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【2012年】
フェルメール
ゲーテとの対話 ケルビムとスフィンクス カルデヤ人、カナン人
ハイドンのピアノ・ソナタ(2) フォーン ペンシルバニア
七つの大罪 おおきなかぶ ディーン・リーパー
東京タワー 片岡健吉 煙の中の皮袋
えにしだ 川の光2 川の光
教会ねずみとのんきなねこ ああ、すぐ書房 ハイドンのピアノ・ソナタ
カテドラル カエルの目だま フレデリック
井戸 リュート スポルジョンとバニヤン(7)
スポルジョンとバニヤン(6) スポルジョンとバニヤン(5) スポルジョンと賛美歌
少年説教家 ミケランジェロ サヴォナローラ
フス シリアル 日本のハンス
カーネーション ルターとボーリング ジョン・ウィクリフ


フェルメール

 続けて、「退屈力」を読んで、心に残ったことであるが、オランダの画家フェルメールのことである。
 著者の斉藤氏は、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見て、ぐっーとひきこまれてゆく自分を実感する。そのところを「退屈力」より部分的に引用する。

―― 一筋の牛乳が垂れている白い線、光線の具合、そこに置いてあるパンの質感といったひとつひとつが、飽きさせない力を持っていた。・・・「牛乳を注ぐ女」が描いているのは、とりたてて劇的な瞬間ではない。生活の中のありふれた行為だし、牛乳を注ぐ女の人の生活自体、退屈だったはずである。しかし画家は、ありふれた題材として、その情景を斬って捨てはしなかった。丹誠込めて、その一瞬をカンバスの上に表現していった。・・・ありふれた日常をきりとっただけの情景が、女性の存在の充実した空間に変化した。――

 私はこの文章を読みながら、神様は、私たちの日常の平凡なことにも暖かいまなざしでご覧くださっているのだと思った。ありふれた日常生活、そこにも、主の臨在がある。
(大根おろし)

ゲーテとの対話

 斉藤 孝著「退屈力」(文春新書)を読んでいたら、懐かしい『ゲーテとの対話』についての言及があった。中学生の頃、このエッカーマン著『ゲーテとの対話』(現代教養文庫、社会思想社刊、この本は全訳でない)を読んだ。

 斉藤氏は、ゲーテ自身のシェークスピア評を取り上げている。「シェークスピアは、あまりにも豊かで、あまりにも強烈だ。創造をしたいと思う人は、彼の作品を一つだけ読むにとどめた方がいい。もし、彼のために破滅したくなければね。」
 ゲーテはイギリス文学を高く評価しているし、古典としてのシェークスピアの作品を高く評価しているのである。

 最近、web で読んだスポルジョンの説教 1856年、2/3(日)朝の説教(ぶどうの実翻訳、渡部謙一訳)には、シェイクスピア「ヘンリー五世」「ヘンリー四世」よりの引用がある。
 シェークスピアの豊かさをあまり知らない私にとって、このゲーテの評価はひとつの刺激となった。
(大根おろし)

ケルビムとスフィンクス

 新教出版社の「聖書歴史地図」を読んでいたら、スフィンクスは、ライオンの体に女性の顔を持つ有翼像である(P.103)という記述があった。私は、スフィンクスの顔は男性だとばかり思っていたので、びっくりした。
 次に、「新聖書辞典」(いのちのことば社)の、ケルビムの項を開くと次のようにあった。(後半のみ引用)

――翼を持った象徴的な生きものは、古代近東の神話や建築物によく見られる特徴的なものであった。この種の像はエジプトのアニミズムにも見られる共通の特徴であったし、メソポタミヤでは有翼の獅子や雄牛が重要な建築物を守護していた。
 ヒッタイト人は、頭は鷲、胴体は獅子の有翼の生きものであるグリフィンを普及させたが、その外観はスフィンクスに似ていた。――

 聖書では、ケルビムは4つの顔(ケルブ、人間、獅子、鷲)と4つの翼を持っていた。(エゼキエル10:14,21) エゼキエル41:18−19では、ケルビムは人間と若い獅子の2つの顔を持つものとして出てくる。
 これらは幻の中での顕現なので、いったいどのような顔であったかはっきりは分からない。とにかく天で絶えず神を賛美する生きもの(天的存在)として記述されている。(黙示4:6-8)
 ここでは、四つの生き物として登場し、第一の生き物は、獅子のようで、第二の生き物は雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。それぞれに六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。

 今回、翼を持った象徴的な生き物は、イスラエルだけでなく古代近東やエジプトでも、彫刻や建築物にもよく見られるものであることがわかった。エジプトではスフィンクス、ヒッタイトではグリフィン、聖書ではケルビム(ケルブの複数形)。
 聖書のケルビムについての詳細は明確ではないが、とにかく、まことの神を賛美する存在である。またエデンの園にあるいのちの木を守るために置かれ(創世3:24)、幕屋の至聖所にある契約の箱の「贖いのふた」の両端に、互いに向かい合うように純金製のケルビムが置かれた。(出エジプト25:18-22) ここでは聖所を守るものと考えられていた。
 
 さらに、参考に「広辞苑」を開いて見た。
――スフィンクス
@古代エジプトやアッシリアなどで王宮・神殿・墳墓などの入口に魔除けのために設けた人面獅身の石像。
Aギリシャ神話の怪物。スフィンクスを女性化したもの。テーベ市付近の岩の上で、行人に「朝は四脚、昼は二脚、夕は三脚のものは何か」という謎をかけ、解き得ない者を殺していたが、オイディプスに、「それは人間である」と答えられて、海に身を投じて死んだという。―― 

 この広辞苑から考えられることは、スフィンクスは人面獅身の石像であり、ギリシャ神話では、スフィンクスは女性化した怪物になっている。ギリシャ神話では、スフィンクスは女性の顔を持っていると言える。しかし、エジプトの石像は女性ではないらしい。
 結果的には、エジプトの石像のスフィンクスの顔は男性で、ギリシャ神話の怪物のスフィンクスの顔は女性ということになる。
(大根おろし)

カルデヤ人、カナン人

 新改訳聖書の脚注付きのものは聖書を学ぶ参考になる。たとえば、ダニエル2:2、4「カルデヤ人」という表現がある。脚注は、「あるいは、『占星師』『学者』とある。
「新聖書注解 旧約4」(いのちのことば社)では、「ヘロドトスの『歴史』において『カルデヤ人』という表現が、バビロンの神の祭司に対して用いられている。しかも、これはペルシャ王のクロスの時代までさかのぼって考えることができる。
 ワイズマンによれば、バビロンの祭司階級の中のおもだった者たちは、天文学や哲学に関する古くからの伝承を、古典バビロニヤ語によって保存していたので、『カルデヤ人』という表現は、祭司(ダニエル3:8) や天文学者や教育のある者たち(2:10,4:7,5:7,11) を指すようになった。」とある。
 ダニエル書で「カルデヤ人」とあるのは、人種ではなく、限定された意味で、「占星師」「学者」を意味するのである。

 次は、カナン人である。
 箴言31:24「商人」は、脚注を見ると、「あるいは『カナン人』」とある。「新聖書辞典」(いのちのことば社)を見ると次のように記されていた。
―――カナン(人)
1、ハムの子(創世9:18,22)。 シドン人、ヘテ人、エブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人などがカナンの子孫。(創世10:15-18、T歴代1:13-16)
 カナンの語源に関して
(1)山地と対照される「低地」という意味。
(2)「紫染料」の製造者を指す。
(3)「商人」という意味(参照 箴言31:24欄外註、イザヤ23:8)。
(4)「西方」(つまり右隅が「傾く」方角)という意味、など諸説がある。現在では、第2の説を有力視する者が多いが、地名とのかかわりもあって断定は容易でない。
2、カナン人。この語は、必ずしも前述の「カナンの子孫」に限定されず、「カナンの地に居住する人々」を指して幅広く用いられる。たとえば、イザヤ23:11では、フェニキヤ人を指すが、ゼパニヤ2:5ではペリシテ人を指す。それゆえ、雑多な民族系譜に属する人々が含まれ得る。(出エジプト13:12、申命記11:30、ネヘミヤ9:24など)・・・カナン人が元来どのような宗教を信奉したにせよ、ひとたび真の信仰を持つようになれば、神の民に加えられる。
 旧約には、エリコの遊女ラハブ(ヨシュア6:25)、シドンのやもめ(T列王17:8-24) らの例があり、イエス自身もカナン人の女に手を差し伸べられた。――

 カナンの語源については「商人」という意味が有力であるということではない。しかし、カナン人=商人と思われるほど商業活動が盛んであったのではないかと思われる。
 このようにして脚注から疑問が生まれ、そこからそれを調べる。そして、いろいろと学ぶことができて感謝である。
(大根おろし)

ハイドンのピアノ・ソナタ(2)

 ハイドンのピアノ・ソナタ第59番変ホ長調第一楽章には、『運命のモチーフ』が姿をみせている。
 はっきりとは覚えていないが、何かの本にベートーヴェンの「運命のモチーフ」は、ベートーヴェンの創作ではないということが書いてあった。そのことが、このハイドンのピアノ・ソナタからもうかがえる。このハイドンの作品は、ベートーヴェンの「運命」よりも先に作曲されているのだから。

 また、このハイドンのピアノ・ソナタには、はっきりと、「フォルテピアノのためのソナタ」と題書されているとのこと。ハイドンは、ピアノという楽器のためにこのソナタを作ったのである。(チェンバロの時代からピアノの時代へと、ヨーロッパの音楽の世界は新しい時代へ移行しようとしていたのである)

 小学生の時、音楽の時間にベートーヴェンの「運命」を聴いた。あのダダダダーンというテーマが心に残った。そのテーマがハイドンのピアノ・ソナタにもあったのだという新しい発見をした。
(大根おろし)

フォーン

 英語の辞典を調べていたら、次のような言葉に出会った。
faun [ギリシャ神話]ファウニ:ヤギの耳・角・尾(後には後脚)を持った半人半獣の林野・牧畜の神の一人。(参考「ランダムハウス英和大辞典」小学館)

 この辞典では「ファウニ」と書かれてあるが、C.S.ルイスの『ライオンと魔女』では、フォーンという名で出てくる。(数年前に、この物語は映画化された。)
 そのフォーンはタムナスという名前で、ナルニヤの国に入ったルーシィを自分の家に招くのである。タムナスは実は自分はアダムとエバの子供たちをつかまえるために、魔女に雇われていると告白する。
 でも、ルーシィと友達となった以上、どんなにひどい目に会おうともルーシィを魔女に引き渡すことはできないと、涙ながらに語る。タムナスは彼女を街灯のところまで送って来てくれたので、ルーシィは雪の世界から衣装だんすを通って、部屋へ戻れるのである。そのシーンが印象的であった。
 
 また、このタムナスの洞窟の家の本棚には、『人間は実在するか』という本もあるのである。人生を考え、善と悪との間に揺れ動く憎めない登場人物である。(参考 柳生 望「ナルニア国は遠くない」新教出版社)
(大根おろし)

ペンシルバニア

 Webで、ウィリアム・ペン(1644-1718) について調べた。
イギリスの植民地だった現在のアメリカ合衆国にフィラデルフィア市を建設し、ペンシルバニア州を整備した人。ペンが示した民主主義重視は、アメリカ合衆国憲法に影響を与えた。

 ペンの父、ウィリアム・ペン(この父と息子のペンは同じ名前であった。)は有力な海軍軍人で、富裕なイングランド国教会信徒であった。同名の息子のペンは22歳でキリスト友会徒(クエーカー)になった。クエーカーは内なる光に従い、その光は神から直接に来ると信じ、国王の権威を否定し、平和主義を掲げる。
 イギリスのチャールズ2世は父親の方のペンに借金があり、1681年3月4日、アメリカのニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を保証することで弁済。ペンはこの地をシルバー(ラテン語で「森の国」)と名づけた。チャールズ2世は父ペンに敬意を表して、この地を「ペンシルバニア(ペンの森の国)」と改めた。

 今回、Webで調べて、ウィリアム・ペン親子についてはじめて知ったことがあった。
 父親は海軍軍人で、英国王が借金ゆえに、彼に敬意を表して、「ペンシルバニア」と名付けたこと。
 また、息子は、クエーカー(三位一体を否定しているので異端である)であり、民主主義の原理をアメリカに導入したこと。
「ペンシルバニア」という地名に親しみをおぼえるようになった。
(大根おろし)

七つの大罪

 子どもがテレビを観ていた。そこで七つの大罪についての説明がされていて興味をもった。
 そう言えば、昔、ビリー・グラハム著「七つの恐るべき罪」(いのちのことば社) という本を読んだことを思い出した。その本には、次のように記されていた。

――グレゴリウス法王は、六世紀の終わり、すべての罪を七つの項目に分類した。彼は、人が犯すあらゆる罪は、七つのことばに分類することができると言っている。彼は罪を名づけて、高ぶり、怒り、ねたみ、不品行、暴食、怠り、強い欲心と呼んでいる。
 これらのものは、各世紀を通じて「七つの恐るべき罪」と呼ばれてきた。これらの罪は、聖書のどの章節にもまとめて記されているが、多くの個所において、これらの罪がみな別々に刑罰の対象となっている。トマス・アクィナスや大神学者のほとんどは、グレゴリウス法王と意見を同じくしてきたので、これら七つの恐るべき罪は、道徳神学の公認された一部となっている。
 これらの罪はまた、詩人に歌われる主題となった。ダンテの「煉獄」の筋は、この恐るべき七つの罪の順を追っている。これらの罪はまた、チョーサーの「パーソンズ・テール」やコーロの「ドクター・フォースタス」の中で論じ尽くされている。最近封切られたイタリア映画ですら「七つの大罪」と名づけられている。――

 この本に記されているとおり、ダンテ『神曲』の「煉獄」編は、この七つの罪を順に追っている。また、Web の Wikipedia で「七つの大罪」を調べてみたら次のようであった。
 4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ボンティコスの著作に八つの「枢要罪(すうようざい)」として現れたのが起源。「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」。
 6世紀後半、グレゴリウス1世により現在の七つに改正。「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加された。

 最後に、ビリー・グラハム著「七つの恐るべき罪」の締めくくりの部分を引用して終わる。
 貪欲とお金に対する欲は、あなたの心をかたくなにし、あなたをにがにがしくさせ、また、嫉妬深くさせてきた。しかし、あなたが救われることは可能である。
 あなたは罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じることができる。そうすれば、彼の血は、すべての罪をきよめることができるのである。あなたの罪がたとい何であれ――あなたは十字架のもとにおいて、驚くべき栄光ある、幸いな罪のゆるしを見いだすことができる。
(大根おろし)

おおきなかぶ

4/12(木)の日経新聞の夕刊に、「おおきなかぶ」という絵本のことが書かれてあった。この絵本は、A.トルストイの再話で、内田莉莎子訳 佐藤忠良画(福音館書店)。福音館書店の相談役の松居 直(ただし)氏が、その新聞で画家の佐藤忠良氏のことについて書いていたのである。

 佐藤氏は、戦後、ソビエトで捕囚となった。そこで、ロシアの農民の姿をスケッチしていたようである。その人が、このロシアの民話の画を描いているので、ロシアの農民の姿がリアルで力強いのだとわかった。
 松居氏は、「松居 直のすすめる50の絵本」(教文館) の中で、次のようにこの絵本の魅力を記している。

――この物語は常識はずれの大ウソです。にもかかわらず子どもたちがおお歓びするのは、物語の展開にホントを感じ共感するからです。ウソが真実を語り伝えるというこのふしぎは、「うんとこしょ、どっこいしょ」の掛け声の力が読者の気持ちをかきたて、物語の世界へ引っ張りこんで、共に生きる歓びを実感させてくれるからです。――

 ある所で久しぶりに読んだ日経新聞から、「おおきなかぶ」のすばらしさを発見した。
(大根おろし)

ディーン・リーパー

 ディーン・リーパー宣教師のことをいままでも聞いていた。今回、尾山令仁著「憎しみを愛に」(新生宣教団) という本を読み、さらに詳しく知った。以下はその要約。

――1954年9月26日 青函連絡船洞爺丸が台風のため、七重浜に座礁。その時、二人の若い日本人の婦人が病人として連れて来られる。人々はそれに気がつかぬふりをして、救命ボートに乗り移る。
 しかし、二人のキリスト教の宣教師がいた。一人は、アルフレッド・ストーン、もう一人はディーン・リーパー。自分たちが乗るべき救命ボートにこの日本の若い婦人たちを乗せてやり、自分たちは乗らぬことにした。しかも、自分の救命具までその婦人たちに上げた。(婦人たちの救命具のひもが切れていたので)
 この二人の婦人たちは助かる。その代わり、あの二人の宣教師たちは、千数百人の人々とともに海の藻屑となる。
 助かった二人の婦人が、宣教師の最後の言葉通り、教会を探し、救いの体験をし、そのことをあかししたので、このことが明るみに出た。
 宣教師たちは、二人の婦人たちに、「ワタシタチハ スクワレテイマス。ケレドモ、アナタガタハ スクワレテイマセンネ。タスカッタラ、キットキョウカイヘイッテ、スクワレテクダサイ」と言った。二人の婦人たちは宣教師との約束を守ったのである。――

 見も知らぬ婦人のために、二人の宣教師がいのちを投げ出すことができたのは、キリストの愛の力によったのである。

"キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。"(Tヨハネ3:16)
(大根おろし)

東京タワー

 4月に東京スカイツリーがオープンした。東京タワーのことが忘れられるのではないかと心配している。テレビや新聞でしかスカイツリーを見ていないが、私は東京タワーの方が好きである。
 小さい頃、父が東京へ行ったおみやげに、東京タワーの模型を買ってきてくれた。その模型をずっと見て暮らしてきた。
 青年時代東京で3年間暮らした。東京タワーへは行かなかったが、東京タワーがそこ(東京)にあるのだという存在感があった。

 さて、新聞連載小説「川の光 2」では、動物たちが東京タワーで集合する約束になっている。作者の奥さんがブログで、東京タワーへ行った日記を記している。またそこには奥さんが作者に登場する動物の数を増やすようにアドバイスしているが、作者は限られた連載ではそれは難しいと答えている。
 離れてしまった動物たちが、また東京タワーで再会してほしい。動物たちの再会の場所は、やっぱり東京タワーがふさわしいように思う。これは、あくまでも私の主観だが・・・。
(大根おろし)

片岡健吉

 Web の Shirasagi に、「信仰のやせがまん」というブログ記事があった。
――幕末の長崎で「かくれ切支丹」が発見され、幕府は西国34藩に3394人を預けた。土佐藩の拷問部屋で、「母ちゃん座りたいよ」と、子どもでも狭さをがまんしている姿に感動した片岡健吉(1844-1903)という青年がクリスチャンになった。――

 このブログを読んで、片岡健吉の回心には、かくれ切支丹の子どもが用いられたのだと知った。主は不思議なことをなされる。
 片岡健吉は、明治時代に衆議院議長を務めるかたわら、日本基督教会高知教会の信徒として、高知にいる時は、教会の下足番の奉仕をしていたとのことである。(これは別の本で知ったことだが)
 青年時代、土佐藩の郡奉行を務めていたので、その時、かくれ切支丹に出会ったのだろう。主の不思議な導きを感じた。
(大根おろし)

煙の中の皮袋

 詩篇119:83に「たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。」という表現がある。「煙の中の皮袋」という表現が気になって調べて見た。

――古びて使用しなくなった皮袋を天井の窓格子につるしておくので、煙とすすでいよいよ黒くなるさまを言う。・・・ここでは、詩人の受ける益ではなく被害をたとえているのである。――(参考「新聖書注解旧約3」いのちのことば社)

 迫害の中、信仰をもっているこの詩人は、神の助けがなかなか訪れないが、神を待ち望んでいるのである。たとい「煙の中の皮袋のようになっても」みことばを忘れず、主の救いを慕っているのである。
(大根おろし)

えにしだ

 詩篇120:4に「えにしだの熱い炭火」という表現があった。この詩篇は、信仰者である詩人が苦しみの中から、神に呼ばわると、神がそれに答えられたことを歌っている。
 詩人は乱暴な異邦人の間で生活している。その人たちは、争いを好み、偽善的で、詩人は苦しんでいる。その歎きの舌に対して、神よりのさばきとして「えにしだの熱い炭火」が下されるようにと祈っている。

〈えにしだ〉からは、最も長持ちする木炭が作られる。(参考「新聖書注解旧約3」いのちのことば社)さらに、いのちのことば社の「新聖書辞典」を見ると、次のようにあった。
「えにしだ」は、ヘブル語でローセム。まめ科の灌木。昔は心臓病の薬に用いた。エリヤは、イゼベルを恐れてシナイの荒野に逃れた時、このえにしだの木陰に休み、主の使いから励ましを受けた。(T列王19:1-8)

 まめ科であるため、降雨量の少ない荒野や砂漠にも生じ、繁殖する。黄金色の大変美しい花をたくさんつける。いろいろと「えにしだ」について知ることができて良かった。
(大根おろし)

川の光2

「川の光2」195回目のところで、このような文章があった。
――タータの頭にふと、あの教会ネズミのマルコが、酔いの覚めぎわに、うわごとのように洩らした言葉が蘇ってきた。――

「教会ネズミ」という表現に、目が留まった。この作者の松浦寿輝氏は、英国の教会ネズミのアーサーの絵本のことを知っているのだろうか?そのことからヒントを得ているのか?
 少し前に、この雑記帳でも書いたが、グレアム・オークリー作・絵「教会ねずみとのんきなねこ」では、ねずみのアーサーと、たくさんのねずみたちが大活躍するのである。

 猫好きの私としてはネズミが主人公の小説にかなり抵抗があったが、読み出すと、この絵本も面白いし、また小説の「川の光2」もおもしろい。
(大根おろし)

川の光

 読売新聞の夕刊に2006年7/25〜2007年4/23 まで、松浦寿輝作「川の光」という小説が連載されていた。ネズミが主人公の物語なので、私は関心がなく、読んでいなかった。
 現在、読売新聞の朝刊に、「川の光2」が連載されている。なかなか面白いので、前作の「川の光」を読んでおけばよかったと思っている。

 Webで「川の光」のあらすじを調べてみた。
 川沿いに住む、タータ達のクマネズミ一家のところに、ある日人間が大挙して押し寄せる。目の前の川が暗渠(地中に埋設された河川や水路)になるので、一家三匹は上流に移住するのである。
 途中、ドブネズミ帝国にお父さん達が捕らえられる。このドブネズミ帝国に敵対するネズミの反乱軍の合言葉が「川の光」である。反乱軍の同志が集まり、お父さん達が救出されるのである。

 この小説は、都市の環境問題に対するするどい警告ともなっているらしく、映画化もされた。ネズミの主人公の小説もなかなか見捨てたものではないと、反省した。
(大根おろし)

教会ねずみとのんきなねこ

 前回、すぐ書房のことを書いた。「ねこのサムソン・シリーズ」を図書館から借りてきて、子どもたちに読んで聞かせたことがある。
 すぐ書房が幕を下ろしたので、この絵本はなくなるのかと残念に思っていたら、図書館で、別の出版社のものがあることがわかって安心した。

 グレアム・オークリー作・絵「教会ねずみとのんきなねこ」(徳間書店) 教会に住んでいるねずみのアーサーとねこのサムソンの物語である。この〈教会ねずみ〉シリーズが、別の出版社で継続して出版されていることを知ってうれしい。
 教会に住んでいるねずみのアーサーは、聖書を読んでいて、いいお話を見つけるのである。さすが教会に住んでいるねずみだけあって、聖書を読んでいる設定になっているのである。ねこやねずみの絵がかわいい。ぜひ、多くの子どもたちに読んでほしい。
(大根おろし)

ああ、すぐ書房

 すぐ書房が、2010年9月、36年の歴史に幕を下ろした。私は「すぐ書房」の本が好きであった。
 C.S.ルイス著作集(残念ながら途中で中断したが)、マシュー・ヘンリ注解書(これも途中で中断)、絵本「ねこのサムソン・シリーズ」など、すばらしい注解書、研究書、児童書を出版していた。

 この書房の代表は、有賀寿氏。有賀氏は1956年からキリスト者学生会主事。1962年総主事。1971年総主事を辞任。1975〜1986年まで長老として奉仕した後、牧師。その後、1974年以後、すぐ書房で文書伝道。
 すぐ書房のグラディス・ハント著「母と子の読書教室」を参考に、私は子どもたちに絵本や物語、小説の読み聞かせをした。良い本を出版し、良い本を紹介してくれる書店であった。
(大根おろし)

ハイドンのピアノ・ソナタ

 ハイドンのピアノ・ソナタ第34番ホ短調は、1783年にロンドンで出版された。作曲年代は不明。3楽章からなるが、第1楽章がすばらしい。ピアノはこのように美しい音が出るのだと再確認できた。私が聴いたCDは、アルフレッド・ブレンデルのピアノの演奏。

 このCDの解説で渡邊學而氏は、「ハイドンにおけるブレンデルのテンポの設定は、概して遅い。ことに急速楽章は、遅めで落ち着いたテンポをとることによって、性急で過度な表現を避け、あくまでも素朴さの中からしっとりとした味わいを引き出す方向をとっているように思われる。」と記している。

 この解説にあるとおり、素朴さの中から、しっとりした味わいを引き出す演奏であった。私はハイドンの作品を聴くとき、まじめな職人芸術家ハイドンの温かみを感じるのである。
(大根おろし)

カテドラル

 よくカテドラルという言葉を聞くが、正確な意味は知らなかった。ある本を読んでいてわかった。次のように記されている。
――キリスト教徒が法廷に行こうとしなかったのは、キリスト教徒が争いを起こしたときには自分たちの間で決着をつけるべきである、と使徒パウロが教えたからです。
 その習慣が司教に紛争の判決をゆだねるようにまでなったのです。司教はカテドラと呼ばれるいすに座りました。後にはそのいすの設けられてある教会を、カテドラル(聖堂)と呼ぶようになりました。――(参考 R・H・ベイントン「世界キリスト教史物語」教文館)

 現在も、ローマ・カトリック教会では、カテドラルの名がついた教会がある。プロテスタントではない。この本に「使徒パウロが教えたが」と書かれているが、Tコリント6章の前半にそのことが記されている。
 コリント教会では信者同志の争いがあり、世の裁判所に訴え合った。そのことをパウロは戒めているのである。もちろん、キリスト者が裁判に訴えることを聖書は全面的に否定しているわけではない。
 パウロ自身、ローマ帝国の裁判所に自分を訴えた人々がいたので、正しい裁きを期待して上訴している。(使徒25:11) 
 ごく小さな事件で、キリスト者同志が世の裁判所に訴え合うことは証しにならないので、教会内で解決するようにと言うことである。
(大根おろし)

カエルの目だま

『フレデリック』に続けて、絵本の話である。次は『カエルの目だま』。
 文は、日高敏隆(1930-2009)。名前を見て、びっくりした。動物行動学者として有名な教授である。この原稿は岩波書店労働組合機関誌「誌月」1951年冬号に掲載された。その原稿を岩波書店の方が見つけ、大野八生氏が絵を描き、絵本として2011年5月に発行された。
 日高敏隆氏の妹さんである鈴木淑子氏は、
――「一人ひとりの良いところを見つけて大切に育てる」という本書の考え方に、少年少女の皆さんが共感してくださったら、兄もきっと本望だと思います。――
という文章をこの絵本の裏表紙のところに記している。

 絵本の内容は、世界一の目だまを持っているといばっていたトノサマガエルがトンボに出会う。トンボの目が『複眼』であることを知る。次にミズスマシに会う。ミズスマシも複眼を持っている。
 左と右の目がそれぞれ上の目だまと下の目だまに分かれて、上の二つで空を見て、下の二つで水の中を見るのである。とうとうカエルはしょげてしまう。
「おいらの目なんかは、ただのデメだな。ああ、かなしい!」と。みんなはカエルを慰めてこう言うのである。

「カエルの目だまはカエルの目、
 とってもうまくできている。
 ヤンマの目だまはヤンマの目、
 こいつもうまくできている。
 みんなそれぞれじぶんには
 チャンとあう目があるんだよ。
 もしもほかのと かえたらば
 きっと不便でこまるだろ。」

 そして、目のじまんはやめて、みんなでおどることになる。心暖まる絵本である。(参考 日高敏隆・文 大野八生・絵「カエルの目だま」福音館書店) 
(大根おろし)

フレデリック

 教会学校教案誌2012年1−3月号「成長」(CS成長センター)の中に、「絵本の泉」という連載があり、毎回絵本の紹介がある。今回は、レオ=レオニ作 谷川俊太郎訳『フレデリック ちょっとかわったのねずみのはなし(好学社)』が紹介されていた。
 レオ=レオニの絵本は子どもたちが幼児だった頃、図書館から借りてきて、絵本を開き読んで聞かせた思い出がある。この『フレデリック』はその中に入っていなかった。「絵本の泉」の紹介で、私はさっそく図書館から借りてきて読んでみた。

 野ねずみのフレデリックは、石垣の中に、四匹の野ねずみと一緒に住んでいた。野ねずみたちは冬に備えて食べ物を集めていたが、フレデリックはじっと眠っているようだった。
 実はフレデリックは冬の日のために、おひさまの光を蓄え、色を集め、話の種になることばを集めていたのである。冬になり、フレデリックの話によって野ねずみたちは元気を取り戻すのである。
 この「絵本の泉」の中で、高原光子氏は、この絵本のすばらしいメッセージについて次のように記している。

――フレデリックのように仲間とは違う行動をとり、その人にしかない持ち味が発揮されて当然でしょう。外から見れば、ちょっと変わった行動であっても、その奥にその人らしいどんなにすばらしい賜物が隠されているか量り知れません。
 自分の賜物に気づかない場合も多くありますが、それを見いだして仲間の役に立ち、仲間からも祝福されたのが、この愛すべきフレデリックだと思います。お互いに賜物を認め合い、生かし合うところにこそ、喜びが生まれるのかもしれません。――

 この解説によって、この絵本のすばらしさを知った。一人一人の賜物が発見され、生かされていく時、すばらしいことが起こるのである。
(大根おろし)

井戸

 先日、子どもがネパールの井戸掘りの番組を観ていたので、私もしばらく一緒に観た。日本からの井戸掘りの専門家が現地の人たちと一緒に簡単な道具で井戸を掘るのである。このネパールでの井戸掘りはうまくいかなかったが、次のアフリカでは井戸から水が出ていた。
 昭和20年代、日本にも多くの井戸があった。井戸からポンプで水をくみ上げている家がまだあった。このテレビを観て、井戸掘りとは大変なことなのだなあと思った。

 聖書の中にも、アブラハム、イサクは井戸を掘っている。「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った。」(創世26:18)
 荒野のイスラエルの民は、主によって水が与えられたとき、(井戸から水が出たとき) こう歌った。「わきいでよ。井戸。――このために歌え。――」(民数21:17) 
 井戸から水がわき出ることは喜びであった。荒野において水はなくてはならない、貴重なものだったから。

 さて、井戸のことから思い出すことがある。説教者ロイドジョンズは、『リバイバル』(いのちのことば社)という本の中で、イサクが父アブラハムの時代に掘られていた井戸を再び掘ったことに言及している。
 キリスト者にとって大切なことは、教会の歴史を読み、過去を学ぶこと。「使徒の働き」と、イギリスやアメリカで起こったリバイバルの歴史を学ぶことである。
 また、ロイドジョンズはこう記している。

――リバイバルが他の何よりにもまして見せてくれるもの、それは神の主権と罪ある人間の罪悪、無力、絶望である。――

 ペリシテ人がアブラハムが掘った井戸をふさいだように、現代では、不信仰が、また聖書が神のことばであることの否定が、いのちの水の出る井戸を塞いでいるのである。
 ロイドジョンズは、次のように記している。

――過去のリバイバルの歴史を読むと、当時の人は男も女も、聖書を神のことばであると信じていたことがわかる。彼らは聖書を文字どおりに信じ、聖書を神の啓示として、神に関する真実として、人の神への関係に関する真実として見なしていた。・・・彼らはその書物に服従していた。・・・だが、この百五十年間、ペリシテ人はとても活動的だった。・・・人が寄り所となる権威を全く持っていないのだ。人は聖書の権威を否定してきた。
・・・ぜひ、過去の歴史を読んでほしい。そうすれば、人が神のことばの権威より、自らの思想や意見を優先したときは、リバイバルがなかったことがわかる。――

 イサクがペリシテ人が埋めたゴミを取り除き、アブラハムの掘った井戸を再び掘ったように、過去のリバイバルから学びたい。そして、聖書を神のことばと信じ、聖霊に期待して、リバイバルを祈っていきたい。
(大根おろし)

リュート

 J.S.バッハ(1685-1750)のリュート作品をCDで聴いた。(組曲1〜4番など) 演奏者はコンラート・ユングヘーネル。13弦のバロック・リュートを使用している。
 16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、リュートを演奏していた。ルターは何弦のリュートを使っていたのか? 私は知らない。
 さて、リュートの曲だが、ヴァイオリンやチェロとはちがう音色である。ルターはさまざまな重荷があり、困難があるとき、リュートを手にして賛美した。ルター自身、数多くの賛美歌を作詞、作曲している。ルターは音楽について非常に大切なものとして評価している。

「音楽は、最も美しい最も高貴な神の賜物の一つである。音楽は悪魔の非常に嫌うものである。多くの誘惑と悪しき思想は、音楽によって追いやられる。悪魔は音楽を忍耐し得ない。音楽は最上の芸術の一つである。歌の文句を活かすものは、音譜である。サウロ王におけるように、音楽は悲哀の霊を追い払う。」(参考 佐藤繁彦訳〈改訂新版〉ルッターの「卓上語録」グロリヤ出版、この本ではサウロ王となっているが、新改訳聖書では、サウル王である。)

 バッハのリュートの曲を聴きながら、ルターのことを思い出したのである。
(大根おろし)

スポルジョンとバニヤン(7)

 1860/2/5 スポルジョンは「《邪疑》氏の裁判と処刑」という題で、説教している。
 英語の説教題は、Mr.Evil――Questioning Tried and Executed となっている。つまり、Mr.Evil を「《邪疑》氏」と訳している。(参考 ウェブサイト〈葡萄の実〉ほん訳ミニストリー)
 この説教は、はっきりバニヤンの『聖戦』からの直接引用、あるいはその要約や自由な形での引用がある。テキストは、U列王記5:12のところ。

 スポルジョンはこう語る。《高慢自我》と《邪疑》は、サタンの盟友中の盟友たる二人であり、人々の魂を滅ぼす主犯格の二人である。《高慢自我》はナアマンを攻撃し、次に《邪疑》が殴りつけた。自分の高慢な精神とよこしまな不信仰の精神(邪悪な疑いをいだくこと)がここにある。
 十戒は、その高慢を引き裂く。《邪疑》は、水などでは何の効き目もないとナアマンに言う。スポルジョンはこの《邪疑》翁を見破ろう、そして彼を処刑にすることを勧める。

 バニヤンの『聖戦』の後半のところで、邪疑翁が捕らえられ、処刑される。《邪疑》氏は、《世才》氏のもとで教えを受け、人間の教えを教えとしている。(マタイ15:9) 神の全能性、遍在性、全知、永遠性も疑っている。《邪疑》氏は、ただ人間の処世訓でしか生きていないのである。
 この邪疑、邪悪な疑いから、さまざまな悪が出てくるのである。《邪疑》翁の子どもは、《疑惑》《律法的生活》《不信仰》《キリストに対する謬見》《神の約束軽視》《肉欲》《感覚的生活》《利己心》たちである。
 
 スポルジョンは説教の最後の方で、利己心を取り除きたければ《克己》氏の助けを得るしかない。(これも『聖戦』にある話である)不信仰は出歩いている。それゆえ、キリストにすがりつくがいいと。
 私たちも邪悪な疑いを処分し、神の約束に堅く立ち、キリストにすがりつこう。
(大根おろし)

スポルジョンとバニヤン(6)

 1855/9/16 スポルジョンはエレミヤ5:10より、「胸壁への強襲」という題で説教している。(これもウェブサイト〈葡萄の実〉ほん訳ミニストリーによる)

 この説教の中で、スポルジョンは、回心者に対して、《人霊》という都市の最前面にあって周囲を睥睨している無頓着という壁を取り除くように勧める。
《人霊》という言葉は、バニヤンの『聖戦』からの引用かその影響かと思われる。バニヤン著作集W(高村新一訳、山本書店)には、『聖戦』の初版の挿絵がある。

 中央に、バニヤン自身が人霊をあらわすものとして描かれている。心臓が城、まわりに城壁がめぐらされていて、目門、耳門なども見える。右はインマヌエル(イエスさま)の軍勢、左側は竜の姿のダイヤボラス(悪魔)とその一党が見える。
 この『聖戦』では、人霊の町が、ダイヤボラスの攻撃によって占領される。次にシャダイ軍(イエスさまの軍隊、シャダイとは神を表わすヘブル語の一つ)が進撃して、占領。またダイヤボラスの反撃。インマヌエルの来援により最後はシャダイ軍が勝利するのである。

 まさに、バニヤンの心の中で、また人生の中での戦いがこの本に記されている。人間が神とサタンとの戦いの戦場となっている。しかし、最後は、インマヌエルによって神の軍が勝利するのである。
 スポルジョンは、バニヤンの作品をよく読んでいるので、この『聖戦』のことはよく知っていると思う。それで、説教の中にも、《人霊》という言葉を使ったものだと考えられる。
 本当に、私たちの心にある無頓着という壁が取り除かれ、主への熱心な思いが与えられるようにと願わされる。
(大根おろし)

スポルジョンとバニヤン(5)

 ウェブサイトで、スポルジョンの説教が読めることはありがたい。〈葡萄の実〉ほん訳ミニストリーでは、スポルジョンの説教がかなり翻訳されている。

 1855/8/26「律法と恵み」ローマ5:20がテキスト。この説教では、この世界に律法が入ってきて、人々に多くの事柄が罪であると告げることや、その一方、恵みも満ちあふれることが語られている。
 また、その中で、律法と福音の関係が、ジョン・バニヤンの「天路歴程」からの引用で説明されている。

 解説者の家で、キリスト者は、清められていない部屋で、男が掃除する姿を見る。これは『律法』をあらわす。『律法』は心を罪から清めないで、それを魂の中によみがえらせ、力づけ、増大させてしまう。
 次に乙女が来て、その部屋に水を打つ。この乙女は『福音』をあらわす。乙女が床に水をまいてほこりを清めたように、福音によって罪は克服され、魂はその信仰によって清められ、その結果、栄光の王がその中に住まわれるのにふさわしくされる。

 この説教の脚注に、池谷訳『天路歴程』新教出版社 P.72〜74とあったので、さっそく開いて見た。以前読んだ時、何も考えずに読みとばしたところが、スポルジョンの説教でよくわかった。まことに福音の力によって罪赦され、清められるのである。
(大根おろし)

スポルジョンと賛美歌

 スポルジョンの説教を読んでいて印象的なのは、数多くの賛美歌が引用されていることである。
 渡部謙一氏のウェブサイト「〈葡萄の実〉ほん訳ミニストリー」の中に次のような記事を見つけて納得した。その中に、「若き日のスポルジョン」という文章があり、次のように記されていた。

――祖父はアイザック・ウォッツ作詞の賛美歌をことのほか好んでいた。そこで、私に賛美歌を暗記させようとした祖母は、1つの賛美歌を一言も間違えないで暗唱できたら、そのたびに1ペニーくれる約束をしてくれた。・・・立て続けにいくつも暗唱して見せたため、祖母が破産をまぬかれるためには、一曲につき値段を半ペニーに切り下げ、ついで1ファージング〔1/4ペニー〕に切り下げざるを得なかった。・・・どのような主題で説教するときも、私は今なお、説教の途中でその主題にふさわしい賛美歌の歌詞をすぐに引用することができるのである。――

 賛美歌の暗唱も大切なのだなぁと教えられた。
(大根おろし)

少年説教家

 洗礼を受けたあと、牧師より少年説教家スポルジョンのことを聞いた。

 1851年5月3日16歳の時、スポルジョンは、イギリスのイズレハム村でバプテスト教会の牧師カントロウ氏より洗礼を受けた。
 ある日、スポルジョンは一人の青年と連れだって、タバーシャム村に行くことを依頼された。集会場に着いてみると、多くの人が集まっていたが、誰一人イエス様の事を話す者もない様子であった。スポルジョンは16歳に過ぎなかったが、決心してTペテロ2:7より説教した。

 このように16歳の若さで説教を始め、18歳の時(1852年) ウォータービーチのバプテスト教会の牧師として招かれる。次に、1853年8月、彼の19歳の時、ロンドンのニューパーク街教会で説教する。その3ヶ月後、その教会の牧師となる。
 多くの人々がその説教を聴いた。フロレンス・ナイチンゲール、アフリカ探検の宣教師リビングストン。またイギリスの宰相グラッドストーンもスポルジョンとの会談を求めて訪問した。(参考 森 渓川 著訳「大説教家スポルジョン」基督教文書伝道会)

 スポルジョンは少年説教家としてスタートし、死に至るまで、忠実に、十字架につけられた救い主イエス様を宣べ伝えた。
(大根おろし)

ミケランジェロ

 先回、「サヴォナローラ」について書いた。ミケランジェロ(1475-1564)がサヴォナローラの影響を受けていたことも書いた。
 クリスチャン新聞 2012年3月4日号には、「《天地創造》に込められた信仰」と題して、ミケランジェロについて書かれていた。システィーナ礼拝堂天井画完成500年記念コンサートで、ミケランジェロの作品の背景にある意図が紹介された。

 ミケランジェロは、ラファエロ一派の策略(彫刻家のミケランジェロに絵を描かせて失脚させようとした)でシスティーナ礼拝堂の天井画を描くように無理難題を課せられる。
 教皇の要望は『新約聖書から12使徒』を描くことだった。ところが、ミケランジェロは大理石の山カラッラに逃げ出す。その山で、啓示を受け、天地創造の物語を描くようになる。

 説教壇からフィレンツェの腐敗やメディチ家独裁を批判し、信仰に立ち返るよう訴えて火あぶりの刑に処せられたサヴォナローラに傾倒、彼の殉教を悼んで制作したのが、今サン・ピエトロ大聖堂にある《ピエタ》像。天井画の《ノアの大洪水》の場面には、沈みゆく教皇庁を象徴するワインや酒樽などを配し、救われる箱舟はサヴォナローラが説いた『新しい教会』を象徴させた。
 国を愛し、混乱した祖国の再生を祈る心を、天井画の《旧約聖書の預言者エレミヤ》として、自画像を描く。晩年は十字架のキリストを描き続けた。

 私は、このようなミケランジェロの作品の背景にあるその信仰や意図に触れ、ミケランジェロの絵をもう一度見直そうと思った。
(大根おろし)

サヴォナローラ

 ギルラモ・サヴォナローラ(1452-1498)はイタリアのフェラフに生まれる。ドミニコ会修道士としてフィレンツェ市の道徳的腐敗を厳しく批判し、その滅亡を警告した。(1490年)
 その後三年以上、市の支配者となり、神政政治を施行し、彼の理想とした、聖書が律法となるキリスト教国の実現を図る。 悪徳・賭博・低俗な娯楽などを廃止し、公徳心を高めようとするが、反動勢力により失墜。1497年、教皇アレクサンデルの説教禁止令に不服従などの科で破門、翌年火刑。

 フランス軍がイタリアに侵入し、フィレンツェの城壁に迫ったとき、恐怖におののく市民は早朝から大聖堂に集まる。サヴォナローラは、大洪水の物語の一節を引いて、「見よ、われ洪水を地の上に起こさん」(創世記6:17) という神の言について語る。
 会衆は恐るべき運命が自分たちの町を襲う、と説教者が予言するのを聞き、茫然自失、黙々として教会を去って行く。
 その会衆の中に、大芸術家ミケランジェロがいた。彼は、この説教の恐ろしさを終生忘れなかったと言う。後年の大作「最後の審判」には、この時の感銘が深くにじみこんでいたと言う。
 サヴォナローラは、ミケランジェロに影響を与えていたとは、驚きである。
(参考 丸山忠孝「キリスト教会 2000年」いのちのことば社、R.H.ベイントン「世界キリスト教史物語」教文館) 
(大根おろし)

フス

 少し前に、イングランドのジョン・ウィクリフについて書いた。ウィクリフは、聖書に基づいて人々を教え導くようにしたいと考えた。その人々が英語の聖書を持たなければならないので、ウィクリフは幾人かの学者を説いて、聖書を英訳することにした。

 ウィクリフは、教会を激しく批判したので、彼の運動はイングランドでは弾圧された。しかし、ボヘミアでは支持を受けた。ちょうどその頃、イングランド王がボヘミアの王女と結婚することになっていたからである。
 ウィクリフの考えを支持したのがヤン・フス(1374-1415) である。ボヘミアで、フスが当時の教会の指導者たちに抵抗したので、フスは異端の罪に問われ、コンスタンツ会議の審問にかけられた。彼はその教説を撤回しなかったため火あぶりの刑を受けた。
 その結果として、全ボヘミアに改革の火の手が上がった。ある絵には、幾人かのボヘミア人が、さかずきとガチョウとを彫刻した盾に守られて戦っている姿が描かれている。
 そのさかずきは聖餐杯、すなわち主の晩餐のさかずき、その現われは、ローマ教会では、聖餐にあずかる信徒にパンだけしか与えなかったのを、ボヘミア人は、パンだけでなくブドウ酒をも与えるようにと主張したからである。ガチョウはフスを示す。それはフス(hus)がガチョウという意味であったから。

 フスの死は、チェコ人の国民的感情をかき立て、彼らはボヘミアにフス派教会を設立した。フスは次の世紀、16世紀のルターの宗教改革の道備えとなった。(参考 R.H.ベイントン「世界キリスト教史物語」教文館) 
(大根おろし)

シリアル

 穀物を英語でシリアル(cereal,通例 cereals と複数形になっている) と言う。穀物を主とした朝食を「シリアル」と呼び、日本でもそのことばは定着してきた。ある本にその語源が記されていた。
 
 ギリシャ神話の中での地獄界の女王ペルセフォーネすなわちプロセルヒナの物語。この女神は、黄泉の国の神であるプルトーによって地上から盗み去られる。その母デメラルすなわちセレス(この名からセリアルすなわち穀物という英語ができた)は、穀物の女神。
 娘が自分のもとを離れている間、穀物を成長させない。女神はペルセフォーネを取り戻そうとするが、プルトーは彼女が地下にいる間に何も食べないならば地上に返そうと言う。しかし、彼女はざくろの種子を食べてしまった。
 そこでプルトーは妥協案を出し、一年中の六か月だけ彼女を地上に帰らせることにした。この六か月間は麦の時期にあたり(正確には暖かい時期、穀物が成長する時期)、彼女がプルトーのもとにある間は冬になる。(参考 R.H.ベイントン「世界キリスト教史物語」教文館)

 この本では「セリアル」となっているが「シリアル」と同じ意味である。「シリアル」が、ギリシャ神話から来ていることをはじめて知った。ギリシャ語の辞典を見ると、穀物はギリシャ語で「シイトス」とあった。
(大根おろし)

日本のハンス

 和歌山県の南部(みなべ)に升崎外彦牧師が労祷(ろうとう)学園という学校を作っていた。これは聖書を学ぶほかに、各自が自分で決めた主題によってそれぞれが研究研鑽する塾である。
 そこに知的障害児の山本忠一という少年が加わった。升崎牧師は、彼をかわいがり、忠ヤンと呼んでいた。升崎牧師から教えられて、忠ヤンはたった一つ「北の果てなる 氷の山」という賛美歌を覚え、これをかわいい声でいつも歌っていた。

 しかし、忠ヤンが加わったことによって、労祷学校が「アホ学校」名づけられ、ほかの青年たちはこれを問題にした。「忠ヤンが労祷学園に出入りしないようにしてほしい。忠ヤンが加わるのなら、自分たちは出て行きます。」と。
 升崎牧師も心を痛めたが、主の御言葉(マタイ9:12、18:12)を思い出し、一人の知的障害者を選ぶことにした。その結果、七人の青年たちはそこを去っていった。
 ところが、ある日のこと、忠ヤンは外出したまま夜になっても帰って来ない。八方手を尽くしても、その消息は全く分からない。それから数年後のこと、忠ヤンが機帆船に拾われて働いているということを、風の便りで知った。

 1939年のある日、ひとりの紳士が升崎牧師を尋ねて来た。その人は、忠ヤンの乗っていた機帆船の船長で、忠ヤンの最後を語った。
 船がしけのため動かず、ついに暗礁に船底をぶつけてしまった。破れた船底から水が流れ込んで来た。その時、船底から「親方、船を」と手を振りながら大声で叫んでいる者がいる。見ればそれがアホ忠だった。
 忠ヤンは船底の穴に自分の太股をグッと突っ込み、必死にもがきながら、「船を、早く早く陸に上げよ」と叫んでいた。船員たちは、船を進め、陸に近づけ、九死に一生を得たが、忠ヤンはかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量で上陸するまでに息を引き取った。それで船長は忠ヤンの形見ですと、船の舵輪(だりん)を差し出した。

 升崎牧師は、労祷学園で、いつもオランダの堤防の決壊を救ったハンス少年のことを、青年たちに教えていた。それを聞いていた忠ヤンは、よく「おれはハンス、おれはハンスだ」と口ぐせのように言っていた。それを彼は今、そのとおりやってのけたのである。
 人からは「アホ忠、アホ忠」と呼ばれ、自分もまたこのアホ忠が本名だと思い込んでいた。水が噴き込んでくる船腹の穴に、自分の肉体の一部を詰め込み、同僚と船とを救ったのである。
 今も、労祷学園の兄弟荘の屋根高く、山本忠一を記念して、彼が乗っていた機帆船幸十丸の舵輪が飾られている。
(参考 尾山令仁著「憎しみを愛に」イーブックス)
(大根おろし)

カーネーション

 カーネーションは美しい花である。carnation を小学館ランダムハウス英和大辞典で調べてみると、
1、カーネーション;種々の色のにおいの良い花をつける。
2、淡紅色(pink,light red);深紅色(deep red)
3、《廃》肉の色(color of flesh)とあった。

 現在は廃語となっているが、カーネーション(carnation)という言葉には肉の色という意味があったことを知った。新鮮な驚きがあった。
 carnal という語は、物質的な、肉体の、肉欲的な、という意味がある。また、受肉を表わす言葉はインカーネーション(incarnation) である。その辞典では肉体化したもの、人間の姿をとること、神が人間の姿で現れることを意味するとあった。
 今回カーネーションの花から、主の受肉に思い至った。

"キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、"(ピリピ2:6-7 新改訳第3版) 
(大根おろし)

ルターとボーリング

 ボーリング(bowling) は、三角形に並んでいる木製のピン(標的)を倒すゲームである。
 Web の Wikipedia には、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが、それまでいろいろな形のボーリングがあったのを、倒すピンを9本にし、並び方もひし形に統一したと記されていた。ルターが近代ボーリング(Wikipedia には「ボオリング」と表記されていたが)の原型をつくったことになる。そうなのかと、びっくりした。

 さらに、17世紀に、清教徒たち(ピューリタン、プロテスタントの中でも、宗教改革の原則をまじめに守ろうとした人々)がアメリカに移住し、アメリカでも盛んになる。やがて、アメリカでは、ピンの数を10本に増やし、並べ方も正三角形に変化していった。これが現代のボーリングとなる。
 ボーリングをしているルターを思い浮かべてほほえましい気持ちがした。
(大根おろし)

ジョン・ウィクリフ

 聖書翻訳の国際的団体にウィクリフという団体がある。各国語、各部族語に聖書を翻訳している団体である。
 ウィクリフというと中世の改革者ジョン・ウィクリフ(1320か1329〜1384年) を思い出す。

 彼はイギリス北部の出身で、オックスフォード大学の第一流の哲学者となった。彼はカトリック教会の化体説に反対した。彼は、キリストは霊的にパンとブドウ酒の中に存在する、と主張した。
 また、教会は神の選民から成っているので、彼らのために神にとりなす祭司を必要としないと考えていた。改革者ウィクリフは、高い地位にある友人たちから見捨てられ、1377年、ローマ教会よりその見解は非とされた。
 教会当局は彼をオックスフォードから追い出した。ウィクリフは、ラテン語聖書ウルガタを英語に翻訳した。ウィクリフの考えを支持する人々は、司祭の主要な務めは説教であり、聖書はすべての人にとって自国語で読めるものでなければならないと信じていた。
 14世紀のウィクリフは16世紀の宗教改革の先駆者であった。(参考「カラーキリスト教の歴史」いのちのことば社)
(大根おろし)