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| 葵祭Q&A | 足汰式 | 賀茂競馬 | 御蔭祭 | 鮒奉献 |
葵祭のみそぎ・本祭を見物していると、通りすがりの観光客の話し声がいろいろ聞こえてきました。
みなさんが何となく疑問に思われていることを私なりにQ&Aを作ってみました。
誤解、勉強不足等はなにとぞご容赦ください。
大阪や西宮の戎神社の福娘の選考は、マスコミを通じて大々的に報道され、その審査風景もTVで見られます。 しかし、葵祭については、マスコミ等が選考方法等を一切報道しませんし、毎年3月末に斎王代が決まりその談話が報道されて始めて知ることになります。ということは、おそらくこのときにはすべての出場者が決まっていると考えた方がよいようです。行列の諸役は毎年のことですので、割り振りが決まっているのでしょう。よって、出場は不可能でしょう。行列の諸役は公募されませんので、どこへ問い合わせてよいのかそれもわかりません。ましてや斎王代の選び方等はまったくわかりません。 逆説的な結論ですが、葵祭は公募する必要性・意義がないのかもしれません。ただ、学生アルバイトは京都市内の大学に依頼しているが、近年学生の参加が少なくなってきたので、その不足人数分を市内の老人クラブに依頼しているという新聞記事を見た記憶があります。 さて、ギャラですが、学生アルバイト、老人クラブ以外は、出場できるということ自体が名誉であり、公募がない等を勘案しておそらく原則無料奉仕でしょう。斎王代および女人行列の出場者逆に持ち出しがあるかもしれません。裏方等については、まったくのあて推量ですが、原則は無料奉仕と思います。ただし、すべての準備・後片付け等の諸費用は主催者負担でしょう。(2005.05.20) |
昭和31年に女人行列が復活した際、昔のように官祭(国家、天皇の祭)ではなく、祇園祭・時代祭とともに京都三大祭の一つに数えられ、賀茂社他の主催になり、民間の女性をもって斎王の代理とした。斎王代は京都在住の未婚の女性(例外もあるようです。)から選ばれています。 旧皇室典範によると、「皇子より皇玄孫に至るまでの女を内親王、五世以下を女王(内親王の号の宣賜がない場合)」と尊称すると書かれています。 現在の皇室典範では、「嫡出の皇子および嫡男系嫡出の皇孫で女を内親王、三世以下を女王。王が皇位を継承したときは、その姉妹たる女王は特にこれを内親王とする」となっています。(2005.05.20) |
斎王代以下葵祭に参加するすべての女性が対象です。なぜ女性だけ?についてはわかりません。 古くは鴨川の川原で行われたようですが、戦後復活したときに、上賀茂神社は御手洗川、下鴨神社は御手洗池で毎年交互に行われるようになりました。 そのおおまかな内容は、@全員がお祓いを受ける。A斎王代が御手洗川(池)に手をひたす。B斎王代以下全員が人形(ひとがた)または祓串(はらいぐし)を川に流す。以上で心身ともに清浄潔白になるということです。 下鴨神社でのみそぎ式は次のとおりです。 (平成17年5月4日(水)発行の賀茂御祖神社<下鴨神社>のリーフレットとから転載) 斎王代御禊の儀 平安時代、弘仁元年(810)、賀茂斎院を制定せられ、初代に嵯峨天皇皇女有智子内親王を選ばれました。その後伊勢神宮と同じく歴代天皇御即位の時、未婚の内親王を定められ、元久元年(1204)後鳥羽天皇の皇女礼子内親王に至るまで、35代、394年間続きました。 斎王が定められますと、参議以上の殿上人を使として賀茂上下の両社に奉幣されその由をご神前に奏上されます。御所の中に初斎院の御座所を設けて、鴨の河原でみそぎを行なわれてから初斎院に入られます。当時斎院は紫野にあり俗に紫野院ともいわれました。 それから斎王は晴れの葵祭に奉仕するため斎王禊の儀を迎えます。その日紫野斎院から車の前後に多勢のお供を従えて鴨の河原でみそぎをされたのです。昭和31年斎王列の復活によって例年5月上旬、葵祭にさきがけて賀茂上下両社の隔年交代で斎行されます。 きみがため 今日のみそぎに泉川 万代すめと 祈りつるかな (藤原)俊 成 式 次 第 午前10時 斎王代以下女人列表参道南口鳥居前に整列 行 粧
次 参進 この間道楽 次 御手洗池南庭みそぎ斎場に至り所定の位置に着座(東面) 次 神職みそぎ式次を始むる由を申す 次 神職祓詞を奏上(諸員平伏) 次 神職大麻を行う 次 斎王代みそぎを行う 童女随従 (此の儀斎王代は手水所に進み御手洗川の流水で手を洗う) 次 斎王代以下に祓串を頒つ。 (頒ちおわりたる頃を見計らい神職一員解除の作法を説明する) 次 斎王代以下 祓串を持って解除 次 神職みそぎの儀畢れるを申す 次 斎王代以下女人退出 儲橋上に於て南面し御手洗川へ祓串を(投下し)流す 次 各々退下 以上です。(2005.05.20) |
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葵祭行列コースとおおよその先頭通過時間 10:00 京都御所宜秋門前に 集合整列 10:30 京都御所建礼門前を出発 11:00 丸太町通 11:15 河原町通 11:50 下鴨神社到着 14:20 下鴨神社出発 14:30 北大路通 15:00 賀茂川堤防 15:30 上賀茂神社到着 (2005.05.20) |
古くは当然乗物として使用していました。行列で見られる1台目の牛車は、俗に御所車といわれ勅使(天皇の使者)の乗物で、現代流に言えば最高級車です。行列の最後に見られる牛車は、斎王または斎院の女房(最高位の女官)の乗物で、勅使が乗る牛車よりは少し劣るといわれています。どちらも乗り心地は悪いようです。 (2005.05.20) |
では、実施または中止の判断は、何時ごろにするのでしょうか?これは逆算すれば答えがでました。 御所から行列が出発するのが午前10時30分です。ということは、京都御苑内に5千席の有料の椅子席を午前9時過ぎには設置しなければなりません。 また、早朝から出発してくる観光バスや観光客のためのTV・ラジオ局への連絡、遠方から運んでくる牛馬および祭の衣装・道具たての裏方への連絡。行列に参加する人に必要な準備時間、祭関係者用の昼弁当を準備している仕出屋への連絡等々、いろいろ勘案して遅くとも午前5時30分から6時までに判断する必要があるようです。 その後の天候の変化は誰の責任でもないと思いますが、 なぜ冒頭の言葉が出たのでしょうか? みそぎは雨天決行ですが、本祭は今年(平成15年)を含めてこの5年間で3回雨のため午前中の下鴨神社までで、午後の上賀茂神社への行列は中止になっています。その雨の中を寒そうに歩いている行列を見て同情したのか、それとも観光客に対しても思いやりがないと考えたのか、いずれかと思います。 実施または延期の判断をされる方!天候が晴れた場合は誰も何も言いませんが、雨になった場合は皆からそしられる損な役回りですね・・・・・。 平成14年・15年は、雨のため、行列は下鴨神社までで中止。平成16年は3年ぶりの晴、行列は上賀茂神社まで行きました。(2004.05.20) |
(午前6時から午後6時まで) |
| 区分 | 5月15日(葵祭) | 5月16日(予備日) | 備 考 |
| 平成23年 | 晴後薄曇 | 薄曇 | 5月15日(本祭)、 23回の天候で、 晴と曇 15回 晴と雨 1回 雨 7回 5月16日(予備日)、 23回の天候で、 晴と曇 16回 雨 7回 最近の8年間の葵祭当 日の天候は、めぐまれ ています。 (2011.05.17) |
| 平成22年 | 晴後薄曇 | 曇後晴 | |
| 平成21年 | 薄曇一時晴 | 雨時々曇 | |
| 平成20年 | 晴 | 晴 | |
| 平成19年 | 晴 | 曇 | |
| 平成18年 | 薄曇 | 雨後曇 | |
| 平成17年 | 曇時々晴 | 晴後薄曇 | |
| 平成16年 | 晴 | 大雨 | |
| 平成15年 | 雨 | 曇 | |
| 平成14年 | 曇後雨 | 曇後時々雨 | |
| 平成13年 | 曇時々晴 | 曇一時晴 | |
| 平成12年 | 曇後時々雨 | 薄曇 | |
| 平成11年 | 晴後曇 | 曇一時雷雨を伴う | |
| 平成10年 | 晴後薄曇 | 曇後雨 | |
| 平成 9年 | 雨後一時曇 | 曇 | |
| 平成 8年 | 快晴 | 快晴 | |
| 平成 7年 | 大雨 | 曇一時雨 | |
| 平成 6年 | 雨 | 曇後晴 | |
| 平成 5年 | 晴 | 晴時々曇 | |
| 平成 4年 | 晴後雨 | 晴後曇 | |
| 平成 3年 | 曇後雨 | 曇 | |
| 平成 2年 | 晴時々曇 | 曇時々晴 | |
| 平成 元年 | 晴 | 曇一時晴 |
*天候については、気象庁のホームページから作成しました。
京都御苑内の有料席で行列の最初から最後まで見物するのに約1時間かかります。 雨の中、牛車を後ろから押している牛付白丁(うしつきはくちょう)に扮した学生アルバイト、糺の森の泥道を汚れもかまわずに頑張っていました。牛車の引き綱を持っていた牛童(うしわらわ)、傘がなくて寒そうでした。また、傘をさして歩いていた女人たち、残念ながらちょっとだけ風情に欠けてました。それでもみなさん!お疲れさまでした。(2003.06.29) |
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| * 2003年(平成15年)のみそぎは、下鴨神社で行われました。前年は上賀茂神社で、毎年交互に行われています。 * 斎王代が着る十二単の重さは、10〜15kgといわれています。 そういえば斎王代によっては、選ばれたときのインタビューで「健康に留意して、体力をつくっておつとめを果たしたい」という意味の発言もあったように記憶しています。 * 戦後復活したころの女人行列の参加者は、今の衣装とは比較にならないほど重いものを着ていましたが、それでも 御所 ⇒ 下鴨神社 ⇒ 上賀茂神社 ⇒ 御所 の約18km(かなり遠回りしている)を朝9時から夕方6時半まで(9時間半の内、下鴨神社で神事に参加と昼休、上賀茂神社で神事に参加)歩きとおしたそうです。 * ちなみに現在は、御所 ⇒ 下鴨神社 ⇒ 上賀茂神社 の約8kmを朝10時半から夕方3時半まで(5時間・下鴨神社で神事に参加と昼休み)歩いています。 上賀茂神社 ⇒ 御所 は、観光バスで帰還です。それでもみなさんお疲れの様子でした。(2001年の本祭を見物して) * 斎王代のことで何となく記憶に残っていること。 @ 1995年(平成 7年)、大雨で行列が中止。翌年同じ女性が斎王代に初めて連続して選ばれた。 A 2002年(平成14年)、京都生まれながら、東京在住の女性が初めて斎王代に選ばれた。 B 2003年(平成15年)、1997年(平成 9年)の姉につづいて妹が選ばれた。 C 2010年(平成22年)、第58代斎王代は、母娘とも選ばれています。 姉妹だけでなく叔(伯)母と姪、母娘が斎王代に選ばれていますが、その内に祖母・母・娘三代にわたって選ばれるという時代が来るかもしれません。また、女人行列の出場者も同様のようです。 * 葵の由来を調べました。 古来、葵祭は賀茂祭といわれていましたが、元禄時代に復活して以来葵祭と呼ばれるようになりました。祭当日、御所・上賀茂神社・下鴨神社・御所車・参列者の衣装や冠等すべてを二葉葵で飾ることからそのように呼ばれるようになりました。なお、葵や桂で飾る風習は、平安時代からあったそうです。(2010.05.05) |
| * 葵祭と女人行列の歴史を調べました。 (上社の社伝から) 別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西にある神山(こうやま)に御降臨された際、御神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行なったのが当神社の祭祀の始まりです。 457年 雄略天皇即位の年に騁射(うまゆみ)を行なった。流鏑馬の初見。 567年 欽明天皇(在位539〜571)ころに凶作が続いたため、4月中酉の日に勅使を遣わし、賀茂の神(場所不明)に祭礼を行わせたところ五穀豊穣になったという。賀茂祭(葵祭)の始まりである。 この祭で鈴をつけた馬に猪の頭をかぶった人が乗り走ったというのは、賀茂の神々に豊作などを祈る予祝の演芸であり、今も行なわれている「競馬」、「走馬」の起源と考えられている。 678年(天武 6年) 山背国で賀茂神宮を造営(両社なのかまたは上社、下社かも不明) 682年(天武10年) 長柄の宮にて馬的射(むなまと)を行なう。流鏑馬のこと。 698年(文武 2年) 山背国賀茂祭で大勢を集めての騎射を禁止(賀茂祭の初見) 702年(大宝 2年) 山背国の人以外は、賀茂祭での武器をとっての騎射を禁止 711年(和銅 4年) 賀茂祭を国司が検察(年々派手で盛んになってきたため) 765年(天平神護1年) 賀茂社を別雷神(わけいかづちのかみ・上社)と御祖神(みおやがみ・下社)に区別されたのが初見(この頃に上賀茂神社から下鴨神社が分かれた。) 806年(大同 1年) 中酉の日を卜して賀茂祭を始める。官祭の始まり(葵祭の原形) 810年(弘仁 1年) 嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って上賀茂神社、下鴨神社に有智子内親王を斎王(場所は紫野の斎院)として遣わし、賀茂祭などに奉仕させる。斎王以下の女人行列の始まり。 819年(弘仁10年) 賀茂祭が中祀(天皇のもっとも重要な祭礼で、宮中の祈年祭、伊勢神宮の神嘗祭と同格)に準じられ、盛観を極める。 859〜876(貞観年間) 勅祭賀茂祭の儀式次第が整えられる。 1093年(寛治 7年) 上社で競馬会(くらべうまえ)始まる。 1221年(承久 3年) 承久の乱。後鳥羽上皇の礼子内親王(第35代)までで、斎院廃止とともに斎王以下の女人行列中絶。 勅使行列は継続。 1467年(応仁 1年) 官祭としての賀茂祭中断。 1502年(文亀 2年) 応仁の乱により賀茂祭勅使行列途絶える。 1694年(元禄 7年) 徳川将軍(特に綱吉の母の桂昌院)の庇護により葵祭勅使行列として復活。 騎射も伝統の作法により再興。(以降、賀茂祭を葵祭ともいうようになった) 1696年(元禄 9年) 勅使参向の列に飾り車の再興、行列人数の増加をはかる。 1697年(元禄10年) 風流傘再興。 1870年(明治 3年) この年までで葵祭勅使行列再び途絶える。騎射も中絶。 (この間、単に奉幣使のみの参向) 1869年(明治 3年) この年のみ流鏑馬神事復活 1884年(明治17年) 明治天皇の旧儀復興の仰せにより、春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに所謂日本三勅祭の一つとして、葵祭勅使行列が再復活。祭日を新暦の5月15日とする。 1926年(大正15年) 葵祭旧儀(神饌・祭式)再興 1943年(昭和18年) 戦争のため、葵祭三度途絶える。 1953年(昭和28年) 葵祭勅使行列として再々復活。 1954年(昭和29年) 上社にて葵祭後儀として、献茶祭が始まる。 1956年(昭和31年) 葵祭に斎王代として、女人行列復活。この年から両社隔年交替で禊式を実施。 1973年(昭和48年) 下社にて流鏑馬神事復活。 1991年(平成 2年) 9月9日の上社の烏相撲に800年ぶりに斎王(代)の陪覧が復活。 1992年(平成 3年) 下社の御蔭祭の徒歩巡行一部復活。 (2010.05.01更新) このページの先頭へ |
| * 今回、上賀茂神社と下鴨神社を回って見て、ちょっとした発見と再認識の機会になりました。 @ 似たような地名がありました。(ただそれだけのことです) 上賀茂神社では御手洗(みたらし)川、ならの小川。 下鴨神社では御手洗池、御手洗川、奈良の小川。 A みたらし団子は、下鴨神社の御手洗池の湧水から「みたらし」の名前を付けた。 B 百人一首にある藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎそ夏のしるしなりける」で歌われている「奈良の小川」はどこか?考えたこともなかったのですが、上賀茂神社に歌碑がありました。 C 方丈記で有名な鴨長明は、昔国語か古文で習ったきりでしたが、下鴨神社の糺の森の入口西に鴨長明の復元された方丈の草庵がありました。鴨氏は、代々下鴨神社の社家(神主の家柄)だそうです。 D 葵祭の前儀として、5月3日に流鏑馬(やぶさめ)神事が下鴨神社で、5月5日に競馬会(くらべうまえ・けいばえ)神事が上賀茂神社でそれぞれ行われます。 E 「賀茂」と「鴨」の違いは? 賀茂・鴨の語源は、カミ(神)に由来するといわれている。古代豪族の鴨(賀茂ともいう)県主(かものあがたぬし)の名は奈良・平安時代には加茂県主とも表記されている。どの表記でも正しいとしかいいようがない。また、上賀茂神社・下鴨神社の場合は、両社とも山城国一の宮で区別しないで書かれているのでややこしい。書きわけられたのは、江戸時代中期からで、上社・下社とも呼ばれる。 川の場合は、高野川との合流点より北を賀茂川、南を鴨川という。市販の地図には統一して表記されている。しかし、賀茂川沿いの河川敷公園は鴨公園で、賀茂川の堤防は加茂街道という。 上社は、正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社といい、下社は、賀茂御祖(かもみおや)神社という。どちらも「賀茂」を使用している。通称名で上社は「賀茂」、下社は「鴨」をいつからどのような理由で使用するようになったのか不明です。(2005.05.20) このページの先頭へ |