2012 礼拝説教

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2005年 礼拝説教

2004年 礼拝説


年月日 聖書箇所 説教者
12.05.20 T歴代誌19:1-19 主がみこころにかなうことを 生島幹也
12.05.13 T歴代誌14:1-17 御顔を慕い求めよ 吉岡鋭明
12.05.06 T歴代誌9:1-44 熟練した者 生島幹也
12.04.29 ヤコブ5:7-12 耐え忍びなさい 生島幹也
12.04.22 ヤコブ1:19-27 神の義の実現 吉岡鋭明
12.04.15 雅歌5:2-16 私の愛する方 生島幹也
12.04.08 ルカ24:1-12 主はよみがえられた 生島幹也
12.04.01 ルカ22:24-38 われ祈れり、ながために 吉岡鋭明
12.03.25 ルカ20:27-40 生きている者の神 生島幹也
12.03.18 ルカ18:31-43 見えるようになれ 生島幹也
12.03.11 ルカ16:1-13 世の富の忠実な管理人 吉岡鋭明
12.03.04 ルカ13:18-35 神の国と審き 生島幹也
12.02.26 ルカ11:45-54 キリストは神の知恵 生島幹也
12.02.19 ルカ10:1-16 神の国は近づいた 生島幹也
12.02.12 ルカ8:26-39 暗やみから光へ 吉岡鋭明
12.02.05 ルカ6:27-38 愛の戒め 生島幹也
12.01.29 ルカ4:14-30 主の恵みの年 生島幹也
12.01.22 ルカ1:67-80 ほめたたえよイスラエルの神 吉岡鋭明
12.01.15 詩篇136:1-26 主の恵みはとこしえまで 生島幹也
12.01.08 詩篇128:1-6 真の幸い 生島幹也 高槻一麦教会牧師
12.01.01 詩篇121:1-8 神に信頼せよ 吉岡鋭明 福井自由キリスト教会協力牧師

主がみこころにかなうことを

序、 T歴代誌18〜20章では、主がダビデに行く先々で、勝利を与えられたことを記しています。

1、アモン人の悪意と神の摂理

 ダビデは心が広く、イスラエルの周辺の王たちとも友好関係を持っていました。アモン人の王ナハシュが死んだ時、ダビデは悔やみのために使者たちを送りました。ところが、アモン人のつかさたちは、ダビデを恐れ、ダビデの好意をすなおに受け入れず、使者たちをスパイと疑って彼らを辱めます。
 その結果、せっかく友好関係を結ぼうとしたダビデを敵に回すことになります。不信感、悪意をもって人に接することの恐ろしい結果をここに見ます。それとともに、このようなアモン人の悪意と反逆が、かえってダビデの支配を大きく広げることになるのです。神はすべてのことを働かせて益とされるのです。(ローマ8:28)

2、ヨアブの信仰

 アモン人は、アラムから傭兵を雇って出撃します。一方、ダビデは、ヨアブを将軍として軍隊を送ります。ヨアブは敵が二手に陣取っていることを見て、自分の隊たちを二手に分けます。
 彼は弟アブシャイに、「主はみこころにかなったことをされる」と励まします。ヨアブは決して信仰深い人物ではありません。おそらく、信仰の人ダビデの影響でこのような信仰告白のことばが出てきたのでしょう。
 ヨアブは、神の主権を認めました。すべての決定権が神のみこころの内にあることを知り、主に信頼しました。けれども、何もしなかったわけではありません。自分たちのなすべきことをしたのです。
 私たちは神の協力者です。(Tコリント3:9) 神の主権を認めると共に、自分のなすべき分を全力で果たしましょう。

御顔を慕い求めよ

 イスラエルの歴史におけるダビデの主な業績は、王国の統一、神殿礼拝の確立、イスラエルの国民讃美歌、詩篇の編集です。しかし、その陰には、神との個人的、人格的な交わりがありました。
 また、聖書の主題に関わるダビデの生涯の意義は、イエス・キリストの型を表わしていることにもあります。信仰者の成功と勝利の鍵は・・・。

1、主を求める

 ダビデの生涯の基調は、神との個人的な関係にあり、その心は、主と全く一つになっていました。ダビデは、常に主の御顔を慕い求めました。彼は、何をするにも先ず、「神に伺った」のです。これは、主イエスのご生涯にも見られる、際立った特徴です。

2、主がともにおられる

「主はダビデとともにおられた」。主がともにおられるとき、主ご自身が戦ってくださいます。しかし、神に伺うことをせず、自分勝手な道を行くとき、主はともにおられず、私たちは失敗、敗北、挫折を経験します。
 主イエスの公生涯においても、常に「神がともにおられ」ました。そして、外に現わされたみわざは氷山の一角にすぎず、最も重要な働きは、隠れたところでの御父との交わりにあったのです。

3、聖霊のバプテスマ

 主の霊がダビデの上に下りました。これは聖霊のバプテスマの型を表わしています。聖霊のバプテスマは、現象としては神の主権的な働きによって聖霊が私たちの上に(epi)注がれる(下る)ことであり、圧倒的な臨在に覆われることです。
 そのキーワードは「開かれる」こと。天が、心が、霊の目が、耳が、そして神のことば(聖書)が開かれます。「私」と「神」との間に、特別な霊的チャンネル(ホットライン)が開かれ、神への近さが現実となる、とも言えるでしょう。
 その結果、私たちの聖書理解、祈りの生活は一変します。これが、私たちの神との交わり、そしてあらゆる活動の力の源、隠し味です。

熟練した者

序、 歴代誌の著者は、はっきり分かりません。ヘブル語の聖書では一巻で、「日々の出来事」という名で呼ばれています。
 ユダの国からバビロンに連れ去られた人々は、捕囚から七十年後に解放され、エルサレムに帰って来ます。しかし、そこにはいろいろな苦しみがあり、落胆し、礼拝生活がいい加減なものになりました。
 そこで、イスラエルの民に与えられた偉大な使命を思い起こさせ、彼らを奮起させるために、この書が書かれました。神を礼拝することの祝福、神を礼拝しないことの災いについてこの書は教えています。全体は四部に分かれています。
@アダムからバビロン捕囚までの系図(1〜9章)
A神殿建設の準備者ダビデ
B神殿建設者ソロモン
Cソロモンの子レハベアム以後におけるユダ王国の王たちの歴史

1、エルサレムに住む人々

 この9:4−6は、ユダ族でエルサレムに住んだ人々の名前、
9:7−9は、ベニヤミン族でエルサレムに住んだ人々の名前、
9:10−13は祭司たちで、エルサレムに住んだ人々の名前
9:14−34はレビ人で、エルサレムに住んだ人々の名前です。
 捕囚から帰ってきた人々は、エズラ2章を見ますと、自分たちのもとの居住地に落ち着きました。それから主の宮の建設に着手しました。
 当時、ユダは、サマリヤ総督の支配下にあり、工事を妨げられました。十数年の中断の後、ハガイとゼカリヤの預言に励まされ、民は主の宮を再建しました。
 その後、ネヘミヤがユダヤの総督となり、妨害を退けてエルサレムの城壁を再建しました。(ネヘミヤ記参考)
 エルサレムに住む人をくじで選びました。くじで選んだというのは、エルサレムに住むことは困難と犠牲が大きかったからです。そのため、自発的にエルサレムに住むと申し出た人々を、民が祝福したとネヘミヤ11:2に記されています。
 このT歴代誌9章のエルサレムに住みついた人々とは、そういう人々です。私たちも、主のため、主の民のため、教会のために進んで困難や犠牲を払いましょう。

2、熟練した者

 祭司たちは、「神の宮の奉仕に熟練した」(T歴代9:13) 人々でした。私たちも、日ごとの忠実な奉仕の積み重ねによって、熟練した者にさせていただきましょう。(Uテモテ2:15)
 レビ人の中のコラの子には、門衛の仕事が与えられました。民数記16章では、コラは、主とモーセに逆らうという罪を犯し、滅ぼされました。しかし、コラの子は、主の宮の門衛とされました。主は、罪人の子孫でも彼らをきよめて用いられるのです。
 門衛は、主の宮の門前で、夜営する大変な仕事でした。しかし、コラの子たちは、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(詩篇84:10) と歌いました。
 また、門衛のリーダーであるピネハスは、「主は彼とともにおられた」(T歴代9:20) と記されています。私たちも、主のみそば近くに住み、主と共に歩みましょう。

耐え忍びなさい

序、 この手紙はヤコブによって書かれました。このヤコブは、処女マリヤがイエスさまを生んだあと、ヨセフとの間に出来た子供たちの一人です。(マルコ6:3) 
 イエスさまが生きておられる間は、クリスチャンではありませんでした。(ヨハネ7:5) 復活の主に出会い(Tコリント15:7)、エルサレム教会で主の兄弟ヤコブとして重んじられ(ガラテヤ1:9)、使徒15章のエルサレム会議では重要な役割を果たしました。(使徒15:13) 
 この手紙は、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれています。

1、金持ちへの警告

 富を持つこと自体が悪いのではありません。それを主のため、隣人のために用いず、自分のためだけに蓄えることに問題があるのです。それも、労働者に支払うべき賃金を不当に惜しんで自分のもとにとどめ、主の日が近づいているのに、貧しい人たちに富を分け与えることを惜しみ、富を誇っていたのです。
 私たちは、富を主のために用い、富に執着せず、主の再臨の近いことを思って、貧しい人々に富を分け与えましょう。

2、耐え忍びなさい

 主が来られる日が近いので、互いにつぶやかず、主の預言者たちを模範として苦難に耐えて行こうと励まします。私たちもエレミヤをはじめさまざまな預言者たちや、苦難に耐えたヨブの模範を見習い、耐え忍びましょう。
 自分の状況ではなく、目を主に向けましょう。そのとき、私たちは、苦しみの中にあってもつぶやかず、主に祈ることができます。それも、一人で祈っているだけでなく、互いに祈り合うのです。エリヤの例を用いて、義しい人の祈りがどんなに力あるものかを説明します。
 ヤコブの手紙は初めと終わりで、祈ることを強く励ましています。(1:6、5:14-18) 私たちも、主の日を待ち望み、耐え忍び、祈り続けましょう。

神の義の実現

 人が神の前に義と認められるのは、イエス・キリストを信じる信仰によります。しかし、その信仰は行ないによって吟味されなければなりません。

1、光の子どもと怒り

 イエスを信じた者のうちには、神の種がとどまっています。ゆえに、習慣的に罪のうちを歩むことはありません。しかし、生来の罪の性質は残っており、「御霊と肉」による葛藤を経験するようになります。
 肉の願いを退け、御霊の支配の下に自らの意志を従わせることは私たちの責任です。

2、行ないによる祝福

 みことばを、ただ聞くだけの者であってはいけません。イエスは言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)
 善行は、救いの根拠ではありません。それは、御子を十字架につけた神の愛に対する愛の応答であり、信仰義認の目に見える証明です。木の良し悪しは、実によってわかります。私たちの魅力的な振る舞いこそが、キリスト教の最善の広告塔です。

3、きよく汚れのない宗教

 宗教の真の定義は「人がひとりでいるときにしていること」。私生活においてどのように生きているか、それが私たちのキリスト教です。
@舌の制御。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9-10)
A返してもらうことを考えない良い行ない(アガペーの愛)。寄るべのない人への施しや、敵対する者に対する親切な態度によって示されます。その報いは人からではなく、神から来ます。
B世との分離。使徒パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Tコリント9:19) と書き、また「彼らと分離せよ、・・・汚れたものに触れないようにせよ・・・」(Uコリント6:17) とも言います。
 イエスの証人となるためには、世と遊離してはいけません。同時に、世の人々とは区別された生き方が要求されます。
 みことばを行なうための法則は、神の子らのうちに働いていますが、さらに、聖霊のバプテスマの経験を通して、そのためのダイナミックな動力が加えられます。それは、霊の目が開かれ、御子イエスの麗しい姿をリアルに体験することによるのです。


私の愛する方

序、 雅歌は男女の愛を歌った恋愛歌です。創造の初めから、神を人間を男と女とに造られました。その愛は卑しめられていません。
 ユダヤ人は雅歌を、主が主の民を愛して、民が主を愛する民となる状況を歌ったものだと考えました。教会は、古代より、主イエス・キリストと教会の間の愛の交わりを表現するものと受けとってきました。

1、愛する方を見失う

 花嫁は花婿を見失ってしまった夢のことを歌います。花婿は彼女のところに来て、「戸をあけておくれ」と頼みます。ぐずぐずしているうちに、彼は帰ってしまいました。それから、彼女は彼を捜します。この娘が「愛する方」を見失ったのは、ぐずぐずして従わなかったからです。
 主は、この花婿のように、私たちの心の戸をたたかれます。(黙示3:20) 心を開け、心の王座に主を迎え入れましょう。

2、愛する方をたたえる

 エルサレムの娘たちは、「あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか」と花嫁に聞きます。それに対して花嫁は、「万人よりすぐれ」(5:10) と、そのすばらしさを歌い上げます。
 私たちは、これほどまでに、主を愛し、主をほめたたえているでしょうか。パウロは、主イエス・キリストを知ることのすばらしさのゆえに、キリスト以外のものをちりあくたと思うほどになりました。(ピリピ3:8)
 主は、喜びをもってあなたのことを楽しまれるのです。(ゼパニヤ3:17) 私たちは主に愛されています。主のすばらしさ、主の愛を忘れることがないように。このお方をほめたたえましょう。
 神はまず、私たちを愛してくださいました。神はその御子をこの世に遣わし、私たちの罪のなだめの犠牲としてくださいました。ここに愛があるのです。
 このように、神は私たちを一方的に愛してくださいました。ですから、私たちも互いに愛し合うのです。(Tヨハネ4:7-21)

主はよみがえられた

序、 週の初めの日に、女たちが墓へ行くと、主イエスのからだはありませんでした。聖書は、「まだだれをも葬ったことのない」墓と記しています。他の死体と見まちがうことはありません。(ルカ23:53) 女たちは「墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。」(23:55) ので、墓の見まちがいもありません。
 死刑執行人が死亡したと判断したので、(マルコ15:44) 主イエスは確かに死なれました。蘇生することはあり得ません。誰かが死体を持ち出したわけでもありません。ユダヤ教側では弟子たちが死体を持ち出したというデマをとばしました。(マタイ28:15) 最初、弟子たちでさえ、誰かが死体を持ち出したと思っていたのです。(ヨハネ20:2)

1、生きている方

 女たちはイエスさまの納められた墓に行きました。ふたりの御使いに出会います。(ふたりの証言は確実です。) 御使いたちは、主はよみがえったと伝えます。
 復活こそ、@十字架で死なれたイエスさまがまことの救い主である証拠です。(ローマ1:4) Aイエスさまの死が罪の贖いの代価であり、救いが完成した証拠です。(Tコリント15:3,17)
 復活の主は、「からだ」をもって生きておられるのです。(ルカ24:5) 生きておられるイエスさまは、今も、私たちに働きかけ、出会ってくださいます。

2、目が開かれる

 エルサレムからエマオへの11kmほどの道を、クレオパともう一人の弟子が歩いていました。この二人は霊の目が開かれていませんでした。復活されたイエスさまは、この二人に、まことの救い主メシヤは、必ず苦しみを受け、それから栄光に入ることを聖書から教えられます。(ルカ24:26)
 夕方、イエスさまがパンを裂かれた時、彼らの目は開かれました。私たちも、聖餐式の時だけでなく、日常の食卓、家庭生活においても、霊の目が開かれ、そこで主を認めていきましょう。そして、主の復活の証人と(ルカ24:48) ならせていただきましょう。上よりの力をいただいて。

われ祈れり、ながために

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
 主イエスは、ペテロのために祈られました。

1、神の許容的意志

 サタンが義人ヨブを打つのを、主なる神が二度も許されたのは、彼の自己義を砕くためでした。また、主イエスの一番弟子ペテロの大失敗を予知しつつ黙認されたのも、彼の自己過信を悟らせるためでした。
 神は、主イエスの弟子たちが、様々な試練に遭うのを許容されます。それはご自身の主権によることであり、そこには私たちに対する善き意図が隠されているのです。

2、永遠の大祭司

 神の御子が、ペテロ個人のために祈られたとは驚くべきことです。しかも、「試練がなくならないように」ではなく、試練の中で「信仰がなくならないように」と・・・。
 今は、同じお方が神の右の座に着き、私たちの信仰が守られるよう、とりなしていてくださいます。

3、信仰復興の恵み

 ペテロが、挫折から立ち直ることができたのも、主の深い憐れみによります。三度イエスの名を否んだペテロを、主は慈愛に満ちた瞳で見つめ、復活された後、ペテロに特別にご自身を顕わし、また彼に新たな任務をお与えになりました。
 主イエスが天の栄光の御座より、約束の聖霊を弟子たちの上に注がれたペンテコステの日、ペテロは上よりの力を受け、初代教会において指導的な役割を果たす者へと変えられました。
 後に彼は、試練の中にある離散した聖徒たちの信仰を励まし、また、彼らが偽りの教理に惑わされることのないよう、二つの手紙を書いています。こうして、主イエスの命令が成就しました。
 私たちにも失敗や挫折はあるでしょう。しかし、主の恵みはとこしえに変わることはありません。

生きている者の神

序、 私たちは毎週の礼拝で使徒信条を告白しています。その中で「死者のよみがえり」を信じますと告白します。きょうは、その「死者のよみがえり」についてのイエスさまの教えです。

1、死者のよみがえり

 サドカイ人だちがイエスさまに質問しました。サドカイ人とは、ソロモン王の時代に、エルサレム神殿で仕えていた祭司ツァドク(T列王記2:35)の名前から取られたのではないかと言われている宗派です。
 サドカイ人は、パリサイ人とは違って、死後の霊魂の不滅も復活も否定していました。(使徒23:8) サドカイ人たちは、義理の弟の結婚の律法をもとに(申命25:5-10)、未亡人を助ける律法が、かえってあの世でその女性を困らせるのは変ではないかと問うのです。
 イエスさまは、この質問に対して、「この世」と「次の世」の違いを知ることが大切だと教えられます。「次の世」では、出産がなく、したがって結婚もありません。次の世では、その生命は、神から受けるので、「神の子」と呼ばれます。この違いを知らないのは、聖書も神の力も知らないことから生じています。(マルコ12:24) 主を信じる者は、神の力によって天使のような栄光の体を持つ者とされます。
 サドカイ人は、モーセ五書(旧約の創世記から申命記までの五書)を特別に信頼していました。そこで、イエスさまも、モーセ五書の中の出エジプト3章より、復活があることを教えられます。父祖アブラハムの神であったというのではなく、アブラハムの神であると神は現在形で語られます。なぜなら、神は死んだ者の神ではないからです。アブラハムも、イサクもヤコブも、神に対してみな生きているのです。

2、復活のからだ

 このように、イエスさまは、死者の復活があることを教えられました。新約聖書も全体を見るなら、まず、キリストの復活は、私たちのからだの復活の保証であることがわかります。(Tコリント15:20-22) 
 キリストが復活された時、目に見えるからだで復活されました。(ルカ24:39、ヨハネ20:29) ですから、からだのよみがえりの否定は、キリストのからだの復活を否定することになります。(Tコリント15:13) 信者の復活のからだは、キリストの栄光のからだに似た者となります。(ピリピ3:21) 朽ちないからだとなります。(Tコリント15:42,53,54)
 しかし、救われていない人たちはどうなるでしょう。救われていない人たちも、世の終わりによみがえります。そのあと公平な神のさばきを受け、火の池に投げ込まれるのです。(黙示20:12,13) あなたは永遠をどこで過ごされますか。

見えるようになれ

序、 金持ちの役人との問答で、永遠のいのちを得るのは、人にはできないが、神にはできると、イエスさまは教えられました。(ルカ18:27) では、福音のために犠牲を払った人には、どのような報いがあるのでしょうか。

1、犠牲と報酬

 神の国のために犠牲を払う人には、報いが与えられるとイエスさまは教えられました。そして、人の子の受難予告が続きます。(ルカ18:31-33) 
 弟子たちにはそのことがまったく分かりませんでした。霊の目が開かれていなかったのです。イエスさまが語られたその意味がわかるのは、主が心を開いてくださることによってだけ分かるのです。(ルカ24:45)
 栄光の「人の子」(ダニエル7章) が、受難のしもべ(イザヤ50:6)だとわかるのは、霊の目が開かれた時です。
 だれでも、神の国のために犠牲を払う者は、キリストの受難からキリストの復活へ逆転するように、犠牲から主よりの報酬へと逆転します。主の受難の中に、栄光があるのです。

2、見えるようになれ

 ひとりの盲人が、イエスさまに願います。「主よ。目が見えるようになることです。」(ルカ18:41) 
 イエスさまは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスさまについて行きます。
 イエスさまに従う生涯は、主のすばらしさが見えれば自然に出てくるものなのです。そのためには、自分は霊的に見えていないという自覚が必要です。この盲人のように、見えるようにしてくださいと、主に求め続けましょう。
 パウロが教えたように、霊の目が開かれるように祈りましょう(エペソ1:18)

世の富の忠実な管理人

 主イエスを信じる者は、やがて父なる神の御国に迎えられます。主は、私たちのために場所を用意しに行くと約束されました。地とそれに満ちるものはすべて神の所有であり、この世の富も私たち自身の財産ではなく、御父からその管理をまかされているにすぎません。私たちは、それを賢く使って永遠への準備をするよう勧められています。

1、信仰の友をつくる

「よく聞いておきなさい。この世の富を正しく使って、自分のために信仰の友をつくることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住まいで、その友だちといっしょに過ごすことができるでしょう。」(ルカ16:9 現代訳)
 神の御子は人として世に来られ、友なき者の友となられました。使徒パウロは、すべての人の奴隷となりましたが、それは、何とかして、幾人かでも救うためでした。
 私たちも、御霊の導きによって、友となるべき人と出会い、信仰の友を得ることができたら、何と幸いなことでしょうか。

2、小事忠実

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(16:10)
 永遠の住まいにおいて自分自身の宝を持つためには、ごく些細な富の扱いにも忠実であることが要求されます。この世の富に忠実でなかった者に、父なる神がまことの富をおまかせになることはありません。
「今日、目前の義務を忠実に守ること。」それが、天職を発見するただ一つの方法である、と内村鑑三は語っています。

3、天に宝を積む

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(16:13)
 私たちはこの世の富を管理すべきなのであって、富の奴隷となってはいけません。この世の生活のために、富は必要であり、大切なものです。しかし、使う動機が正しくなければ、それは容易に「不正の富」となり得ます。
 この世の価値観と神の価値観が競合する場合、世俗的な意味では損をしてでも、常に神第一の優先順位を守ることです。それが、天に宝を積むことになり、永遠の住まいにおいて豊かないのちを楽しむための欠かすことのできない備えとなるのです。

神の国と審き

序、 イエスさまがアブラハムの娘をサタンから解放した輝かしいみわざは(ルカ13:17)、神の国の到来をあかしします。(11:20) これは神の国の始まりにすぎません。神の国の完成のすばらしさを教えるため、イエスさまはたとえを語られます。

1、神の国の拡大

「からし種」も「パン種」も小さく目立たないものです。しかし、「からし種」は大きくなり、「パン種」は大きな影響を与えます。
 主は弟子たちに「小さな群」よ、呼びかけられ、御国を与えると約束されました。(ルカ12:32) 使徒の働きでは、この神の国の拡大の様子が記されています。

2、狭い門

 救われる者は少ないのですかとの質問は、人数の問題でなく、イエスさまでなければ救われないのですかと言う批判も含まれています。単なる好奇心や批判的な心から、自分を探り、自己吟味へと心を向けるべきです。
 必要なのは「狭い門」から入ることです。この「狭さ」は時間的な狭さです。戸じまりの時が来てからでは遅すぎます。「今」という時に、主を信じて新しく生まれ変わらなければ間に合いません。イエスさまの教えをただ聞いたというだけでなく、自分の罪を悔い改め、主を信じることです。
 マルチン・ルターは、キリスト者の全生涯は悔い改めであると言いました。「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ2:12)

3、エルサレムへ

 あるパリサイ人が「ヘロデがあなたを殺そうとしている」と伝えます。イエスさまは、ヘロデ(ガリラヤの国主)から追い出されて、ガリラヤからエルサレムへ行くのでなく、メシヤの使命としてエルサレムに行くとはっきり宣言されます。
 イエスさまは、エルサレムの町の人々を母鳥のように招かれましたが、彼らは拒否しました。(34節) その罰として、メシヤに、「祝福あれ」と心より歌うようになるまで、エルサレムは荒れ果てたままになると宣言されます。「きょう、あす、三日目」という短い時に(32節)、悔い改めておかねばなりません。
 イエスさまの願いを、自分の願いとして受け入れ、今、イエスさまを信じましょう。そして、天での朽ちぬ冠を得るため自分を鍛錬し、自制しましょう。(Tコリント9:25、Tテモテ4:7,6:12)


キリストは神の知恵

序、 イエスさまのパリサイ派への批判に対して、律法の専門家が反発しました。(ルカ11:45) イエスさまは、彼らも三つの点で「わざわいだ(第2版では「忌まわしいものだ」)と言われます。

1、三つのわざわい

@ 誤った律法解釈
 律法の専門家は、人々に益を与えないで、重荷を与える律法の誤った解釈をしていました。これはユダヤ教だけの問題でなく、キリスト教にもありました。
 異邦人(ユダヤ人以外の外国人)が救われはじめた頃、「信じたら、律法を守るはずだ」と言うユダヤ人キリスト者がいました。そこで、エルサレム会議が開かれ、ペテロは律法の「負いきれないくびきを」負わせてはいけないと言いました。(使徒15:10) 
 イエスさまは「わたしのところに来なさい」と呼びかけられました。(マタイ11:28-30) 正しい律法の解釈、正しい聖書の解釈は人々に益を与えるのです。神のみこころは罪人を救うことです。
A みこころを拒む
 神は旧約において預言者たちを遣わされました。今、神の子をお遣わしになりました。次に、キリストによって預言者や使徒たちが遣わされます。
 しかし、律法の専門家は、彼らを迫害し、殺すのです。彼らは先祖たちの仕わざを継続しているのです。神のみこころを拒んでいるのです。
B 妨害
 彼らはことごとに人が救われ、天国に入る妨害をしました。(ルカ5:17,30) 聖書を研究しても、聖書の指しているイエスさまのところに来ないのです。(ヨハネ5:39-40) 

2、神の知恵

「神の知恵」(ルカ11:49) とはイエスさまのことです。(マタイ23:34) キリストは神の知恵(Tコリント1:24) ですから、教会は、このキリストを宣べ伝えるのです。
 教会は、「このキリストのうちに知恵と知識との宝がすべて隠されている」ことを主張し、まことしやかな議論に対決しなければなりません。(コロサイ2:3-4)
 私たちは人々に益を与える正しい聖書の解釈をしなければなりません。また、神の啓示に対して開かれた心が必要です。律法の専門家のように神のみこころを拒んではいけません。
 そして、まず、みずから神の知恵である主イエス・キリストを信じて救いに入り、人々にも救いに入りなさい、天国に入りなさいと勧める責任があるのです。

神の国は近づいた

序、 イエスさまは、七十人の伝道者を十二使徒(ルカ9:1)とは別に定められました。(ルカ10:1) 創世記10章の民族表には七十民族が記されています。主は七十人を立てて全世界に福音を宣べ伝えようとされました。それが具体的となる様子は「使徒の働き」に記されています。

1、収穫の主

「実りは多い」(ルカ10:2) と主は言われます。そのように主は弟子たちを励まされました。主はパウロに「恐れないで、語り続けなさい。・・この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:9-10) と励まされました。
 そして、弟子たちに、一緒に奉仕する「働き手」を「収穫の主」に送ってくださるように祈りなさいと言われます。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:30)
 収穫は急いでやらないと実りはなくなります。「財布」や「旅行袋」などを取ろうと家にもどっている時間はないのです。途中で誰かと「あいさつして」おしゃべりしているひまもないのです。(U列王4:29) 伝道は大急ぎでしなくてはならないことなのです。
 また、一人一人に伝える責任があります。主を受け入れる、平安の子がいたら、祈った平安は、その人の上にとどまります。(10:6)

2、神の国が近づいた

 弟子たちが伝える中心メッセージは、神の国は近づいた、です。イエスさまが来られることにおいて、「神の国は来ています。」(ルカ11:10,17:21)
 福音を拒み、神の国のメッセージを伝える伝道者を拒む者には、神の審きがあるのです。コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、ガリラヤの町々です。これから七十人が派遣される町ではありません。これらのガリラヤの町々は神の国が近づいたというメッセージを拒否し、悔い改めませんでした。
 伝道は神の国の拡大です。イエスさまにあってすでに到来している神の国を証言するわざなのです。私たちも、聖霊に満たされ、主の証人となりましょう。(使徒1:9)

暗やみから光へ

 主イエスの名を信じるとき、人は暗やみから光へと招き入れられます。

1、権威ある主イエスの御名

 主イエスは、神の国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気を癒し、悪霊を追い出されました。悪霊でさえも、イエスを神の子と信じて身震いしており、その御名には絶大な権威があるからです。
 しかし、救いの本質は悪霊が追い出されることではなく、主イエスのみもとに来ることです。主イエスの御名を信じるとき、神はその人を、暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいます。救いとは、暗やみから光への、所属領域の移動にほかなりません。

2、「言い広めよ」

 私たちの伝えるべきメッセージは、経験そのものではありません。救いとは、罪の赦しによる救いです。使徒パウロは、ダマスコ途上での劇的な回心について何度も語っていますが、彼が最も大切なこととして伝えたのは、十字架につけられたイエス・キリストでした。
 私たちの語るべき証しの中心は次の信仰告白です。
@罪のない神の御子が、私の身代わりとして十字架につけられ、三日目に死よりよみがえられた。
A私は、このお方を個人的な救い主として信じ、受け入れた。
B私の罪は、イエスの御名によって赦された。

3、イエスの証人となる力

 主イエスの死と復活のメッセージを世に伝えるためには、天来の力が不可欠です。イエスご自身、御国の福音の宣教に先立ち、聖霊の満たしを必要とされました。
 神の御子は、聖霊に満たされた人の子として、地上の務めを全うされたのです。そして、自ら聖霊の注ぎをお受けになったイエスが、弟子たちに聖霊をもってバプテスマを授けてくださる・・・、これも、主イエスの最も大切な職務の一つです。
 私たちも、聖霊の注ぎを熱心に求め、約束してくださった神の御名をほめたたえましょう。
「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:15)

愛の戒め

序、 キリスト教は愛の宗教だと言われています。きょうはルカ6章より愛の戒めについて学びます。

1、キリストのゆえに敵対する人に善を

 ここでの「敵」は、キリストやキリストの言葉に従おうとする人に対して敵対する人々を意味します。人間としてのわたしに敵対する人とは違います。
 ペテロも、あなたがたは悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりませんと警告しています。キリスト者として苦しみを受けるなら恥じることはありません。(Tペテロ4:15-16)
 キリストのゆえに、キリストに従うゆえにわたしを迫害する敵に対して、わたしの方から、その人たちを愛し、その人たちのために祈るのです。やがて、いつの日か相手の心に神様が働いてくださるのです。

2、積極的に善を

 32、33、34節にある「罪人たち」とは、世間一般の人々のことです。世間一般のマナー以上に、わたしたちは善を行うのです。
 神が憐れみ深いお方ですから、すでに神の子とされた私たちは(Tヨハネ3:1) 神の子として憐れみ深くあらねばなりません。私たち神の子とされた者は、神の御性質に似た者とされていくのです。また、イエス・キリストの模範があります。(Tペテロ2:21)
 天の父は、すばらしい愛を私たちに与えてくださいました。(ヨハネ3:16,ローマ8:32) このすばらしい愛の事実に気づき、これを心とするのです。

3、神の量り

 人を裁くか赦すかという対人関係の生活についての教えです。(ルカ6:37-38)
 ここでの裁くなとは、信者の中で、心の中で人のあら捜しをしたり、非難する傾向を戒める意味です。決して、この世の裁判や調停、また教会の戒規を禁じていません。(Tコリント5:12)
 現実の生活の中で、人を裁き、悪口を言いやすい者です。また、与えることを惜しむ者です。自分にはキリストの恵みが決定的に必要であることを認めましょう。他人を批判する前に、まず自分の欠点に気づき、自己吟味することが大切です。
 憐れみ深い神は、憐れむ人をこの上なく喜んでくださり、あふれるばかりに量り返してくださるのです。神は与えることを何よりも喜びとなさるお方です。赦し、与える善き生活をするとき、その量りに対して、同じ量りで返されるのでなく、それをはるかに上回るあふれるほどの量り方で返してくださるのです。
「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)

主の恵みの年

序、 ルカの福音書は、主のしもべ、救い主としての主イエスの証言が続きます。
 少年イエスの証言(2:49)、バプテスマのヨハネの証言(3:16)、天からの声の証言(3:22)、そしてきょうのところでは、聖書による証言です。

1、主の恵みの年

「キリスト」という言葉は、ギリシャ語で油注がれた者を意味します。ナザレの会堂で、「主がわたしに油を注がれる」というイザヤ61:1−2を朗読して、「きょう、聖書のこのみことばが実現しました」と説教されているのは、まさに、イエスさまにあってぴったりのことだったのです。(4:18,21)
 この日から、「主の恵みの年」が始まりました。福音は、「貧しい人々、捕らわれ人、盲人、しいたげられている人々」に伝えられます。苦しむ人々が解放され、自由を味わう時が始まったのです。
 私たちにとっては、福音はイエスさまそのものです。このお方に罪の赦しがあり、永遠のいのちがあります。

2、神の恵みをむだに受けないように

 しかし、ナザレの人々はイエスさまが「ヨセフの子ではないか」とつまずきます。肉の目には、「主の恵みの年」のはじまりが見えなかったのです。
「医者よ。自分を直せ」ということわざを用いて、イエスさまが、カペナウムで行われたと同じ奇跡をここで見せたら信じてやろうという、人々のかたくなな心を警告されます。私たちも人への批判ばかりに夢中になり、主の恵みの事実を見失ってはいけません。
 主は、預言者は自分の郷里では歓迎されないことを、二つの事件を引用して語られます。エリヤと異邦人のサレプタのやもめ、エリシャと異邦人のナアマンのいやし。
 ここから、主の恵みは、イスラエルに与えられないこと、その恵みが異邦人に与えられることを教えられました。この答えに激怒した群衆は、イエスさまをがけから落とそうとしました。
 主の恵みを遠くへ押しやってはいけません。神の恵みをむだに受けないように、今は恵みの時、今は救いの日だからです。(Uコリント6:1-2) このイエスさまにあって恵みが十分であるのです。

ほめたたえよイスラエルの神

 神の力は、神の民の賛美があるところに解放されます。

1、救いの角

 バプテスマのヨハネの父ザカリヤは聖霊に満たされ、イスラエルの神をほめたたえました。その焦点は、「救いの角」と表現される救主に向けられていました。
 角は力の象徴です。「主は来て、ご自分の民を解放し、そのしもべダビデ王の血筋から、力ある救い主を遣わされた。」(1:68、69、リビングバイブル)
 旧約聖書の預言によれば、メシヤはアブラハムの子孫、ダビデの家系より来ること、そして処女からお生まれになることになっていました。
 それが、マリヤにおいて実現しました。彼女は、聖霊によって身重になります。神にとって不可能なことは一つもないのです。

2、罪の赦しによる救い

 人類の真の敵は、「人」ではなく、サタン、死、罪であり、罪の赦しにより、サタンと死に対する勝利も保証されます。
 ヨハネは、主イエスに先立つ者として、神から遣わされました。その務めは、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを人々に説くことでした。
 罪の赦しのためには、「罪に全く汚染されていない人」による身代わりの犠牲が不可欠で、それを完全に満たすお方は、神が人となって来られたナザレのイエス以外にないのです。
 永遠の救いは、神の御子の十字架の死と、このお方を信じる信仰によって与えられます。

3、主の御前に仕える

 救いは、私たちを主のための奉仕へと導きます。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)
 聖霊のバプテスマは、奉仕のための力を与えるもので、主イエスが弟子たちに約束し、ペンテコステの日に成就しました。「聖霊に満たされる」という出来事は聖霊のバプテスマの型であって、処女マリヤに宿った胎の実であるイエスを囲む人々は、みな聖霊に満たされ、神をほめたたえました。
 主の御前に仕える者にとって、基本的に必要なのは、聖霊に満たされ、賛美の霊に満たされることです。これは、人為的に生み出すことができません。聖霊を求める祈りとは、賛美の霊を求める祈りでもあるのです。

主の恵みはとこしえまで

序、 この詩篇136篇は第5巻に含まれています。第5巻では111〜112篇が「ハレルヤ」ではじまっています。
 113〜118篇は「エジプトの小ハレル」と呼ばれ、ユダヤ人は過越の食事の際、主を賛美する時に用いました。
 詩篇136篇には「ハレルヤ」という言葉は出てきませんが、135篇と一緒に「大ハレル」と呼ばれています。そして146〜150篇は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれています。「ヤハウェ(主)」を短く発音すると「ヤ」,「ほめたたえる」は「ハレル」。その二つの合成語が「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」です。

1、主の恵みは創造と救いのみわざの中に

 詩篇136篇には「その恵みはとこしえまで」という語が26回くり返されています。主の恵みが中心です。
 まず、創造にあらわれた主の恵みです。天地創造、特に暗闇の中から光が射しこみ、太陽、月、星が造られました。そして、神のかたちに人間が創造されました。そこに主の恵みがあるのです。
 また、救いのみわざ、歴史にあらわされた主の恵みがあります。出エジプト(奴隷であったイスラエルの民がエジプトから脱出できました)、葦の海を二つに分けた大風、荒野の旅、カナンの地の征服、この一つ一つが主のみわざです。
 キリスト者にとっては、主イエスの受肉、生涯、特に十字架、復活、昇天、再臨といったすばらしいみわざと約束があります。これらの中にあらわされた主のみわざを覚えて、主の恵みはとこしえまでと賛美するのです。

2、日ごとの糧を与えられる主の恵み

 25節には、「主はすべての肉なる者に食物を与えられる。」とあります。主イエスも、「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈るように教えられました。(マタイ6:11) 
 日ごとの糧を感謝することは、創造の神のみわざを思うことにつながります。また、歴史に働かれた神の救いのみわざを回顧することに結びつきます。
 食事のたびに、日ごとの糧を与えられる主に感謝することは、そこから創造のみわざ、救いのみわざにおいて働かれる神を見ることができるのです。そして、主の恵みはとこしえまでと、主を賛美するのです。

真の幸い

序、 詩篇120篇からは都上りの歌です。エルサレムへ巡礼する人々が賛美した歌だと思われます。キリスト者は上のエルサレム、天国の巡礼者です。ですから、私たちも、目を天に上げ、この歌を歌いましょう。

1、備えてくださる主を知ること

 真の幸いは、まず、備えてくださる主を知ることです。(詩篇127:2) 眠っている間に、主は備えてくださいます。働かなくても良いということではありません。大切なことは、主によって働くことです。
 主を知り、主に信頼する時、主は私たちが眠っている間に必要なものを備えてくださるのです。アダムが眠っている間に、主は助け手を備えられました。(創世2:26) アブラムが眠っている間に、主は励ましを与えられました。(創世15:11) ヤコブが石を枕に眠っていた時、天からのはしごが見え、主が共におられることがわかったのです。(創世28:11以下) ダビデは主の守りの内に眠ることができました。(詩篇3:5)
 必要を備えてくださる主を知り、このお方をまず第一に求めましょう。

2、主を恐れる

 真の幸いは、主を恐れることです。(詩篇128:1) 主を恐れるとき、家庭に祝福があります。また、イスラエルの上にも平和があるのです。新約においては、教会が霊のイスラエルです。(ガラテヤ6:16)
 霊のイスラエル、教会が平安とあわれみを受ける秘訣は、この基準、すなわち聖書に従って歩むことです。聖書は私たちを戒め、養い、キリストに似た者に変えていく力があります。特に、このガラテヤ書では、キリストの十字架を誇りとすることと新しい創造がその基準であることが宣べられています。
 教会が、私たち一人一人がその基準に従って歩んでいくとき、真の幸いがあるのです。主を恐れ、主の教えに従って歩みましょう。

神に信頼せよ

 人生の旅路にはさまざまな危険があり、誘惑も多くあります。私たちの真の幸せのためには、人にではなく神に頼るのが最も安全で確実な道です。

1、天と地の創造主

 地球、太陽、月、星を含め、無数の天体が一つの法則に従って秩序正しく運行しています。一方、極微の世界、人間の遺伝子の研究においても、単なる偶然とはとても考えられない精巧な事実が明らかにされてきました。
 地の果てまで創造された永遠の神の英知は測り知ることができません。私たちの究極の助けは、その神から来るのです。

2、寝ずの番

 神に自分の生涯をゆだねた者は、この方を「主」とお呼びします。そして、主の恵み深い視線は、常に私たちの上に注がれています。
 イスラエル(神の民)を守る方は、まどろむこともなく、眠ることもありません。

3、外的危険からの救助

 主は、私たちをあらゆる危険から守ってくださいます。
@あまねく全地を満たす御霊の助けによって、
A御使いを遣わして、
B摂理によって。
 摂理とは、神が前方を眺めて神の民の直面する危機を知り、その備えをされることであり、神はそのために特別な奇蹟を用いず、普通の事件(罪深い人間の行為と計画を含む)を用いられます。それゆえ、摂理は最も大いなる奇蹟です。(W・ペイプ)
 私たちは常に摂理に囲まれて生きているとも言えます。ゆえに、不都合な出来事の中にも神の指を認めるなら、私たちは日々、神の奇蹟を発見することができるでしょう。

4、たましいの安全

 私たちのからだは、内にたましいを宿す器です。肉のからだは、やがて朽ちて行きますが、たましいは不滅であり、このたましいの幸せのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。
 この世のあらゆる悪の原因をたどれば、人が創造主なる神から離反したという事実、いわゆる原罪に至ります。神の御子が人として来られたのも、実は、この損なわれた関係の回復のためでした。
 イエスの十字架を仰ぐとき、神は私たちの霊の父となってくださり、私たちのたましいを、いかなる試練を経ることがあったとしても、永遠に守ってくださるのです。