユキ

過労死しないか心配。どうすればいいのかわからない。

来店客 

夫(38歳)は朝7時に家を出て、帰りは夜の11時、くたくたに疲れていて家では不機嫌になっています。妻である私(35歳)は、パートをしながら家のことをひとりで担い、家事や育児分担などは夫に一切求めずがんばってきました。夫の機嫌を損ねないように一生懸命尽くしてきました。疲れている夫に「働きすぎて体を壊さないでね」と声をかけ、気遣っていますが、夫は「そんなことを言ってもどうしようもないんだ! 俺がいないと仕事がまわらないんだよ。クビになったらどうするんだ」と語気を荒げて怒ります。過労死が心配ですが、どうしたらいいかわかりません。夫婦の関係もなんだかうまくいっていない気がします。

マスター  

この状況はつらいなぁ。彼は余裕がなくなっているんやろね。現実はホンマにキツイから、会社はぎりぎりまで人を削って責任ばっかし負わせとるんやろなあ。彼が「俺がいないと仕事がまわらへん」というのもホンマやろねぇ。あんたもそれがわかるから、どうしたらいいのかわからんよーになって、神様に「どうか過労死など起こりませんように」と祈るしかないようになってるんやろなぁ。わかるわ。どんづまりで、しんどいなー。

まあ、その上でいうんやけど、考えられるとしたら思い切って考え方の枠を広げてみるちゅうのもあるんちがう? 僕は、男女は平等で当たり前やとおもてるけど、そこには、男ももうちょっと枠から自由になりーやという意味があるんよ。

彼、38歳やろ。もう15年以上も働いとるやんか。それでやで、65歳まであと27年間も走り続けるんか、ゆう話や。彼にゆうたってほしいんや。人生、1回やでって。1つの会社にエネルギー全部とられてしもたらあかんでーって。仕事も大事かもしれへんけど、健康を損ねたり、死んでしもたりしたら後悔しか残らへんで。家族も泣く、ちゅーねん。

たとえ病気にならへんかったとしても、40歳代、50歳代の時間、充実してるか、ゆうこっちゃ。アリとキリギリスやないけど、今ガマンして65歳から妻や子どもとの時間や自分の趣味を大事に味わおうと思ても遅いわけや。自分が元気な40歳の時間、子どもが10歳の時の時間は手に入らんねんからな。

せやから、いっぺん、彼に「あんた、人生でホンマにしたいことしてる?」って聞いたってーや。「ちゃんと家族のために働いとるやろ」とかいう決まりきった答えが返ってきたら、「ちゃうんねん。あんたが自分の心の奥底をみつめて、ホンマにホンマに、ホンマにしたいことの話をしとるんよ」ってゆうたりーや。

そんな理想主義みたいなことゆうても無理やって、また最初の話になるわな。そのとき、仕事を辞めるゆう選択肢を入れて考えたらええんやでって、ゆうたってください。家のローン、子どもの将来、老後の心配、次の仕事のこととか、いろいろあるやろーけど、定年退職するまで同じ会社で働き続けることは避けようがないと思うのが、間違いやでって。

何も明日すぐに辞める、ちゅうようなことをゆうてるのと違うで。そういう大きな発想で、自分の人生の全体のバランスを考えたらどーやちゅーこっちゃ。3年後に会社を辞めるとか、考え出したら、みな元気になるでー。そういう視点がないと、過労死・会社人間は避けられへんで。大事なことは、金や肩書きなんかとちごてな、今、自分がどう生きているか、笑ったり遊んだり、周りの人にやさしくできているかみたいなことちゃうんかってことや。

これをあんたが言い出すゆうことは、「夫婦ワンセットでとらえて、男性(夫)が家族を養うのは当たり前」ゆう枠をはずすゆうことでもあるんや。あんたも覚悟を持って、貧乏になることも含めて、人生考え直すってことや。今の枠内で、妻役割がんばったり、夫に尽くしたり心配するだけが愛情ちゃうで、ゆう話や。でもな、女性が自由になったらええように、男性も自由になったらええんや。それが対等と言うことやと思うし、そんなことが話せる夫婦になったら、また関係も変わってくるんとちゃうやろか。まあ、他人の無責任な話やけど、参考にしてみてーや。


日本女性学会誌『女性学』 掲載原稿 4000字 9月15日締め切り

書評
ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの:情熱の政治学』新水社、2003年
                  伊田広行(『はじめて学ぶジェンダー論』著者)

私が好きなフェミニストを今2人あげるとすれば、北原みのりとベル・フックスだ。勢いと〈たましい〉を感じるから。ベル・フックスさん(以下敬称略)は、1952年生まれのアメリカの黒人フェミニストで、「白人・中流以上階層女性の問題だけを取り上げる主流フェミニズム」ではないものを求めてきたラディカルな人。その彼女の主張がわかるやさしいフェミ入門書が『フェミニズムはみんなのもの』(原著2000年)である。フェミ叩き・フェミ嫌いが横行する中で、実は多くの人はフェミ自体を知らないので、手軽に手渡せるものがほしいと思って、ベル・フックス自身が自分で書いたものだ。すべての世代の女性と男性にフェミニズムってこうなのよ、あなたのものよ、「未来を開くフェミニズム」にしていこうよ、と訴えている。

私は、1998年に雑誌『We』に堀田みどり碧さんが紹介していたものを読んでベル・フックスに興味を持ち、その後間接的にはその名前と主張の概略を目にしていたのだが、ちゃんと読んだことがないままになっていて、この『フェミニズムはみんなのもの』でようやくその香りを感じることができた。そしてかなり好きになった。それは私の〈たましい〉に響く匂いが感じられるからである。あることへの「感じ方」といったものは、もうそれは体臭に似ていて、それが似ている人に私はほれ込むのだが、ベル・フックスにはそうしたものを感じた。

 どういうところが魅力かというと、自分の狭い専門分野の発想や物言いに縛られておらず、労働者階級も含めた草の根の運動の中で鍛えられたバランス感覚があるところがそうだとまずいえる。

米国、日本を問わず、学者研究者というのはどうしても、知らぬ間に専門用語で学者っぽい言い回しになってしまいがちだ。社会運動にも参加しない人が多い。だから観念的になったり、ブレることが多い。いいものを書いても学問スタイル的すぎると多くの人には届かないが、そのことに無自覚な人もいる。「だからどうなんだ」となるとだめなものが多い。CRのような学びと自己変革の場というより、知識を得る/与えるエリート的なものとなっているような「ジェンダ―論」をやっている大学もある。社会が男女共同参画だといい、企業の中でのし上がることがまるで女性の権利の獲得であるかのような風潮がある中で、ついそっちにひっぱられてしまう人は多い。嫌われることをいいたくないようになる。保守派も含めてだれもが認める「男女平等」はいえても、「過激」なフェミニズムの主張をリアルに展開する人は少ない。マスメディアも、真のフェミニズムには関心を示さず、もっぱら、大都市に住んでいる裕福な人の――米国なら白人の――、しかもおうおうにして美人の、特権を持った高学歴エリート女性たち――彼女たちは男性の賞賛を浴びようと媚びるのがうまい――の非政治的な主張を、フェミニズムを代表するものとみなす。

だがベル・フックスは、そのような傾向に鋭く反発し、まずエリート学者や企業で出世するような上昇志向の女性たちが「フェミニズムの言葉」を用いることを批判する。そうした権力を求める「パワー・フェミニズム」は、真のフェミニズムではなく、逆にいまの「白人中心で家父長主義的な資本主義」を裏側から支えるものになってしまっていると批判する。つまり彼女は、現存する制度の枠内での(特権を持っている)男性との平等だけを運動の目的にしようとした改良主義的フェミに反対し、もっと広く、差別、搾取、抑圧、暴力をなくし、「システム変革をめざす革命的な運動」としてフェミニズムをとらえ、そのようなものにしようというのだ。貧しい女性の具体的な情況に運動の基礎を置かねばならないという。

その文脈で、「専業主婦から働く自立した女へ」というようなテーゼは、もともと貧困ゆえに働かざるを得ない労働者階級の女性をみていない、働いたから解放されるのではない、と主張する。もっともだ。

これは日本の文脈で言えば、たとえば「女性の中の成功者」が審議会などで「女性の立場」と称して役人が予想する範囲内の穏健な発言をいちおうしているような状況は、まったくフェミ的でないということになる。またパート労働問題を射程に入れず、むしろそうした低賃金不安定雇用を前提として、経済や組織運営や政治権力を語るような主張は、まったくフェミとはいえない、ということになる。

 次に、ベル・フックスは、以上のような視点をベースに、今の性差別的で暴力的な社会を支えているのは男性だけでなく多くの女性もそうだと批判する。フェミニズムは女性の連帯――シスターフッド――を歌い上げるが、それは女性だから自動的にみなが仲間というのではなく、女性の間での違いを尊重し、ともに抑圧・差別と戦う中で培われるものだという。男女ともに、「内面化された性差別」と対決するような姿勢(コンシャスネス・レイジング)がいるという。犠牲者とだけみるのでなく、階級、人種の視点なども入れて、女性が他の女性を支配している場合にそれと闘うことで、シスターフッドは力を持つと。そして、今のひどい社会と闘う点で、男性もともに戦う同志になりうるとし、男性敵視論にこだわるのは、生物学的決定論(本質主義)になっている点で理論的に誤りだし、運動としても、フェミニズムを「男嫌い」と決め付ける保守的メディアの宣伝に加担してしまっているとする。だから女性の解放に求めるものを男性にも求めるという立場をとる。

 こうした彼女のスタンスは、男性でありながらフェミニストである私にはとてもまともな主張だと感じる。私は「勝ち組指向」であったり「フェミニズム嫌い」であったりする権力を持っている女性がきらいで、そのことを友人のフェミニストにいったとき、「伊田は実は女嫌いなのね」と言われたことがある。男性である私が、何であれ女性を批判すると、「今の社会で女性は劣位にあるし、男はもっとひどいことをしている」という文脈で、やっぱりわかっていない、というようにとられたのだと思う。でももちろん、私は権力をもっている男性もきらいだ。この点は微妙な問題ではあるが、ベル・フックスのいうような文脈で理解しあえたらなと思う。

 またベル・フックスには、フェミニズム運動の退潮に的確に危機感を持ったうえで、それに対処する方向を、希望の感じられる言葉で伝える力がある。この点も彼女の大きな魅力だ。米国でも日本と同じく、保守系言論人を中心に、フェミニズムは終わったとか、フェミニズムは間違っているというバックラッシュが繰り返しあり、また大衆的には若い世代を中心にフェミニズムへの無関心が広がっている。

それに対し、ベル・フックスは、真の魅力的かつラディカルなフェミニズム運動の再興が必要だという。フェミニズムが力を失っているのは、政治信条は関係ないという、いい加減な、うわべだけの「フェミニズムと呼べないようなもの」がフェミニズムと思われているからだとみる。したがって、運動内容としても反暴力・反権力的なラディカルなものになること、またそうしたフェミニズムの魅力、その解放像をわかりやすく伝える手段がいることを熱心に訴える。たとえば、フェミのメッセージを正しく伝えるような、雑誌の広告や交通機関の中吊り広告やテレビCM やTシャツや車のステッカーや絵葉書や看板やラップミュージック、子どものための本、録音テープなどを考えようよって。つまり彼女が求めているのは、フェミニズムの主張のレベルをよりわかりやすく、かつより高くしていく中で、今のひどい差別社会をよりよきものに変革していく闘いの中心的な武器にフェミニズムを鍛え上げていこうということだ。そうした高い志が、この本にはあふれている。

 その「高い志」にかかわるのが、「スピリチュアリティ」への言及である。日本でフェミニズムや人権論が論じられるとき、この点に触れる人はほとんどいない。だが、ベル・フックスは、キリスト教などの既成宗教の性差別体質への批判を踏まえたうえで、それでもフェミニズム的なスピリチュアリティを伝えることの重要性をいう。それだけでなく、彼女がフェミニズムを「フェミニズムが目指すのは、支配をなくし、自由にあるがままの自分になること――正義を愛し、平和な人生を生きられるように、私たちを解き放つことである」などと歌い上げるとき、そこには、スピリチュアルな魂の匂いがある。

私はこの本では特にレズビアンやセクシュアリティを論じた16章に、スピリチュアルな意味での格調の高さを感じた。そこでは、レズビアンへの深い共感が示され、どこかの高みからセクシュアリティの点で相手を非難することの傲慢さ、女性は自分が幸せになるために男性に頼る必要も縛られる必要もないこと、性差別的な男性に欲望を抱かないフェミニスト女性こそが男性には脅威であることなどが示された。彼女のフェミニズムが深い質であることが伝わる章であった。

 その他、詳しく紹介する余地がないが、彼女の主張には、家父長制を見抜き「批判的意識」を育て闘い方を学べるフェミニズム教育(学校設立)の提起、体験だけでなく自覚と選択を通じてフェミニストになるというレベルでフェミニズムの質を階級、人種、ジェンダーの総合的視点から深くとらえていること、中絶の権利保障を含めた、セクシュアリティにおける積極的な性的自己決定と性的欲望肯定の議論――これは北原みのりの戦いなどと重なるところであろう――、ダイエットに関わる「美」について、自分が自由になり、自分のからだをそのまま愛することができるようになるフェミへと提起している点、DV・虐待問題をメディア的な表面把握にとどめるのでなく、戦争、軍事優先主義、青少年の暴力、人種差別の暴力、ジェンダー的子育てといったすべてとつなげて捉え、大人たちが非暴力的な育児・教育法を身につけるよう提案する点、家父長制的ではない、新しい対等なパートナーシップの必要性の提起、フェミニズムが生活の隅々にまで行き渡っている具体的かつ豊かな未来像を示してフェミニズムの影響力を広げようという提起、など多くの魅力がある。

「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」、「フェミニズムが目指すのは、支配のない世界、各個人それぞれが相手を思いやる精神が隅々にまで行き渡った世界に生きること」、「私は、フェミニズム運動はあらゆる形での暴力をなくすという高い目標を持つべきだと信じる」という簡単ではあるが重要な考えを伝えるすばらしい入門書である。私は日本では、これだけのイキのよさと「スピリチュアルな匂い」をもったフェミニズムの本をあまり見たことがない。ぜひ一読をオススメしたい。

日本女性学会 ニュースレター 101号原稿  05年1月2日    
イダヒロユキ
「ジェンダーフリー概念を捨て去るという退却戦略は有効か?」
『We』2004年11月号や同時期の研究会などで展開されている、ジェンダーフリー・バッシングに対する「ジェンダーフリー概念を使わなければいい」という上野千鶴子さんや一部論者たちの意見に対しての私の意見を少し述べます。

そこでは、ジェンダーフリー概念をめぐる戦いは、言葉使用を巡る象徴闘争、名目上の戦いにすぎず、意地の張り合いに過ぎず、バッシング派と推進派のどちらが勝利しようと実際の女性の行動や運動は変わらないので、この戦いに乗らなければいい、ジェンダーフリーという用語を捨てたらいいというようなことが指摘されています。またジェンダーフリーという概念が、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読に基づくものだということを根拠にして、この概念を使うべきでないという意見もあります。

まず私がいいたいのは、前号でも述べましたが、外国人の誰がどういった、いっていないというのは権威主義の発想だということです。(同じことは、政府・官僚の答弁についてもいえます。)大事なことは、私がどのような意味で使っているか、日本の運動の中でどのような意味で使われているかです。「誤読だ」ということをもって何かがいえるというのはとても狭いアカデミズム的な姿勢です。そもそも誰か一人の最初の使い方にだけ正当性があるということはいえません。細かい議論は省きますが、どこを見ての議論かが大事です。

次に、私がどのような言葉、概念を使おうと、反対のために反対する人から邪魔されたくない、と言いたいとおもいます。文句を言われたからある言葉を使うのを引っ込めるということが、本当にどうでもいい、名目的な象徴の戦いに過ぎないといえるでしょうか。

というのは、今、天皇制や戦争をめぐってつばぜり合いが続いています。日の丸・君が代の押し付けで処分があるとき、保守派がうるさく言うからと、日の丸を掲げましょう、君が代を歌いましょう、抵抗をやめましょうというのでしょうか。むしろ思想の自由を各人が表明するべきときなのではないでしょうか。そこをめぐって、自由に意見を言えるようにしようというとき、日の丸などをめぐる議論や言動の対立は、どうでもいい戦いといえるでしょうか。

性教育では、この教材を使うな、ペニスやヴァギナという用語を使うなという圧力がかかっているときに、そういわれたから使うのをやめましょうとなるでしょうか。ジェンダーフリーについても、一部では、女性センターなどに「ジェンダーフリー」という用語が入っている文献をすべて撤去するような動きがあります。講演者の人選にもジェンダーフリーを主張している者を選ぶなという圧力があります。講演者に「ジェンダーフリー」という言い方は自粛していただけますかという要請もあります。そういうときに、上記の「ジェンダーフリー概念を使うのをやめよう」という意見は、どのような作用をもたらすのかという視点が大事です。

私個人はこれまでジェンダーフリーという用語は積極的には使ってきませんでした。しかし自分が使ってこなかったから安心ということで、ジェンダーフリーをつかってきた者たちが排除されていくのを横目で見ているだけでいいのかという思いがあります。歴史教科書にも出てきた、「最初は共産主義者、次に自由主義者が排除されていった」という事実をもう忘れたのでしょうか。

つまり、今、「・・・をしろ」「・・と考えろ」「・・に賛成しろ」という圧力があり、それとの関係で、「逆に・・・を言うな」、「・・・をするな」という圧力もあるのです。何がしさの「正しさ」の押し付けが現にあるのです。その「正しさ」を基準にした言葉狩りや行動狩り、言動チェック、監視体制が始まっているのです。それに従う人が増えているときに、それに反抗する人がそのスタイルを表明すること、自由な意見表明の大切さを訴えることはとても大切と思います。若者・生徒・学生一人一人に、大人はどのような気概で生きているのかを見せられるかどうかが試されている場面が続いているのです。多様性という概念を本当に伝えることができるかどうかの境目です。口先だけの民主主義理解のメッキがはがれるときです。

「ほうっておけばいい」といいますが、ほうっておけば向こうはさらに図に乗って、法律や制度で周到に自分たちを正当化していき、こちらの自由はもっと少なくなる可能性が高いと思います。だからこそ、私は、どんな言葉を使ってもいいじゃないですかといっていきたいと思います。「ジェンダーフリー」をやめて、「男女平等」にすればいいといいますが、政治的な戦いは、一つ後退すると次は、ジェンダー(ジェンダー・センシティブ、ジェンダー・バイアス)やリプロや性教育や男女平等や中絶という用語を巡っての戦いになるのです。
すでに指摘されているように、「男女平等」概念だけでは、フェミニズムを通過しない男女性別特性論レベルのままになるからこそ、リヴもフェミもさまざまな概念を豊かに展開してきたのです。だからこそ、各人が男女平等もジェンダーフリーも豊かに使っていけばいいのです。ジェンダーフリー概念は確かに曖昧な概念ですが、ヘンな使い方には適切に否定しつつ、自分のなかの積極的な意味を前に押し出すことがいると思います。ジェンダーフリーに賛成か反対かの踏み絵を迫られたとき、その内容を巡って闘いつつ、私の自由を守るという意味で「賛成だ」とはっきりいうことが要るのだとおもいます。
そしてその戦いを広げ、逆に相手方一人一人に、どういう意味でそういっているのかを突きつけて議論をしていくことがいるのです。私なら、シングル単位論を展開します。これならジェンダーフリー概念が単なる意識の問題に解消しているとか、アファーマティブ・アクションにつながりにくいという心配もなくなります。

ヌード・ハダカ規制において、とにかくハダカがあるとダメ、そんな本を撤去しましょう、出版禁止としましょうというようなことは、思想統制のおぞましい社会といえます。同じように、内容に関係なく、「ジェンダーフリー」という言葉が入っている本はダメ、そんな文献は置かない、閲覧のところから撤去するというのは、思想統制社会です。そこをめぐっての闘争が、どうして空中戦でしょうか。ほうっておくとは、言いなりになって本を撤去することでしょうか。

 以上の基本スタンスをおさえて、ようやく「戦略」の話ができます。
男女平等への同じ思いをもつフェミニストのなかで、以上のような基本を押さえた上でも、今の状況の中で、ジェンダーフリーという概念は守りにくい「陣地」なので退却しようという意見があります。性別秩序自体の廃棄という究極状態を巡って戦うときではないので、今は現状を変える次の一歩として、「究極像をイメージさせるジェンダーフリー」はやめて、個人の選択の尊重というラインまで下がって闘う時期ではないか、そのプロセスこそ大事だという意見です。

この意見はわかります。本当にうまく退却できて、新たに戦いに有利な陣地を作って、そこに犠牲を出さずに「転進」することができるならいいとおもいます。でもまず上記したように「ジェンダーフリー」だけの退却ですむかという問題があります。それができるぐらいの力量があるなら、ジェンダーフリーという前線でも僕なら戦えるという感覚があります。ただ行政という公的な場所では確かに退却するのも一つでしょう。
問題は、単なる退却でなく、このことを通じてみながジェンダーフリー論が目指していた高いレベルのフェミニズム、ジェンダー論を語れるかどうかということです。ですから、実はジェンダーフリーという言葉をめぐる問題は、フェミニズム側の質と量の問題だったのです。程度の低い反論などいつの時代にもあります。フェミニズムをめぐってはこれからも難しい議論が続くでしょう。そのひとつひとつに豊かに意見を構築していくことこそ大事なのです。

そしてその議論の中に、たとえば私のような「究極的理想像やラジカルなことをいうような論者」がいてもいいと思っています。「そういうことをいうやつがいるから迷惑だ」というのは危険な発想です。「そういう意見があってもいいじゃないですか、でも私はこう考えますよ」というスタンスを皆がもてればいいなと思います。そうしないと運動は常に分裂します。それに私はシングル単位的な関係は、部分的にならば今すぐ作れると思っています。

なお、フェミニズムの精神を伝えるイキのいい入門書として私は、サンドラ・ヘフェリンの『ドイツ女性 自立生活の楽しみ』(カッパブックス)と、ベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの』(新水社)をあげたいと思います。こうした勢いを持って、バッシングの波を押し返すのは楽しい作業だとおもいます。



日本女性学会 ニュースレター 100号原稿  04年10月20日

ジェンダーフリー・バッシングについての私の個人的なスタンス
伊田広行

ジェンダーフリー・バッシングについて、紙幅がないので、結論のポイントだけを書く。まず、バッシング勢力からの無理解、誤解、意図的な矮小化、さらには歪曲やウソなどがあるのはご承知のとおりである。どんな運動や主張にも不完全なものや単純化しすぎたものが混ざることは避けられない。そこもバッシング派から突かれている。そのとき、どう対処するかで、意見は分かれる。

 私の個人的な考え方は、他者の「ジェンダーフリー」の理解や定義の上に、それを擁護しようとするのではなく、「私はこのように使っています」と自分(たち)独自の定義や理解を示して、むしろ積極的にこの概念の有効性を訴えていけばいいということである。「ジェンダーフリー」を使わずに「男女平等」や「ジェンダー」を使えばいいという自粛スタンスは、そのうち、「ジェンダー」も「リプロ」も「性教育」も言葉狩りされるというように、とめどなく後退を余儀なくされるであろう。私がどんな服を着るかを指図されたくないように、私の言葉(概念)使いをどうして他者から指図される必要があろうか。過去の理論的蓄積を、どうして単純な意見によって押し流される必要があろうか。

具体的には、あなたはどの本を読んで「ジェンダー(フリー)」をそのように理解しているのかと問い、私はこの本、この論者の主張に基づいているといって、自分の自信のある土俵に議論をもっていくことであろう。
次にそれに対しては、教育や公的な場所においては、そのような偏向した個人的な意見をいう権利はなく、正しいことが教えられるべきであるという反論がくるだろう。では、「正しい」「偏向」とは何か。教育の中立性・客観性とは何か。そのような、昔からの議論を、再度自分なりに消化して説明できることが必要であろう。社会科学の素養を少しでもつめば、ある近代的な概念の相対化の姿勢と、その上での各人の思想の自由を譲ることはできない。そこを保障せずに、何がしかの「正しさ」の押し付けという幼稚なスタイルをとるとするなら、それは学問自体の放棄になる。

その上で具体的には、男女平等、男女共同参画、人権尊重、差別(偏見)反対、家族尊重という「相手方も認める用語」を、自分のジェンダー理解、さらには、エンパワメント、多様性、暴力と非暴力、権力・支配、自己決定、家族単位とシングル単位、スピリチュアリティ、性的少数派、セックスとセクシュアリティ、恋愛と結婚、結婚と離婚、アンペイドワーク、正常と異常、本質主義と社会構築主義、伝統と差別、区別と差別などの理解と結び付けて豊富に展開するのがいいと思う。私のこの主張のどこに、あなたは反対なのですかと自信を持って言っていけばいい。圧倒的な豊富さと深さによって、私(たち)の主張の真髄を伝えていくこと。その場があらゆるところに開かれているということである。私たち一人一人は常に、歴史の1ページ1ページを書く前に立たされている。戦前に戦争体制に迎合する人が増えていったときにも、それとは異なる選択をした人はいた。


なお、私のジェンダー(フリー)概念の理解は、拙著『始めて学ぶジェンダー論』(大月書店)に書いてある。バッシング派の方で反論のある方はそれを読んでから意見を言ってください。


05年5月20日
私が辻元さんを応援するワケ
                                 イダヒロユキ
今度、辻元清美再生プロジェクトの共同代表をさせていただくことになりました、イダヒロユキといいます。はじめまして。で、よろしく。
私が辻元さんを応援するわけ? エーとなんだろ? 当然なような気がします。今のおろかな政治家がばっこ跋扈する国会にあって、真に対抗的なパワーをもっている人だからだし、僕自身が、少しはまともに生きようとしているので、まあしんどいところでがんばっている彼女を「見殺し」にはできないなあ、無関心ではいられないなあと思ったからだし・・・。まあ、近所だという偶然もあるし。

で、突然ですが、元吉本興業ののりやすひろみつ軌保博光(てんつくマン)の「107+1 〜天国はつくるもの〜」という映画観ました。彼の本も読みました。アフガニスタンの絶望的な状況の中から伝わってきたのは、「あきらめたらあかんのは、俺やったやん」ということでした。観てない人にはようわからんわなあ。ごめん。でも彼が繰り返し伝えようとするものには、普遍的なものがあるように思えるのです。それは、「感動無き続く人生に興味なし」とか「痛いとかつらいといったマイナスのことに対しては、そこに意識を集中するのでなく、楽しいことのエネルギーで突破する」ということでもあるのだけれど、もう一歩突っ込んで見れば、枠をつくり動かしていくアイデアこそ勝負のしどころだということです。これは、加藤哲夫さんや片岡勝さんにも通じる、ワークショップ的というか、問題解決を考え続ける生き方というスタイルです。それは古いスタイルとホントに一線を画します。

辻元清美的なものは、そういうのととっても重なると思うからこそ、僕は近くにいて少しでも何かしたいなと思うわけです。彼女がこれまでの政治なるものと同じなら、そこに変化し続ける潜在力がないなら、僕はここまでコミットしないでしょう。彼女は変化し続け、探し続け、迷い続け、「こっち」側にい続ける人だと直感的に思うからこそ、僕なりの「信頼」ができるのです。

さあ、こんなところが僕なりの「応援するわけ」です。でもこれは僕の物語。あなたにはあなたなりの「応援するわけ」があるはずですよね。彼女は、憧れのリーダーでも救世主でもヒロインでも教祖様でもないです。答えを教え導いてくれるのを待つ受身的な「大衆」は必要ないです。彼女にがんばってもらって、僕らは安全なこっちで観客してるってもんじゃないだろうってことです。自分で問題解決のアイデアを求め続ける人が、政治的には、辻元さんの応援もするという位置にいるのだと思います。