希望の虹
| ◆人生の希望 | ◆いつまでも残るもの | ◆すばらしい喜びのニュース |
| ◆新しく生まれる | ◆恵みの花束 | ◆いのちの泉 |
人生の希望 生島幹也
希望をもって生きたいと、だれもが思うのですが、さまざまな出来事によって失望してしまうことがあります。
ヘレン・ケラーは、目が見えず、耳が聞こえず、話すことのできない三重苦を身に負っていました。
彼女は、「わたしは絶望のどん底に陥り、暗やみがすべてをおおう時代があった。」と言っています。そんな彼女がどうして人生に希望を見出したのでしょうか。
それは、愛に触れたからです。キリストの愛に満たされたサリバン女史の教育によって、ヘレン・ケラーは愛を知ったのです。
三重苦を背負いながら、ハーバード大学を卒業し、世界中を講演して回り、人生に希望があることを訴えたのです。
ある人が、彼女に、「あなたは愛を知っていますか?」と質問をしました。
ヘレン・ケラーは、「サリバン先生が最初に私の家に来た時、私を抱きしめてくれました。その時、私の顔に暖かい水(涙)が落ちてきました。私はそれが愛だと思います。」と答えました。
愛、それは、人を生かす力です。人生の希望です。神は愛です。神は私たちを愛し、全人類の身代わりにキリストを十字架につけて、私たちの罪を赦してくださったのです。この愛に触れるとき、人は生かされます。あなたも、この愛をお知りになりませんか。
聖書のことば、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書ヨハネの福音書3章16節)
(タカツキ・チャペル・ニュースNO.1より )
いつまでも残るもの 生島幹也
トルストイの書いたロシア民話集の中におもしろい話があります。
自分のほしい土地を日の出から日の入りまでに自分で歩いて囲い取るなら、だれでも無料で手に入れられるという耳よりの話がありました。
ひとりの農夫が日の出とともにくわをかついで出発しました。欲ばりな彼は、弁当もろくろく食べず、一日中駆け通しました。日が傾きかけてもあきらめずに、全速力で走り、とうとう出発点にもどってきました。ところが、彼はその場でばったり倒れ、二度と口をききませんでした。人々は彼のために穴を掘ってその死がいを穴の中にほうり込んだのです。
今、皆さんは、わきめもふらずに努力しておられるかもしれません。地位のため、家族のため、お金のため、名誉のために。しかし、死は、すべてこれらのものを、あなたから奪い去ってしまうのです。では、どうしたらいいでしょうか?
イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。イエス・キリストを信じる信仰によって、いつまでも残るものをしっかりと握ることができるのです。いつまでも残る愛と希望をキリストはあなたに与えてくださるのです。
聖書のことば、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」新約聖書コリント人への手紙第一13章13節)
( タカツキ・チャペル・ニュースNO.2より)
すばらしい喜びのニュース 生島幹也
クリスマス・・それは全世界のすべての人に与えられたすばらしい喜びのニュースです。クリスマス・・それは神の愛のメッセージです。まことの神のもとに帰りなさいという神の招きなのです。神がひとり子イエス・キリストをこの世に救い主として送ってくださった日なのです。
三浦綾子さんは「塩狩峠」という小説を書きました。これは明治42年2月28日、北海道塩狩峠において列車が転覆しようとした時、自分の命を捨てて乗客を救った長野政雄というクリスチャン青年をモデルとしたものです。
塩狩峠を登ろうとしていた列車の連結がはずれ、車両が坂の途中から後ずさりし始めました。この列車転覆を止めるために、長野青年は暴走する列車に自分の身を投げ出したのです。列車は止まり、乗客たちは無事でした。旭川には、その日婚約するはずだった恋人が待っていたのでした。
この青年をそのようにさせた動機は何だったのでしょうか?
それは、「このままなら、みんな死んでしまう、なんとかしなければ」という純粋な動機でした。
神様も、ひとり子イエス・キリストをお与えになったのも、神から離れ滅びに向かって走っている人間を見て、「何とかしなければ」と思われたからです。神は愛です。このクリスマスの時に、神の愛のプレゼントである、イエス・キリストを心に信じ受け入れましょう。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(新約聖書ヨハネの福音書3章16節)
(タカツキ・チャペル・ニュースNO.7より)
新しく生まれる 生島幹也
「ベン・ハー」という小説を書いたリュー・ウォレスの話です。
アメリカの南北戦争の時、彼は将軍でした。リュー・ウォレスはキリスト教は神話だと思い、キリスト教を永遠になくすための本を書こうと思いました。
彼は、中東、ヨーロッパ各地の図書館や博物館などを回りながら多くの資料を集め、イエス・キリストの物語や聖書の話がウソであることを証明する本を書き始めました。
第二章の第一ページを書いていたとき、否定できない事実の前で、彼はひざまづきました。彼は涙を流しながら、イエス・キリストに「あなたはわが主、わが神です。」と叫びました。彼はその事件の後、あの有名な歴史小説「ベン・ハー」を書いたのです。
イエス・キリストは、「人は新しく生まれなければ、神を見ることはできません。」
(ヨハネの福音書3:3) と言われました。イエス・キリストを信じる時、人は新しく生まれ変わることができるのです。
(タカツキ・チャペル・ニュースNO.11より)
恵みの花束 生島幹也
明 日
はきだめに えんど豆咲き
泥沼から 蓮の花育つ
人皆に 美しい種あり
明日何が咲くか
この詩は安積得也さんの詩です。汚れきったところから、まったく望みのないところから美しいものが育ってくるのです。聖書の中に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ、すべてが新しくなりました。」(Uコリント5:17) という言葉があります。
イエス・キリストを心に受け入れる時、その人は新しく生まれることができるのです。 三浦綾子さんは、青年時代から亡くなられるまで、肺結核、脊椎カリエス、帯状疱疹、ガンと次々に病気をされました。しかし、そのつど、平安を与えられました。その中で多くの小説やエッセイを書き、多くの人の励ましとなり、希望となってこられました。
このような三浦さんだから、次に掲げる河野進さんの詩を、「なんとすばらしい信仰詩であろう。ここでは苦難が見事に恵みの花束に変じている。」と感動をもって紹介しておられます。その詩を紹介します。
痛まなければささげ得ない祈りがある
痛まなければ信じ得ない奇跡がある
痛まなければ聞き得ない御言がある
痛まなければ近づき得ない聖所がある
痛まなければ仰ぎ得ない聖顔がある
おお痛まなければ私は人間でさえもあり得ない
キリストを信じる者に、神はまことの平安を与え、苦しみを恵みの花束に変えてくださるのです。
(タカツキ・チャペル・ニュースNO.12より)
@ 忠告 生島幹也
「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。」(箴言13:14)
箴言は、忠告を聞き入れる(12:15)ようにと教えています。人から忠告されると、あまりいい気持ちはしません。しかし、忠告を聞き入れる者こそ、知恵のある者です。
「あざける者はしかってくれる者を愛さない。」(15:12)
本当に、しかってくれる人こそ、ほんとうに心配してくれる人です。
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」(27:5)
私がまちがったことをしていて気づかないとき、陰でコソコソ言う人より、あからさまに忠告してくれる人の方がどれだけ良いかわかりません。
忠告を、すなおに受け入れられる心にしてくださいと、日々主に祈り求めましょう。それとともに、自分がほかの人に忠告するときは、「柔和な心」で忠告しましょう!(ガラテヤ6:1)
いくら正しいことを忠告しても、愛がないなら、何にもなりません。
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」(コロサイ4:6)
「柔らかな舌は骨を砕く。」(箴言25:15)
A 計画
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)
箴言は、計画をたてること、密議をこらすこと、助言を受けることをすすめています。(15:22) 無計画でいきあたりばったりの行動を戒めています。また「相談して計画を整え」(20:18)とも教えています。
しかし、私たちの立てた計画も、どんなによく相談した計画であっても、そのことを主の御手にゆだねることが必要です。そして、計画をたてるときの動機も大切です。主の栄光のためか? それとも、ただ自分を満足させるためか?「悪人の計画は主に忌みきらわれる。」(15:26)
パウロは、コリント教会へ行く計画を立てました。その計画どおりにはいきませんでしたが、パウロは、その計画は人間的な計画ではないと主張しています。(Uコリント1:15-17)
また献金も、気分や感情によってではなく、計画的に献げるようにすすめています。(Tコリント16:2)
私たちも、神の栄光のために、計画性のある生き方をしましょう! しかも、その計画をいつも主にゆだねて。
B バランスのとれた生活
「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。」(箴言25:16)
箴言の中には、私たちが、バランスのとれた生活をするように、教えているところがあります。私たちは極端になりやすい危険性をもっています。蜜がどんなにいいものであっても、それを食べすぎると吐き出すこともあります。適度に食べることが大切です。
隣人の家の人が、ぜひ遊びにきてくださいと歓迎してくださっているとしましょう。しかし、毎日のようにそこに通っていたら、最初は歓迎してくださった人も、憎むようになるかも知れません。(25:17)
歌うことは良いことです。しかし、心配している人の前で、自分だけ楽しそうに歌うのは、はたして良いことでしょうか?(25:20)
バランスのとれた生活を送る秘訣は、聖霊に満たされることです。気のついた罪、神様から示された罪を悔い改め、「聖霊に満たされよ」との主の約束を信じ、聖霊に満たされましょう。
聖霊こそ、キリストの霊であり、バランスのとれたお方です。力と愛と慎みとの霊です。(Uテモテ1:7)
C 若者の教育
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)
箴言には、教育ということがくり返し強調されています。ただの知的教育だけでなく、なによりも、神を恐れる宗教教育です。「主を恐れることは知識の初めである。」(1:7)
最近、礼拝に、高校生の方々が集われるようになったことは感謝なことです。私はどちらかと言えば暗い高校生でした。担任の先生から、「きみは何年浪人してこの学校に入ってきたのか?」い言われるほど、年よりも老けて見えたようです。生きることに悲観的でした。しかし、イエス・キリストと出会い、このまことの知恵であるイエス・キリストを信じたときに、私は喜びの生活に変えられました。
5年前に、埼玉県のある教会で、高校生クラスを担当していました。そのとき、ひとりの高校生が救われました。どうして教会に行くようになったのかと聞くと、友人が、教会の高校生クラスにおもしろい先生がいると、誘ってくれたからと言うのです。暗い、悲観的だった私に、イエス・キリストが喜びを与えてくださり、こんな者でも用いてくださっていることを感謝しました。
そして、高校生や、中学生や、青年の方々が一人でも多く、イエス・キリストにある喜びにあずかってほしいと、十字架の福音を宣べ伝えています。
D 母を喜ばせ
5月第2日曜日は母の日です。箴言の中には、両親を敬うようにと教えられています。「あなたの年老いた母をさげすんではならない。」(箴言23:22)
自分の親が年老いたからと言ってさげすんではなりません。話がくどい、同じことを何度も言うといって批判的になってはいけません。そうではなく、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」と命じられています。(箴言23:25) この命令は、子どもにとっても幸いな結果に導くのです。
新約聖書には、「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」とあります。(エペソ6:2-3)
父と母を敬う人が、必ずしもすべて地上で長生きするとは限りませんが、父と母を敬う人は、神からの祝福を豊かに受けるのです。その秘訣は、主にあって両親に従うことです。(エペソ6:1) まず、心を主に向け、主に従順になるとき、主にあって従うことができるのです。
「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。」(箴言23:26)
(高槻一麦教会 週報159〜163より)