荒木村重












プロフィール

信長が郷義弘の脇差に刺した餅を村重に差し出した図  丹波国多紀郡八上城(篠山市)にいた波多野の一族といわれている。
 父、荒木高村の代、天文、弘治(1532〜57年)頃、西摂の国衆の一人池田氏に仕える。織田信長の 入京後は、池田勝正も信長にくだり、旧領の領有をそのまま認められ、以降高村の子、村重は池田の家 臣として信長に仕える。










村重の反乱
天正6年(1578年)10月20日、天王寺の砦にいた細川藤孝(幽斎)は家老を安土につかわして 、村重に異心のあることを信長に注進。翌21日に他の諸将からもその旨注進。
 信長は、明智光秀、松井友閑、羽柴秀吉ら近臣を村重のもとに派遣して、事情聴取させ、これを思い とどませようとした。
 これに対し村重は、信長に少しも異心がないと答え、人質に母を差し出し、信長に陳謝することを約 束。
 陳謝釈明のため安土に向かう途中、茨木に立ち寄り、中川清秀(村重の従兄弟)らに相談した後、意 を翻して反逆を決意。


異心の噂の内容
 当時、石山本願寺派と敵対していた信長軍団の中にあって、村重の軍の中に、石山城(境内)中に兵 糧が乏しいことを知って、夜々小舟でもって、密かに篭城軍に米を売っている者がいる。安土では、こ れを村重が本願寺に一味し、信長に対して反意をいだいているものと評定した。

中川清秀の意見
 信長に陳謝弁明したところで、無駄であり、安土にでかけることは信長に首を渡すようなもの。だか ら、安土で腹を切るよりは先手を打って反旗を翻した方が良い。
 また、これとは別に、反信長連合軍において重きをなす毛利氏や本願寺からの盛んな誘いもあったと もいわれている。


高山右近にとっての村重の乱
天正6(1578)年11月10日、高山右近の居城である摂津高槻城は 雲霞(うんか)のごとき大軍に囲まれていた。眼下に広がる淀川べりには織田軍最強の戦闘 部隊である前田利家の旗指物(はたさしもの)がはためき、攻撃の合図を今や遅しと待っていた。
 高槻二万石を領する右近は当時、26歳。ジュスト(正義の人)の洗礼名を持ち、父親の飛騨守(ひ だのかみ)(洗礼名ダリヨ)とともに幾度も虎口(ここう)を脱し、5年前、ついに主筋にあたる和 田惟長(これなが)を放逐して城主の座に就いた。敬虔(けいけん)なキリシタンといえども、乱世 をのしあがってきた経歴は、あまたの戦国大名と少しも変わらない。
 対する利家は41歳の男盛り。14歳で初陣を飾り、槍(やり)一本で武功を重ねてきた。3年前、越 前府中(武生市)に三万三千石を得て初めて念願の大名となり、北陸軍の軍団長・柴田勝家の幕下 (ばっか)にあった。
 利家が北陸から長駆出陣してきたのは、摂津の領主荒木村重(むらしげ)が突如、本願寺・毛利氏 と通じて信長に反旗を翻したからである。荒木氏傘下の有力大名であった右近と利家はこのとき、敵 としてまみえた。おそらくこれが、後に不思議な縁(えにし)を結ぶ2人の出会いであったと思われ る。
 信長が荒木氏攻略にもよおした軍勢は、大掛かりなものだった。利家の周囲には明智光秀、丹羽長 秀、滝川一益(かずます)ら織田家の宿老に加えて、織田信忠、佐々成政の軍勢がひしめいていた。 その背後には陣頭指揮を執るべく出馬した信長の本営があった。
 信長が自ら出陣せねばならぬほど、荒木氏の謀叛(むほん)はゆゆしき事態を招いていた。大坂の 石山本願寺は、中国の覇者毛利氏と同盟を結んでいる。荒木氏の謀叛によって、この両者をつなぐ中 継地ができるばかりではない。播州攻略に手をかけたばかりの羽柴秀吉軍は、正面から毛利方の別所 軍、背後から荒木軍の挟撃を受けることになり、戦線崩壊の危機に立たされていた。
 荒木氏謀叛の急報を受けた信長は当初、容易に信じようとしなかった。「何かの間違いではないか」 とさえ言った。信長は荒木村重の器量を認め、織田家の宿老と同等の処遇を与えていたからである。
謀叛の理由は村重配下の者が本願寺に兵糧を売っていたことが露見したためと言われるが、果たして 事実であったかどうか。むしろ、信長に疑いを持たれたこと自体に村重は恐怖したフシがうかがえる。
 26歳の若さで高槻城を預かる右近にとっても、村重の謀叛は寝耳に水だった。右近が村重のいる有 岡城(兵庫県伊丹市)に駆けつけたときは、既に裏切りが決した後であり、懸命の説得もむなしかっ た。
 キリシタンの洗礼を受けている右近にすれば、本願寺と手を結ぶことは信仰上の裏切りに等しい。
当時、外国人宣教師たちの最大の保護者は信長その人であり、信長軍を敵に回す愚を右近はだれより も強く感じ取っていたのである。
 だが、村重の下には、3歳になったばかりの右近の長男と妹が人質に取られていた。右近が荒木氏を 裏切れば、武門の誇りは地に落ち、人質は真っ先に殺される。右近の最大の理解者であった飛騨守で すら「孫を見殺しにできぬ」と声高に主張し、信長の軍門に下るなら切腹すると公言していた。
 麾下(きか)の軍勢を根こそぎ投入した信長は、圧倒的な武力を見せ付けたうえで、右近を袋小路 に追いこむ最も効果的で非情な手を打つ。イエズス会京都地区修院長のオルガンチノに右近の説得を 命じ、もし説得できなければ、キリシタン宗門を断絶すると迫ったのである。高槻城下はもとより、 日本のキリシタンの命運はこのとき、右近の手に委ねられていた。
天正6(1578)年11月16日、高山右近はオルガンチノとともに摂津郡山(大阪府茨木市) に陣を進めた織田信長の元へ出向いた。まげを落とし、腰の大小もなく、素足に草履(ぞうり)履き 、紙衣(かみこ)一枚きりのみすぼらしい姿であった。
 右近を引見した織田信長は、その凄愴(せいそう)な姿にしばし声を失い、太刀(たち)を帯びる よう命じたが、右近はこれを辞退し、「このままの姿で追放して欲しい」と言った。
 信長は右近の訴えに耳を貸さず、喜色をあらわにして着ていた小袖を脱ぎ、吉則(よしのり)の太 刀とともに右近に与え、秘蔵の名馬早鹿毛(はやかげ)を贈った。さらに所領高槻を安堵し、播州芥 川(ばんしゅうあくたがわ)(兵庫県)二万石を加増した。よほどうれしかったのだろう。
 実際、高槻城の開城によって、荒木氏の脅威は半減した。荒木軍をサザエに例えるなら、高槻城は 堅い蓋(ふた)に当たる。蓋さえ取れば、あとは柔らかな肉を気長につまみ出せばよかった。それほ ど高槻城の戦略的価値は高かったのである。
 信長は右近の出家を断じて許さず、直参の家臣に留め置いた。これは高槻城の価値とは別に、右近 の将才を高く買っていたからだった。
 信長はこの時期、敵将の投降をめったに許していない。明智光秀の丹波攻めでは、光秀が求めた波 多野秀治の投降を許さず、京で磔(はりつけ)にした。このため、波多野氏の人質となっていた光秀 の母親が殺される悲劇を生んだ。羽柴秀吉が毛利氏攻略の切り札として求めた宇喜多直家の投降もは ねつけた。
 将来、織田家の所領が減るという即物的な理由というより、調略する相手が手駒として使いでがな ければ、一切情けをかけなかったのである。信長は、苛烈なほど部下の無能を憎み、勇気と清廉さを 求めた。右近は信長の厳しい目にかなったのである。
 右近の降伏とほぼ同時に、高槻城は開城した。徹底抗戦を叫んでいた右近の父、飛騨守(ひだのか み)は荒木村重のいる有岡城へ走り、村重に改めて忠誠を誓った。右近の非道を泣くように訴える飛 騨守を村重はむげにもできず、人質を殺さなかった。
 のちに、有岡城が開城した際、飛騨守は右近の功に免じて死を免れ、北荘(きたのしょう)(福井 )に流罪となり、柴田勝家預りとなる。人質になっていた右近の長男と妹は無事助け出された。村重 に置き去りにされた荒木氏の一族600人が信長に惨殺されたことを思えば、高山一族は奇跡のような 幸運に恵まれたといってよい。
 右近の身なりは信長の哀れを誘うための手だったかもしれない。開城にあたっては右近親子が示し 合わせて行動した可能性もありうる。右近の行為を崇高な信心の発露と見るか、計算づくの行動と見 るかで、高山右近への評価は違ったものになるかもしれない。
 だが、絶体絶命の危機のなかで、すべてを投げ打つ勇気を示した結果は、まさしく神の恩寵(おん ちょう)に満ちていた。この体験は、右近の信仰心をますます燃え上がらせたに違いない。  下剋上(げこくじょう)の世に、武士であることより、一信者として生きることを優先した右近は 、図らずも前田利家と同様、信長直参の家臣となった。利家は右近の降伏をどう聞いただろうか。律 義ものの利家は、決して不快には思わなかっただろう。
 それから5年後、利家は賎ケ岳(しずがたけ)の合戦で、柴田勝家軍の一翼を担い、古い友人であっ た羽柴秀吉軍と対峙(たいじ)した。右近とよく似た八方ふさがりの苦しい立場に立たされることに なろうとは、このときは夢想だにしていなかった。

以上、北国新聞社連載「高山右近と前田利家」より
村重一族の末路
天正6年(1578年)10月から12月にかけ、信長軍は伊丹を完全に包囲した。
天正7年(1579年)9月2日夜、荒木村重は五、六人の供のみを連れて伊丹有岡城を密かに脱出し、尼崎へ移った。
10月15日、伊丹で滝川一益の調略が奏功した。一益が佐治新介を使者として荒木方の中西新八郎を味 方に引き入れ、さらにその中西の才覚によって足軽大将の星野・山脇・隠岐・宮脇も謀叛に同調したの である。中西らは守備していた上臈塚砦へ滝川勢を導き入れ、敵勢数多を斬り捨てた。
この謀叛により荒木勢は崩れ、取るものも取り敢えず有岡城へと逃げ入った。将士たちは親子兄弟 を討たれて泣き悲しむばかりであった。これに対し織田勢は伊丹の町を損害なく奪取し、城と町との間 にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にすることに成功した。
一方岸の砦を守っていた渡辺勘大夫は上臈塚砦の陥落を受け、砦を出て多田の館に退去した。しかし 信長公は渡辺がかねて降伏を申し出ていたわけでもないことを曲事であるとし、渡辺を殺害してしまっ た。
また鵯塚の砦は野村丹後が大将となって雑賀衆の加勢を得て守備していたが、士卒は戦闘によってこ とごとく討死し、窮した野村は織田勢へ降伏を打診してきた。しかし信長公はこれも許さず、野村を殺 害して首を安土へ運ばせた。荒木村重の妹で、今は後家となった野村の妻は有岡城中でこのことを聞き 、憂きも辛きもわが身一人と嘆き悲しんだ。生きて甲斐なき身ながらも、この上一体いかなる憂き目を 見ることになるのかと思い嘆く姿は、目も当てられぬ哀れさであった。
今度の謀叛において荒木村重が尼崎・花隈の両城を明け渡さず、歴々の重臣たちの妻子・兄弟を見捨 ててわが身一人のみ助かろうとするさまは、まことに前代未聞の始末というほかなかった。
 そのような村重の動向を知った数多の妻子たちは、これは夢かうつつかと嘆き惑った。恩愛の者との 別れを感じての悲嘆ぶりは、もはや例えようもないものであった。この先の運命を予想して嘆く彼女た ちの中には幼子を抱く者もあれば、懐妊している者もあったが、それらが煩悶して声も惜しまず泣き悲 しむ有様は、まったく目も当てられぬものであった。彼女らを拘禁する猛き武士たちもさすがに岩木で はなく、この様子に涙を流さぬ者はなかった。
 信長公も彼女たちの様子を聞き、不憫さを禁じ得なかった。しかし奸人を懲らしめるため、あえて処 刑を決断し山崎で指示を下していったのだった。
 信長公は荒木一類の処刑を都で行うことを命じ、人質たちを12月12日の晩刻から夜もすがら京へ上ら せた。そして妙顕寺に広牢を構えて三十余人の女達を押し込め、また吹田村氏・伯々部左兵衛・荒木久 左衛門の息子自念の三名を村井貞勝の屋敷で入牢させた。さらに摂津国では分限の侍の妻子を集めて磔 にかけるよう命じ、滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀の三名にその執行を申し付けたのだった。
 そのような中、荒木五郎右衛門という者が「日頃夫婦の仲はさほど親しくなかれども、かと申して妻 女を捨て置くことは本意にあらず」として明智光秀のもとへ頼み入り、女房の命に代わらんと様々に嘆 願してきた。しかし信長公はこれを許さず、結局夫婦は共々に成敗されることとされてしまった。まこ とに哀れな結末であり、是非なき次第というほかなかった。
 かくして処刑の準備は進められていった。人質たちは思い思いに最期の文をしたため、親子兄弟へ向 け涙とともに書き送ったのだった。
 そして12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、刑場へ 向け人質たちが引き出されていった。さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまと い、すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。
 やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、あ るいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。百二十二人の 女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれな かった。処刑の様子を目にした者は、二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかった ということであった。
 この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の男百二 十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、周囲に乾き草を積んで焼 き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、灼熱の炎にむせび、躍り上 がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思 わせるもので、みな肝魂を失い、二目と見ようとする者がなかった。その哀れさは、もはや申すことも できないほどであった。
 摂津での処刑は、そうして終わった。処刑ののち信長公は伊丹有岡城の警固を小姓衆に二十日交替で 命じ、12月14日になって山崎から京都妙覚寺に移った。そして12月16日に荒木一類の者達の処刑を京で 行うことを申し渡したのだった。
ここに至るまでの物語の哀れさは、申し様もないものであった。
処刑の日がやってきた。12月16日辰の刻、人質たちは車一両に二人ずつ乗せられて洛中を引 かれていった。その順番は、
一番
 歳二十ばかり 吹田村氏  村重の弟
 歳十七 野村丹後後家  村重の妹
二番
 歳十五 隼人女房  村重の娘で、このとき懐妊中
 歳二一 だし
三番
 歳十三 だご  村重の娘で隼人女房妹
 歳十六 吹田女房  吹田因幡の娘
四番
 歳二一 渡辺四郎  荒木志摩守の甥で、渡辺勘大夫の娘に縁組して養子に入る
 歳十九 荒木新丞  渡辺四郎の弟
五番
 歳三五 伊丹安大夫女房  伊丹源内宗祭の娘で、子は八歳
 歳十七 北河原与作女房  瓦林越後の娘
六番
 歳十八 荒木与兵衛女房  村田因幡の娘
 歳二八 池田和泉女房
七番
 歳十三 荒木越中女房  だしの妹
 歳十五 牧左兵衛  だしの妹
八番
 歳五十ばかり 伯々部左兵衛
 歳十四 自念 荒木久左衛門の息子
 以上であり、この他にも車三両に子供七・八人ずつが乗せられ引かれていた。車は洛中を上京一条辻 から室町通りまでを引かれてゆき、刑場の六条河原に行き着いた。
 刑場には奉行を命じられた越前衆の不破・前田・佐々・原・金森の五名のほか、諸役人・触口・雑色 や青屋・河原者ら数百人が集まり、甲冑を身に着け、抜き身の太刀・長刀を持ち、弓には矢をさしはさ んで厳重に周囲の警護を行っていた。
 女房達はみな経帷子を身にまとい、その上に色よき小袖を着て出立ちを美しくしていた。いずれも歴 々の女房衆であり、すでに命免れえぬを悟って取り乱すことなく神妙な態度を保っていた。
 その中でも、村重の妻だしという者は聞こえ高き美人であった。彼女はかつて衆目にさらされること もなかった身であったが、このたびは乱世の習いにより、さも荒々しき雑色の手で小肘をつかまれて車 に引き乗せられた。しかし最期の時になると、だしは車を降りざまに帯を締め直し、髪を高々と結い直 し、自ら小袖の襟をくつろげ、まことに尋常に首を打たれたのだった。
 このだしの例を始めとして、女房たちはいずれも潔い最期を遂げていった。しかしながら下女や婢者 はそうも行かず、人目をはばからず悶え悲しみ、泣き叫ぶさまは哀れとしか言いようがなかった。

村重自身の末路
尼崎城から花熊城へと逃げた村重であったが、天正8年(1580)ついに花熊城が落とされ、摂津に居場所が なくなった村重は、さらに逃げて、毛利にかくまわれることになる。
そして、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により、追跡者信長は死んだ。
次代の天下人、秀吉は、村重の罪を問わなかった。それどころか、召抱えようとさえしている。元攝津国主、 村重に、まだ利用価値を感じていたのであろうか。だが、村重自身は、今更、この世に未練はなく、最後まで 追随してくれた一族の者たちだけを仕官させ、自らは、茶人として生きる道を選んだ。
そして、自らを「道糞(どうふん)」と名乗った。苛烈な運命を潜り抜けた男の、その思いの凄まじさを感ぜ ずにはいられない。秀吉は、さすがにこれを、憐れんで、「道薫(どうくん)」の名乗りを与えたという。
筆庵道薫は、天正14年(1586)に死ぬまで、茶人としてこの世に身を置いた。

以上、「信長公記」訳文。「ビジュアル日本の歴史」戦国武将篇・12より。
伊丹城(有岡城)跡1 伊丹城(有岡城)跡3
    伊丹城(有岡城)跡・・・・・現在のJR伊丹駅西向かいに石垣の一部が辛うじて残っている