私の体験

四番目の孫 長谷川一子
プチハワイ 長谷川一子
美作のつるちゃん 長谷川一子
病重ね(やまいがさね) 長谷川一子
私の信仰について 藤原 精久
金婚式 長谷川一子
夢ありがとう 長谷川一子
ねえちゃん 長谷川一子
心筋焼灼 長谷川一子
でんきショック 長谷川一子
齢(よわい) 長谷川一子
フィットネス 長谷川一子
キンカン 長谷川一子
おおきに 長谷川一子
サタン 長谷川一子
老々相互介護 長谷川一子
三浦綾子さんに学ぶ 長谷川  弘
入院 長谷川一子
たび 長谷川一子
悲痛の祈り 長谷川一子
苦悩 長谷川一子
きっと神様のご計画 長谷川  弘
背中を押して頂き、受洗の喜び 長谷川  弘
主は生命を 堀江 幸子
家庭集会に導かれて 田中 美つぎ
主を信じて 小野山 文英
夫婦で主を信じて 小野山きみよ
すべての事を益として下さる主 林 三千枝
父の条件 吉岡 鋭明
依存症から解放されて 喜多 延子
生きることはキリスト 生島 幹也

四番目の孫

                              長谷川一子

娘の家族に四番目の孫がいる
可愛いビーグル犬のミルキー
幼いころ老人ホームのセラピー・ドッグ
振る舞いがちょっとアンポンタンで
ホームから断られる
だけど陽気でたまらなく可愛い
八歳になる今も独身
子供を産んで母親の喜びを
味わいたかったやろ

ミルキーはベジタリアン
きゅうり、トマト、焼き芋、納豆が好き
時おり生肉、じゃこをたべる
くつろぎ、わたしのひざ枕で高いびき
わたしも癒される
ミルキーがわたしに忠実であるように
私も神様に忠実でありますように

 
「主は、あなたのすべての咎を赦し、
  あなたのすべての病をいやし」 詩篇 103:3

                             (2012. 4. 3)



プチハワイ

                              長谷川一子

癒してくれる癒しの地、
プチ・ハワイと私は呼ぶ。
車窓から青々と茂る木、
たわわに黄金色のオレンジが実る。
宿の外はオーシャンビュー。
道の駅では見慣れない
ドラゴン、スターフルーツ、
魚、野菜の山、楽しいひと時だ。

 
「わたしはあらゆるときに、主を褒めたたえる。
  私の口にはいつも主への賛美がある。」詩篇 34:1

                             (2012. 2. 21)



美作(みまさか)のつるちゃん

                              長谷川一子

中国山地のふもと、美作の里。
親友赤松つる子さんが住む。
わたしはつるちゃんと呼ぶ。
二つ年上のつるちゃんは、
空襲に追われ、美作に疎開した私を受け入れ、
妹のように可愛がってくれた。
嵐の日、梶並川に沿う山道を、
手を引き学校へ連れてくれたこと忘れない。

ここ数年、病気を背負って私はご無沙汰。
つるちゃんはよく気にかけてくれる。
春はたけのこ、秋は栗、歳の暮れには餅、
岡山こしひかり、野菜が届く。
「猪、鹿が畑に来てなあ、でぇれ〜え、まあ〜
 なんきん、いも食われ送れんかったわ。
 今年も米は一等米だったんじゃ」
つるちゃんの弾む美作弁が受話器から聞こえる。

 「わが魂よ、主を褒めたたえよ、主の良くしてくださった
  ことを何一つ忘れるな」 詩篇 103:2


病重ね(やまいがさね)

                              長谷川一子

次から次へと打ち寄せる津波のように。
わたしのからだの中を病が襲う。
脳梗塞、悪性不整脈、ぎっくり腰、
骨粗鬆症、リュウマチが
からだを蝕む。

助けて〜、家の中を這いまわる。
若き日の元気な自分を思うと、
なんでわたしに病を貰うのか
まさに病重ねです。

「わたしは主に向かい、声を上げて叫びます。
 声をあげ、主にあわれみを請います。」詩篇142:1
            


              (2012.1.30)

私の信仰について                  藤原 精久

  私は、尼崎市で昭和17年(1942)に生まれて、69歳になります。22歳の頃、尼崎から転居して両親と4人兄弟の6人家族で今の家に住むようになりました。
 又、イエス・キリストを信じてから約40年を経過しましたが、どこから証しをすればよいのか、わかりませんが、やはり、イエス・キリストに従って行く事を、決心したことについて、お話したいと思います。
 
 私と家内はS44年に結婚しました。 私が27歳のとき、京都市内の工場に勤めていました。その当時、上司の親戚で岡山に住んでいた家内と結婚して、今の 京都府乙訓にあった長岡京市と向日市の社宅に約5年間住みました。
 この京都の5年間に、主・イエス様の祝福により、2人の息子が与えられ、また4人家族になることが出来ました。一番の祝福は私がクリスチャンになることが出来たことです。
 クリスチャンとなって、母と弟と同居するため、高槻の自宅に戻ってきました。(現在は真ん前が一麦教会です)そして37年が経過しました。

私がクリスチャンになった動機について。

 1970年代のアメリカは、ニクソン大統領で、経済と軍事大国であり、なんでも世界1位の超大国として君臨していました。しかしベトナム戦争や多くの問題もありました。
 アメリカで流行することは、やがて日本でも流行することが多くありましたので、アメリカを見ていると日本の将来が見えていくような気がしていました。
 アメリカを自分のこの眼で見てみたいと考えるようになりました。そのためには英会語を学ぶ必要があり、テレビの英会話を勉強しました。しかし、英会話は独学ではなかなか上達は出来ません。

 その当時は、会社の電気保安関係の仕事で3交代勤務をしていましたので、平日の昼間も時間がありました。社宅の近くを外人家族が歩いているのを時々見かけるようになり、英会話を習うには、アメリカ人に習うのが早道と考えていました。
  社宅の周りを散歩しているとき、外人の家の玄関に「英会話教えます。」と言う看板を見つけました。
 ある日、勇気を出して、門をたたきました。すると見たことのある外人が出てきました。私は、アメリカに旅行したいので英会話を習いたい、「謝礼はいくら?」と聞くと、「無料です。」と言うのです。聖書を通じて英会話を学ぶということでした。[英語バイブルクラス]と呼ばれていました。
 無料で、アメリカ人から直接英語を習う事ができれば聖書でも、何でもいいと考えました。数日後の夜に数人と一緒にはじまりました。そのときキリスト教の聖書らしき本を英語ではじめて読みました。

 それは、JOHN Chapter 2 The Wedding in Cana( ヨハネの福音書2章1-12 )カナの婚礼でした。この聖書の内容は、母マリアとイエスが親戚の婚礼に招かれて、宴会中にぶどう酒がなくなったとき、イエスが石の水がめの水をぶどう酒に変えられて、 11節「イエスはこのことを最初のしるしとして、ガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。そこで弟子たちはイエスを信じた。」と言うところでした。
"11 Jesus performed(現す) this first miracle(奇跡) in Cana in Galilee ;there he revealed(現された) his glory,and his disciples believed in him."
 
 そのときのキリスト教の印象は、「水がぶどう酒に変わる奇跡」について、日本の神話と同じような程度である、宗教とは、こんなものか、と思いました。
 しかし私としては、聖書の内容はどうでもよかった。英会話が上達すれば良いのであって、聖書のみことばは単なる英会話の一つの道具でしかありませんでした。とても信じる気持には、なれませんでした。

  聖書を英語で学んでいる内に、メイホース宣教師が日本語で熱心にイエス・キリストについて伝道してくれましたので、キリスト教の本質は何かという興味が出てきました。
 長男が生まれて3ヶ月ぐらいのとき、宣教師に誘われて、初めてキリスト教会の礼拝に行きました。そのときのメッセージの内容はまったく覚えていませんが、信徒のみなさんが、熱心にイエス・キリストにお祈りをしている姿が印象的でした。
 神が近くに本当におられるように感じました。キリスト教に興味を覚えました。 もっとキリスト教を知りたいと思うようになり、英会話を通じて、また礼拝に出て学ぼうと思いました。

 求道者として、初級キリスト教入門クラスの通信教育を受けました。しかし、信じられるようで信じられない、いらいらした時間が長らく続きました。
 それから、教団の聖会が京都にあり、そこで古山洋祐(ようすけ)師のメッセージを聞き、今までのもやもやがすっきり取り払われて、これからの人生は、イエス・キリストを主とした第二の人生を歩むことに決心しました。
 そのときの喜びを今でも覚えています。空が青くきれいに見えてきました。そしてまた、まわりの景色も明るくスッキリしているように思いました。この自然を創られた主に感謝しました。
 
 それから、バプテスト教理問答書を学び、1972年10月京都八幡市の淀川でバプテスマを受けクリスチャンになることが出来ました。
 その2週間後に、次男が生まれました。わたしの信仰生活は、長男が生まれてから、はじめて礼拝に行き、次男が生まれる前に洗礼を受けることが出来ましたので、子供と共に成長してきたと思っています。
 神戸に住んでいる長男に、How old are you.?とたずねると Forty years old. と答えます。私の心の中では「初めて日曜礼拝に行ってから40年になる」とイエス・キリストに感謝しています。
 淡路島に住んでいる次男に、いくつになったのか聞くと39歳と答えます。すると私は心のなかで「信仰暦39年」と答えます。

 私の39年の信仰生活のなかで一番大切にしていることは、「日曜礼拝を守ること。」であると考えています。
 イエス・キリストに守られていますが39年間に多くの試練もありました。多くの病気もしました。リストラも体験しました。信仰が弱ることもありますが、礼拝に参加していれば、宇宙を創造された神さまが愛と恵みの中で助けて下さると信じています。
 なぜなら、イエス・キリストが一番喜ばれることは、私たちが、礼拝に来て、神を賛美しお祈りして、神のみことばを心に受け入れること、また献金をして神に奉仕すること。
 また、兄弟姉妹と交わり、健康を確かめる事が出来るからです。ひとりでいくら聖書を学びお祈りしても、神はお喜びになりません。
 長い間、イエス・キリストによって信仰生活が支えられていることに感謝しています。私が大切にしている聖句、
『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒の働き16:31)
                    (2011年12月)


金婚式

                              長谷川一子

半世紀、生かされる喜び、この弱き者に。
神様からの贈り物、やっと結婚50年。
家族に祝福され、「金婚式」を迎えられ、
やっぱり長かった。
嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、
いっぱいあった。
こんな人生振り返ってみると、並みの愚か者。
何時になるか分からないけど、人生最高の
ゴールを飾りたい。


夢ありがとう

                              長谷川一子

天国にちかい南の島。
ブーゲンビリア、咲き乱れ、
海には赤、青、黄いろの魚さん。
どこから来たのかなあ。
きっと、竜宮城から来たんだよ。
魚さん、わたしも連れて行ってよ。
ご馳走いただき乙姫さんと舞い踊る。
脳梗塞、心臓の苦しみも溶ける。
楽しい夢ありがとう。


ねえちゃん

                              長谷川一子

ねえちゃん、大好きやったわ。
ねえちゃん、幼い時に満州へお嫁に行った。
ねえちゃん、毛皮のブーツ送ってくれた。
ねえちゃん、男装し子供を背負って帰ってきた。
ねえちゃん、再会でき嬉しかったなあ。
ねえちゃん、お父さんの代わりしてくれたなあ。

ねえちゃん、長い長い半世紀やったなあ。
ねえちゃん、がんを発病したねえ。
ねえちゃん、病室に入ったらびっくりした。
ねえちゃん、ふっくらしてたのに。
ねえちゃん、痩せこけ苦しがってた。
ねえちゃん、逝ってしまった。

ねえちゃん、あれから三年余。
ねえちゃん、わたしは重い心臓病。
ねえちゃん、いまどうしてますか。
ねえちゃん、仏教、わたしはクリスチャン。
ねえちゃん、天国で会えるかなあ。
ねえちゃん、わからない神様に委ねるわ。


心筋焼灼(しんきんしょうしゃく

                              長谷川一子

さあ始めましょう!
手術台にのせられて、
細動を止めますよ、
ドカーンと岩を砕く
ダイナマイトのように。
電気ショック。

カテーテルを鎖骨と太ももの動脈に、
なかなか入らない、早くいれてよ、痛い痛い。
この針金のようなものが、
生きてる私の心臓まで届くのだ、怖い怖い。

さあやりますよ、先生の声がうつろに聞こえる。
心筋焼灼にとりかかる、何か数字を読んでいる。
60度の高周波が熱い。
体中が燃えたように苦しい。
焼け死ぬとはこういうものか。

焼き過ぎると穴があく、生焼けなら効果なし、
程よく焼いてミディアムか? 先生の腕をご信頼。
5時間近く焼灼の苦しみに耐えられたのは、
イエス様の十字架の苦しみを思うと、
私の焼灼は万分の一もないだろう。

背後の祈りに感謝し、平安を頂くと痛みも少しは楽だ。
終わりましたと聞き、胸にそっと手をやる。
長年苦しんだ動悸は消えていた。
神様、ハレルヤ、感謝、アーメン。


でんきショック

                              長谷川一子

病はもうさよならかと思ってたのに、
またもや猛暑の中
悪性不整脈とやらがやって来た。
意識なく生死の境さまよう私の心臓に、 
電気ショックを一撃お見舞いされた。
息をふき返し、またもや助けられ感謝。
神様はまだこの世に用があると、
仰ってるんだろう。
 

      (高槻赤十字病院HCU病室にて)

齢 (よわい)

                             長谷川一子

もう十分生かされた。
母の齢も何とか超えられた。
ありがとう。
72年ふと振りかえると、
いっぱい人を傷つけ
うわべだけの道を歩み、
三度も死のトンネルをくぐり抜け
あとはおまけの人生か、残りは
神様に褒めてもらわなくちゃ。

フィットネス

               長谷川一子

フィットネスクラブに通っているの。
素敵、かっこいいねと。
障害をもつわたしを受け入れて
貰うのは有り難い。
人様と同じように出来ることは
何もない。
苦しい、苦しいと心で叫びながら、
まねごとをする。
少し気分が良いね、頑張るぞ
いやな顔をせず、連れてくれる夫。
なんだか、天使にみえる、不思議だなあ。 
 

キンカン

                長谷川一子

夢のなか、はせがわファームにたくさんの実がなる
夢覚めて、我が家の小さな小さな庭にキンカンの
実が早く食べてと呼んでいる。
トマト、きゅうりもまっている。
もう少し熟れてからよと、楽しみだ。
ヒヨドリ、すずめの鳥たちも
先を争いねらってる。

おおきに

                長谷川一子

おおきに。わたしは大阪人。
「おおきに」という言葉が好きだ。
こわい顔をした宅配のおっちゃんが
配達にきた。
「暑い中ご苦労さん気を付けてね、
 おおきに」と言う
こわい顔が一変してにっこりと
笑ってくれた。

サタン

                               長谷川一子

来た! 来た!
あのおぞましいサタン梅雨にもやって来た
ひとの目には元気に見られ
脳こうそくの後遺症
全身に襲いかかる
料理をするのはとてもつらい
味覚オンチ負けてなるものか
サタンよ出ていけ!
神様ヘルプ! ヘルプ!


老々相互介護                                    

                         長谷川一子

わたし、脳梗塞発症二年、七十一歳。
夫、ひざ骨折、全治三
月、七十四歳。
夫の怪我で必要せまるわたし。
小さなリックに山盛り詰めてスーパーを出る。
右手に杖を、まるで幼子のように。
一歩また一歩と家路を急ぐ。
これもまたリハビリか、この歳にどうして
老々相互介護なの?
帰り道、苦しみ、わたしの大切な
心の中はサタンが掻き乱す。
大丈夫!神さまに委ねれば。

 

三浦綾子さんに学ぶ          長谷川 弘

 私は3年前洗礼を受け、クリスチャンになりました。聖書は青年時代に少し読みましたが、すっかり忘れていました。受洗後、6カ月をかけ、聖書を読みましたが、見られない聖句に難解な言葉、また意味もわからず、ただ活字上を通過という有様でした。
 そんな時、教会の書棚に三浦綾子著「旧約聖書入門」が目にとまり、読んでいくうちに、少しづつ理解ができました。その後、市立図書館へ出向き、2年余をかけ、三浦綾子の著書、小説、エッセイ、日記など約80冊を読みました。(三浦綾子は著名人。でも、同じキリスト者、尊敬と親しみを込めて以後、三浦さんと呼ばせて貰おう)

 先ず、あの有名な「氷点」が小説家としてのスタートです。氷点が人間の持って生まれた罪。「原罪」をテーマに、その後の作品も人間の罪を問い続けていることが伺えます。
 今を去る、48年前(1963)朝日新聞が大阪本社創立85年・東京本社75周年記念として、当時、破格の懸賞金1千万円を出し、新聞小説を募集した。731編の応募があり、選考の末、北海道旭川で雑貨店を営む主婦、三浦綾子氏が1等入選したと報じた。
 三浦さんは突如現れた小説家なのか?いや、そうとは思われません。家族は両親、兄弟10人、さらに叔母と大家族でした。本を買う余裕がなく、近所の友人から、また、姉が借りてきた本を家に机は一つなので、いつも柱にもたれたり、部屋の隅で読んでいた。でも、読書力は凄かったと回想しています。
 彼女は11歳で初めて「ホトトギスの鳴く頃」を書き、女学校時代には「井伊大老について」を発表、旭川で評判になったという。61年主婦の友社の募集に「太陽は再び没せず」が入選している。彼女の小説家への「マグマ」は徐々に蓄えられていくのである。
 1964年7月朝日新聞東京本社で行われた「氷点」の授賞式で、三浦さんは、なんと心の優しい、人を思いやるクリスチャンとして、こんな挨拶をした。
「私を褒めないでください。私に理解ある周囲の人を褒めて下さい。その背後にある神を讃めて下さい」と。

「氷点」の始まりは、こんなことから始まりました。1963年元旦の午後、7男秀夫さんが、「姉ちゃん、1千万円の懸賞小説を募集しているよ」と元旦付の朝日新聞を持って訪れた。初めは書くつもりはなかった。夜、寝床に入ると、懸賞小説のことを考え始め、一夜のうちにストーリーが出来上がったという。その年の大晦日、締切ぎりぎり千枚の原稿を郵送した。「氷点」の主人公「陽子」は妹で7歳の時に亡くなった洋子さんからとったという。
 選考委員の中に、朝日新聞東京本社学芸部門馬義久というデスクがいた。門馬さんは特異な人物で、神学校を出たクリスチャン。当時、鎌倉山教会(神奈川県)で牧師として奉仕もされていた。門馬さんは最終選考に旭川の三浦さん宅を訪れ、面接調査の結果、三浦さんが書いた作品に間違いないと報告し、一位入選が決まった。
 三浦さんは「氷点を旅する」の中で、こんなことを述べている。「弟秀夫の提案も神が備えられたと思わずにはいられないし、選考委員のなかに門馬氏がおられたことは単なる偶然とは考えられない。人間の思いをはるかに超えた神のご計画としか思えない」
 また、門馬さんはアダムとイヴの楽園追放の話は誰でも知っているので、「氷点」は問題ないと判断していた。もし、選考委員の門馬さんが護教文学の思想に反する考えを持っている人ならば「原罪ですか、旧約聖書の思想ですな」と、落選していたと思う。(護教文学=護教学、キリスト教の基礎を理性に基づいて説明する文学)
 三浦さんは「氷点」について、たった一人でもいい。この小説を読んでもらえるなら。そして人間が誰でも持っている罪の意味を理解してもらえるなら・・・という気持ちで私は「氷点」を書いた。いわば、この小説はわたしの信仰の証しである。
 三浦さんの多くの作品には人間が日々犯している罪を問うている。「原罪」のことである。原罪とは「広辞苑」を開けてみると「旧約聖書創世記にある最初の人、アダムが神命に叛いて犯した人類最初の罪。人間みなアダムの子孫、として生まれながらに原罪を負うものと考えられた」と、その罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い、助けなしには克服しえない罪といえる。
 さて、我々の生きている現代ではどうか。三浦さんは「風いずこ」でこんなふうに述べています。誰もが罪を持っている。なぜならば、神に背を向けて生きているあり方を原罪と申します。人を殺したとか、物を盗んだとか、放火したとかもむろん罪ですが、神にまったく背を向けている生き方は、その罪の根本とでもと言えましょう。繰り返し申します。この原罪を背負って人間は生まれてきました。それは、社会的な地位とか性格の良さ、悪さに関係ないのです。「あんな良い人はいない」誰もが言う人であっても、その人には原罪があるのです。この原罪の故に世の悲劇は絶えません。

 ここに注目する三浦さんの「雪のアルバム」と題する手紙形式の小説がある。1985年ナース専門誌に連載された。手紙の主人公浜野清美という若い女性が牧師に宛てた信仰告白である。洗礼を受けるに際し、いかに自分がキリストに救われるか、告白するのである。
 私はそんな堅固な信仰を持っていない。ただ妻と同じ道を歩み、神を求め受洗したのである。人がキリストに出会う機会はさまざまであろうが、神を信じたいと願うとき、人は何に苦しむであろうか。私も憎しみ、悲しみを抱きつつ神を求め、日々悔い改めの連続です。
 浜野清美も「二度とふたたび罪を犯さないなんてそんなことは誰にも出来ない。そんなの人じゃないよ、人間というものは言ってみれば存在そのものが罪なんです。いま、天使の心を持っていたとしても、一分後に、ふとよからぬ思いが胸をかすめる。そうしたどうしようもない存在だからこそ、キリストが私たちの罪を背負って死んでくださったのです」
 本当に私たちの罪の深さは、ちょっと良いことをしたぐらいで、帳消しされるような、そんな単純なものでないことを改めて知りました。
 また三浦さんは、エッセイ「藍色の便箋」の中で自分の若いころ、長期間の病気を罪と思い、疑ったことについて述べている。23歳の時から13年間、肺結核と脊髄カリエスで、その大半をギブスベッドの中で過ごし、来る日も、来る日も、人を煩わし、何一つ役に立たぬ人間であると。でも、こんなに金をかけ、人に迷惑をかけて生きてよいものかと。
 そんな時、或るキリスト者が「神はその人のある限り、この世に生かしておられる」と言って励ましてくれた。その言葉にどれほど慰められたかわかりません。寝たきりの人間にも、神が使命を与える。と知った時の喜び。嬉しさは今も忘れる事ができない。と書いている。この励ましの言葉が「氷点」を書く大きな原動力となったのではないでしょうか。

 三浦さんは結婚観について「式を挙げたからといっても、次の日から夫婦になるのではない。一生かかって夫婦に成るのです」といっています。
 私たちは5月に結婚50周年「金婚式」を迎えます。神様に生かされていることを、心より感謝申し上げます。私たち三浦さんのこの言葉を肝に銘じ、神様の祝福のもとに二人で歩んでいきたいと思います。
        
              一麦の群れ、基なる聖句
 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つに在らん
            もし死なば、多くの果を結ぶべし」
  文語訳 新約聖書 ヨハネ伝 12章24節
  インマヌエル・アーメン         2011.2.20

入院

              長谷川一子
 入院80日 苦しかったなぁ
 いつも一人で 淋しかったなぁ
 みんな見舞いに 来てくれたなぁ
 嬉しかったわ

 孫から聖書の話 きいてなぁ
 ショウタがヨブさんのこと
 話してくれてなぁ
 目からウロコが落ちたわ

たび

              長谷川一子

 若いころ 長い旅をしていると
 ホームシックになり
 家に帰りたくなることがある
 
 人生もこの世をたびしている
 ようなものだと
 私はこの世の旅に疲れ
 天の父のもとに帰りたいと
 ふと思うことがある

悲痛の祈り

               長谷川一子

 神さま、この愚か者を哀れんでください。
 天に帰れず、神さまのご計画でしょうか。
 今も生かされて、ならばもっと感謝を!
 わが父を見失うことも。
 毎日、気持ちの起伏激しく。
 人間とは厄介なもの。
 もっと強い魂、肉体をください。

 
 神さま、死んだ脳の細胞を生かしてください。
 この細胞が毎日、わたしを幽霊船に乗せ
 体をゆらし、食欲を奪い、苦しみを与える。
 もし、天国で神さまと共にいる自分を思うと
 平安を頂くでしょう。
 あなたは「弱い者よ、幸いなり」と仰います。
 インマヌエル・アーメン

苦悩

             長谷川一子

 この苦しみも我が身のうち。
 神さまから多くの恵みを頂いたのだから
 苦しみも感謝しよう。
 わたしは十字架でキリストと共に死に
 キリストと共によみがえる。
 希望をもってゆっくり
 天に向って歩こう。


 この気力、いつまで続くのか。
 苦しみが、ひととき解けるリハビリの時。
 笑顔で迎えられ、先生の魔法か。
 終わりは走り、心が晴れる。
 でも、シンデレラのように
 間もなく魔法が消え
 わたしはまた苦しみの中に戻る。

きっと神様のご計画 ―看病の記・・M・Hさまへの手紙―   長谷川 弘

 M・Hさま、ご夫婦のお心のこもった励ましのお言葉、私たち勇気づけられます。お祈り有り難うございます。先日Y先生が病院へお見舞いに来て下さり、力強いお言葉を頂き感謝でございます。
 
 思い起こせば、予想もしない突然の出来事でした。1月15日夕刻、妻はホノルルのショッピング・センターで突然ふらつき、その場に崩れました。目は空ろで意識は朦朧としているようでした。
 幸いにも近くに地元の日本人のご婦人がおられ、携帯で救急車を呼んでくださいました。すぐ、救急車が来て妻を乗せ病院へ。その間15分ぐらいでした。
 不意の出来事、わたしは車の中で呆然とし、頭の中は真っ白でした。しかし、「落ち着いて、神様が良い方向へ導いて下さる様に」と自然と祈っていました。
 着いた病院は幸運にもホノルルで有名な循環器科のストラブフ病院で、すぐ、CT,MRIなど検査がなされ、脳梗塞と診断されました。すぐ血栓溶解の点滴が行なわれ、ドクターから「この二日間で良くなるか、悪くなるかの山場ですよ。」と言われ、心は狼狽しました。

 夜遅くホテルの部屋に帰りました。いろいろ考えると眠られず、ふとテーブルの端を見ると聖書が置いてありました。聖書を開けるとはじめにみ言葉が載っていて、苦しい時、平安を願うみ言葉を読みました。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7) 
 読み終えると、気が楽になり、朝まで少し眠る事ができました。
 
 二日後、素早い処置と高度の医療の成果で、言語障害、手のしびれなどがなくなり、笑顔が少し出てきて安心しました。しかし、薬の副作用か、頭痛、むかつきなどで食欲が進まず、体力がつかず心配になってきました。
 わたしは妻に「日本まで遠く7000`、絶対に生きて帰り、早く良くなって二人で礼拝に出ようね。元気をだして!」と励ましました。
 18日日曜日、中野先生宅へ電話をすると、日本へ行かれお留守でしたが、ホノルルの教会の礼拝に行ってみようと、タクシーを呼び、9時20分の第2礼拝に出席しました。
 関牧師にお会いし、事情をお話し、お祈り頂くようお願いしました。教会員の中で橋本さんというドクターがおられ、病院に来て頂き、主治医にいろいろと聞いて頂きました。また奥様もご一緒にお祈りしてくださいました。その後、教会員の大勢の方々がお見舞いに来て下さり、祈って頂き、回復の力になりました。

 四日ごろからやや元気が出てきました。早くもリハビリです。歩行器にすがり、廊下を苦しみながら歩く姿はかわいそうでなりませんでした。ナースは「グッドグッド」と褒めていました。病室に毎日通っていて、片言の英語では通じず、互いにストレスが溜まってきました。
 21日長男の智史が救援者として来ることが認められ、朝ホノルル空港に到着しました。私は一人で背負っていた肩の重荷が下り、いっぺんに楽になりました。なんだかす〜うとした気分で、これは神様か聖霊のおかげだと感じました。感謝でございます。
 さあ!これから智史がドクター、ナースと話すとき通訳をやってくれると。急に元気が出てきました。ドクターから退院してもいいと許可が出ました。しかし、問題は日本の受け入れてくれる病院です。近くの病院名を挙げ、ハワイ・アシスタント社の堀先生から問い合わせてもらいました。
 しかし大阪医大、淀キリ、など数院から断られました。藁をもつかむ思いで、最後に問い合わせた高槻赤十字病院が受け入れてくださりほっとしました。
 
 25日退院時、病院からバイリンガルを話せるナースを日本まで同伴してもらう事になりました。病院のスタッフに見送られ、空港に着くと、気流が悪いので飛行機の整備に時間がかかり、15時間の長旅になりました。
 妻はこの長旅に食事もとれず、必死に耐えてくれました。22時30分赤十字病院の循環器科の檜原先生以下スタッフが待つICUに入りました。脈は乱れぐったりしていました。
 きのう(2月2日)循環器部長とお会いしました。リハビリをしっかりやったら1〜2週間で退院できるだろうと言われました。嬉しい限り、感謝でございます。
 
 知らぬ異国で、思わぬアクシデント、しかし家で一人で倒れ、救急処置が遅れ、病院にも断られていたら、こんな早い回復は出来なかったと思います。いや、生死にかかわっていたかも知れません。
 これは神様のご計画だったのでしょう。M・Hさまにぜひお伝えしたいと私の思いを綴りました。私が妻とともに苦しみを体験した12日間の看護手記です。長い雑文お許し下さい。有り難うございました。感謝致します。(2009年2月3日)

背中を押して頂き、受洗の喜び     長谷川 弘

 きょうは生島先生御夫妻はじめ、レインボーチャーチの皆様のおかげで、無事洗礼を受けることが出来ました。いま、クリスチャンになれたことに感謝でいっぱいでございます。ありがとうございました。

 私は若い頃からずっと無神論者でした。いま、クリスチャンになれたこと、71年の人生の中で私にとって、きょうはまさに「晴天のヘキレキ」と云うより、私の知らぬ間に神様が、徐々に導いて下さっていたような気がしてならないのです。
 いつも教会のドアを自由に開いて頂き、皆様から御指導を受けながら、少しずつ私の背中を押して頂いた結果だと思っています。

 次に海の向こうから押して頂いた方がおられます。その方は以前、この教会にこられた、ハワイホノルルキリスト教会の中野雄一郎先生です。
 今年1月、私は旅行でホノルルへ行きました。運よく先生とお会い出来、先生御夫妻と夕食を共にすることが出来ました。先生はお話の中で、「長谷川さん、教会のことを手伝ったり、孫さんを連れて日曜学校へ行っておられるのなら、迷うことなく一歩踏み出してはどうですか」と云われ、強く背中を押された気が致しました。

 さらに長い間少しずつ背中を押してくれたのは妻でした。30年も前から私の持病、糖尿病の食事の管理をしてくれています。いま、元気で受洗出来たこと、きょうから妻と同じ道を歩めるのが最上の喜びです。妻に感謝したいと思います。
 私の趣味の一つ俳句に、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」と云う句がありますが、私も草木の中へ分け入るごとく、聖書を勉強し、少しでもイエス様に近づきたいと願っています。
 今後とも皆様の御指導をお願いいたします。(2008年7月27日)   

主は生命を         堀江幸子


 私は京都に生まれました。母はクリスチャンでしたが未信者の父と結婚したので、十分な教会生活ができませんでした。しかし、幼い私の記憶には母が賛美歌を歌っている姿や、幼い私のために祈ってくれる母の姿が残っています。やがて私は主イエス・キリストにお会いして救われますが、母の祈りがあったからだと今になって思っております。

 ミッションスクールで、聖書について学びました。大人になってから、姉が京都一麦教会の信徒の方から、教会の集会に誘われるようになりました。それで、私は姉と一緒に昭和43年、京都一麦教会の特別伝道集会に出席しました。
 1回目はインドネシヤの宣教師の方で、2回目は、当時茨木福音キリスト教会の牧師をしておられた永井明先生の特別集会でした。メッセージのあと招きをされ、手を挙げて前に進み出て祈って頂き求道生活が始まりました。

 2年後に受洗の恵みにあずかり、主イエス・キリストを信じることによって平安が与えられました。結婚して茨木市に住んでからも、桂の第二教会に昭和56年10月まで行っておりました。
 礼拝生活を続けているうちに、主イエス・キリストの十字架の愛が深くわかるようになってきました。
 ある時、讃美歌を歌っていると胸に熱いものがこみ上げてきました。讃美歌332番に、「主はいのちをあたえませり」とあります。私の罪のために、主は十字架で生命を捨ててくださいました。私は何をしてこの主の愛にお報いしたらいいのかと思いました。

 その後、現在の高槻一麦教会に、末娘が10ヶ月の時に行き始め、子供達3人は教会学校にお世話になり、私はヘルパーをして教会学校のお手伝いをしていました。
 次女も中学2年生の時に受洗し、家族の中でクリスチャンがいるようになってとても嬉しく思いました。主人や他の子供達も必ず救って下さると信じて祈っていこうと思います。
 また、高槻の教会で、聖書を読んで教えられたところをノートに書き記すようになりました。少しでもみことばに親しみ、みことばを実践する者となりたいと願っています。
消極的であった私ですが、主の恵みによって積極的な者に変えられました。今では教会の聖歌隊の一員に加えられ、心より主イエス・キリスト様を賛美しています。


家庭集会に導かれて      田中 美つぎ
 私は三重県の自然豊かな山村に十人兄弟の九番目として生まれ、父は私が5才の時に病死しましたが、大勢の兄や姉たちがいましたので特に淋しい思いをすることもなく成長し、大阪に出て就職、結婚いたしました。
 まもなく妊娠しましたが二度続けて流産し、その後自律神経失調症になり、医者に通う暗い日々を過ごしておりました。  
 その後高槻市に引越ししましたが、偶然にも近くに高校の友人が住んでおり、彼女の近所で毎週開かれていたM家の家庭集会に誘われて、はじめて聖書に出合いました。
 大阪一麦の原村牧師が導いてくださいましたが、「初めに神が天と地を創造した」のみことばに、聖書の神は本当の神さまだと漠然と感じたことを覚えています。
 M姉の暖かな優しいお人柄にひかれて何度か集わせていただき、子供が与えられるように先生や集われた方々が祈ってくださり、間もなく無事に長女次いで次女が与えられたのですが、育児に追われ集会に行かなくなり聖書のことも忘れておりました。

 子供たちが小学5年生と2年生になった頃、何ともいえない不安感におそわれるようになり、心臓はドキドキ目の前が暗くなり、息苦しくて立っておれないようなことが突然起こるようになりました。
 そのような時、M姉が訪ねてこられ、「プレハブの教会が建ったので是非来ませんか。」とお誘いくださり、私はこの病は病院ではなく神様が治してくださると思い、早速毎週礼拝に出席するようになりました。
 原村先生が午前は大阪、午後は高槻の礼拝の御用をしてくださり、本当に大変だったことと思います。まもなく生島先生が神学校を卒業されて高槻の牧師として来て下さいました。            
 教会に通い始めて1ヶ月くらいで、それまで真の神様に背を向けて歩んでいた事を悔い改め、いやしぬしなるイエス様を信じ、1978年、39才の時受洗の恵みにあずかりました。
 礼拝説教や聖書を学ぶうちに、私の中にある自我や愛のない罪のために神の御子イエス様が、十字架で命を捨てて身代わりとなってくださったことがわかりました。
 主の平安が与えられ、気がついたら病もすっかり癒されておりました。娘たちも教会学校で養われ長女は高3、次女は中1でそれぞれ洗礼を受けました。
 生島先生はいつも毎日聖書を自分で読むことの大切さをご指導くださいました。29年間様々なことがありましたが、毎朝のディボーションの中で力と励ましと導きが与えられ、今日まで生かされてきたのは、ただ主の恵みとあわれみであったと感謝しております。
(2007年3月、創立30周年記念誌より転載)

すべての事を益として下さる主   林 三千枝

 私は17歳の時に母を失いました。
 クリスチャンの母は私の幼い日、私をよく教会や家庭集会に連れて行ってくれました。当時住んでいた辺りには田舎ゆえ幼稚園が無く、私は小学校へ上がる迄、信者さん達に愛され、又母の弾くオルガンで賛美歌を唱ったり母の祈りに耳を傾けて育っていきました。 小2になって大きな町に引っ越してから、日曜学校へ姉と通うようになったのですが、そのうち第二次世界大戦の戦局が激しくなり、やがて軍部の圧力によって教会は閉鎖されてしまいました。一方、女学校では月に2回、隊列を組んで戦争必勝祈願の神社参拝が行われていました。

 昭和20年の夏、日本が戦争に敗れた頃、母は癌に倒れ、2年後、帰らぬ人となりました。私は末っ子の甘えたで、何でも母に頼りっきり(母の指示は神様のみこころと思っていた)でしたから、悲しみとよりどころの無さで、私ほど不幸な者はいないと嘆き、一方、早く自立しなければと思う日々を送っておりました。
 程なく母への思慕から教会へ行くようになり、ぐんぐんと神の愛に引き込まれて、同じ17歳の終わり頃に受洗の恵みにあずかる事が出来ました。その時から、友達も驚く程に私は変えられていったようです。天国で亡き母に再会出来る希望と喜びを持ち、人の気づかない所で陰の奉仕もするようになったり、又、クリスチャンゆえにミッションスクールに奉職でき、そこで多くの信仰の養いを受ける事が出来ました。

 結婚後、又悲しい事が起こりました。与えられた長男が程なく召され、先の母召天の折りの悲しみにも増しての深い痛みは、何年経っても癒されませんでした。しかし今、私は「神が総ての事を働かせて益として下さる事を私たちは知っています。」(聖書ローマ8:28) というみことばをアーメンと受け取っています。
 幼稚園へ行けなかったけれど、その間、信仰を育ててもらったし、短い母との時間を濃いものにしてもらえたし、又、母の召天という悲しい現実に私は自立する事が出来、教会へ導かれ真の幸せを戴いた事を心から感謝しています。又、息子の死によって、私と同じ悲しみの中におられる方々をお慰めさせて頂けたし、特に私達の牧師先生が、丁度、亡き長男と同学年でいらっしゃることから、私の息子も先生の様に立派になっていたかなと、慰めを受け感謝しています。
 これらの事を通して、神のなさる事は何一つ無駄がなく最善であり、総てを益として下さる事を覚え、心から主を賛美しています。


父の条件      吉岡鋭明
 私が生まれて初めて、父親になるとわかった時、何ともいえない不安がやってきた。
 生まれてくる子供に対して責任のとれる父親に、自分は果たしてなれるのだろうか。
 よい父親とは? その条件は?

父の叱責

 私の郷里は埼玉県所沢で、父は病弱―特にぜんそくがひどかった―そのため定職はなく、母が幼稚園をしていた。私は子供のころ、大変な悪ガキであった。
 高校2年のころの出来事。
「おまえは、まだそんな意地悪をしているのか。もう学校なんかやめてしまえ!」
「ぼくは、お父さんのお金で学校へ行っているんじゃないよ!」
 いつも弟たちをいじめたりして、その度に父に叱られていた私は、ついに心の中にたまっていた思いを、言葉に出してしまった。怒りに身を震わせながら、父はそばにあった物差しを手に追ってきた。
 その父は昭和28年、肺結核で入院、四年後、私が大学を卒業し、就職した年の冬、58歳で生涯を閉じた。
 昭和32年春、私は信越化学工業(株)に入社。友人が就職祝いに何かプレゼントしようと言ったので、とっさに「では聖書を」と答えた。世界のベストセラーだから、一冊は持っていたほうがよかろうと思った。新潟県直江津工場に赴任し、歌の好きな同僚と、いつの間にか、酒を飲んでは讃美歌の合唱をして、ハーモニーを楽しんでいた。

よい父親とは?

 昭和36年11月、文化の日に結婚。翌37年の秋ごろから、私は真剣に神を求めるようになった。私が生まれて初めて、父親になるとわかったのがきっかけである。
 それは何とも言えぬ不安であった。生まれてくる子に対して、責任のとれる父親に、自分は果たしてなれるのだろうか? よい父親とは? その条件は?
 経済的にも将来は保証されていたし、父親の教養という点でも、自ら誇る気持ちを持っていた。品行もまずまず。職場でも評判は良かったが、にもかかわらず、不安だった。

 私と入社同期の親しい仲間に一人のクリスチャンがいた。
 私は彼に自分の悩みを打ち明けたりするうち、一度教会に来てみないかと言われ、37年11月8日、初めて教会へ連れていってもらった。
 その日、牧師は言われた。
「あなたにとって、今一番大切なことは、人からどう思われるか、自分で自分をどう思うかではなく、神にどう見られているかを知ることです。『人はうわべを見るが、主は心を見る』
(Tサムエル記16:7)」と―。

取り返しのつかぬ事

 続けて教会に出席するうち、私の心の中の汚れが見えてきた。ひとりの洞察力のある同僚は私に、「あんパン」というニックネームをつけた。腹黒いというわけ。そのとおりにちがいない。
 人を憎んだり、情欲をいだいて女性を見たり、、まことにイエス・キリストの言われたような罪人であった。

 話は少し戻って11月11日(日)、家にいて家内と話をしていた時、全く突然に12年前の、あの記憶がよみがえってきた。
 父をのろったことばだ。
「ぼくは、お父さんのお金で学校へ行っているんじゃないよ」―そしてすぐに聖書のことばがひらめく。
「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト記21:17)
 罪の意識がこの時、私の上に重くのしかかり、それに圧倒されて、私は思わず家内のひざに顔をうずめて激しく泣きだした。一時間以上もそうしていただろうか。
 もし父が生きていれば、
「お父さん、赦してください」と、私は父の前に手をついてあやまっただろう。けれども、父はすでに亡き人であった。
「ああ、私は取り返しのつかないことをしてしまった。私の罪はどうしたら赦されるのか?」と、自分の心に問うた。
 その瞬間、
「罪のない神の 御子イエス・キリストが十字架の上で血を流し、いのちをお捨てになった。これが私のためでなかったら、私の罪は決して赦されることはない。しかし、事実、御子イエスの血は私のためのものだ」とはっきりわかった。

雪のように白く

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Tヨハネ1:9)と信じ、心は神の与えてくださる平安で満たされた。
「私には魂の救いが必要だったのだ。自分に欠けていたのはこれだ。父親として、いや人間として、これがなければ何もない。」
 昭和38年3月、家内とともに地元の群馬県原市の教会で洗礼を受けた。洗礼式の当日、関東には珍しく雪が降り、
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ書1:18)との聖句が心に響いた。
 あとで家内に聞けば、母親となるに当たって、私と同じようなことを感じていたと言う。こうして、私たち夫婦に心の準備ができて約一ヶ月後、長女が誕生した。(以下省略)

(よろこびの泉 第351号 1989.10.1 より転載。 一部分、表現を変えてあります)

イエス様を信じ、依存症から解放されて     喜多延子

 私は1935年(昭和10年)大阪天満で生を受けました。父は手広く商売をしていました。子どもが多かった生家には当時5人のお手伝いさんがおり、豊かな生活でした。小・中・高そして大学を卒業後、いろいろな習い事をさせてもらい、昭和37年父が望んだ人と結婚、長身で心も広く笑顔の優しい人でした。新築の家での二人だけの生活が始まりました。何もする事がない生活。そこで、私が求めたのがアルコールでした。
 新婚生活わずか三ヶ月しか経っていなかったのに完全にアルコール依存症となり、朝から酒に溺れる泥沼の様な生活でした。母は待っていた私の花嫁姿を見て安心したのか54歳の若さで他界してしまいました。そして結婚後三年、皆が待ち望んでいた子供にも恵まれましたが、悲しい事に私は我が子よりも酒を愛したのです。主人が言いました。「なんで朝から酒飲むねん、今の生活に何の不足があるねん?」

 父は主人に申し訳なく宗教に救いを求めたのでした。創価学会、そして天理教に私を送ったのです。その時に使った金額は当時で小さなビルが建つ程だったようです。でも、すべて無駄でした。子供の為にと主人は子守さんを雇いました。これを怒った父は私たちを別れさせたのです。娘が四歳の時でした。今も思い出します。二歳の幼児がたどたどしい言葉で言ったのです。「チャアチャン、オチャケ止めんとパパ泣くで」と・・・。
 その後、酒気帯び運転で大怪我をして入院しました。それからは精神病院を転々とし、遂には手首を切って自殺未遂。そして、高槻での生活が始まりました。私の事を心配しながら父は六年前に老衰で他界してしまい、それ以来たった一人の淋しい毎日でした。そんな時に声をかけてきたのがエホバの証人の二人でした。淋しかった私は言われるままに入信したのですが、輸血、選挙、誕生日のお祝い、すべて駄目、クリスマスなんてとんでもないと、余りに制約が多く後悔し、多くの人から「困った宗教に入ったなあ」と言われたのですが、止めるきっかけもなく、悩んでいました。

 ちょうどその時、来ていただいたホームヘルパーでクリスチャンのTさんに導かれました。妹二人がミッション系の大学でイエス様の事は聞かされていましたので、素直に教会に行けたのです。高槻一麦教会でした。 エホバではバプテスマを受ける気の全くない私は「・・姉妹」ではなく「・・さん」と言われ軽視されていたのです。しかし、教会は初めての私を本当に暖かく受け入れて下さいました。来てよかったと心より思い、その後自分が罪人である事が解り、イエス様が私の罪の身代わりに十字架で死んで下さったことを信じました。

 1998年7月に喜んで受洗をさせていただきました。礼拝と家庭集会は第一にしているつもりですが、受洗後四年余ともなるのに霊的には未だ貧しい私だと思います。しかし、依存症が治っていたのです。妹から後に聞いたのですが彼女が胆石で入院した時、父が悲しそうに言ったそうです。「お前の様に手術して治るんやったら、ワシはなんぼでも金は出す。あいつの頭も手術できたらなあ」とお金の事しか頭になかった父が今の私を見たら言ったでしょう。「イエスはんてすごい神さんやねんなあ!あいつ治してくれはったがなあ!」と。
 今は迷惑をかけた主人と娘の健康と幸せを主にお祈りしています。今は多くの人々に恵まれ、重度の身体障害ですが、豊かな気持ちで生きております。ハレルヤ!ハレルヤ!と主を讃美しながら。
 「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)
 
 (活けるキリスト一麦 第583号 2002.11.10 より転載)
 

生きることはキリスト     生島幹也

<生かされていることの発見>

「キリストによって生かされているんですよ」ひとりのクリスチャンの方がこう言われました。私は驚きました。
 自分の力で生きていると思っていた私は、この方のキリストによって生かされているという言葉に、驚きました。
 それは、1972年の8月、私が大学一回生の時でした。
 大学に入ると、まもなく「国立療養所光明園のワーク・キャンプ」という案内を見つけました。法律の勉強をするために意気込んで毎日を過ごしていましたが、何かもの足りないものを感じていました。夏休みに、人のために汗を流せば、何か得られるのではないかと思い、そのキャンプに参加しました。参加者の中に、クリスチャンの方がいて、朝に夕に、祈りを捧げておりました。
 園内の道路補修の手伝いも終わり、ひと息ついたとき、ひとりのクリスチャンの患者さんと話す機会が与えられたのです。その方が、ニコニコしながら、私に、「キリストによって生かされているんですよ」と、言われたのです。

<友なるイエス>

 その方は、佐賀県の出身で、18歳の時に、ハンセン氏病と診断されました。悲しみの生活が続きました。友人の紹介で、療養所内の教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れられたのです。そして、療養所内で、同じクリスチャンの方と結婚され、神を賛美し、聖書を日々に学ぶ生活が始まったのです。
 その方が私を見て、「学生さん、私はイエスさまを信じて幸福です。でも、あなたのような若い時に信じていたなら、どんなに良かったろうかと思います。是非教会に行って下さい」と、強く勧められたのです。私は、思わず「はい」と答えてました。
 私はイエス・キリストというお方が、遠い存在のように思っていましたが、この方の体験を聞き、非常に身近に感じました。人に捨てられ、弱り、苦しんでいたこの患者さんを、こんなにも希望に満ちた生活が送れるように変えてくださるイエス・キリスト、私は、このイエス・キリストをもっと知りたいと思いました。

<教会までの道>

 私は、教会の幼稚園に行っておりました。それで、日曜日には教会学校に出席していました。小学校に入ってからは、もう教会へは行かなくなりました。
 高校生の頃、聖書を買って読みましたが、もう一つ、心を動かされるものがありませんでした。
 高校を卒業する頃から身体の具合が悪くなり、一時期、病院に通っておりました。その頃、好きだった小説「草の花」の主人公のように、誰にも理解されず誰をも理解出来ずに死んでいくことに自分の人生を重ねて、寂しい気持ちで一杯でした。
 この小説の表紙の裏に、「人はみな草のごとく、その栄光はみな草の花のごとし」とありました。これが聖書の言葉だと知り、聖書をもう一度読んでみようという気持ちになりました。しかし、教会に行こうとは思いませんでした。教会という制度に縛られるような気がして、窮屈に思えたのです。
 そんなふうに悩んでいる頃、小島さんという、クリスチャンの患者さんに教会に行くように強く勧められたのです。岡山でのワーク・キャンプのあと、大阪に戻って、教会に出席するようになりました。
 後で知ったことですが、岡山の療養所で、小島さんは、「あの大学生の人が教会に行って、救われますように」と祈り続けてくれていたのです。

<十字架の救い>

 教会に行くようになって、自分の罪ということが分かってきました。確かに、外側は真面目そうに見えるが、内側は、憎しみ、汚れ、怒りで一杯でした。
 人との比較ではなく、聖書の神の基準で、私が測られたなら、まったくの失格者でした。もし、今日死ぬなら、地獄だと思いました。そのとき、イエス・キリストの十字架が、私の罪のためであったことが分かりました。キリストが人間の罪のために死なれたということは、聖書を通して、また、教会の説教で聞いて知っていました。知ってはいましたが、「私のため」ということが分かりませんでした。
 しかし、その日、私のためであることが分かったのです。罪を悔い改め、主、イエス・キリストを信じ、その年の10月1日に、大阪一麦教会で洗礼を受けました。
 また、教会は冷たい制度で自分を縛るのではないかという誤解もとけていきました。原村牧師をはじめ、教会の方々が温かく迎えて下さり、神様を中心とする交わりに加えていただきました。
 キリストを信じ、自分が生かされていることを知りました。罪赦され、永遠のいのちの希望を神の言葉によっていただきました。
 生かされている喜びを伝えてくれた患者さんと共に、私は喜んで次のように告白出来るのです。
「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ人への手紙1:21)

   ( グッド・ニュース 114号 1983.7.1 より転載)

 主を信じて          小野山文英

 僕は学生の頃、「バイクに乗るんやったら教会に行きなさい。」という母親に連れられて、何度か一麦西宮教会にお世話になっていました。その教会の雰囲気・教会の人達を見ていると、そこは何か特別な場所なんだなと感じていました。牧師のお話にも当然「そうか、なるほど。」と思う事が多くありました。教会の人達の顔がすごく晴々としていて目が輝いているのに驚きました。自分もそうありたいという気持ちはありましたが、洗礼には至りませんでした。

 学校を卒業してバイク店に勤めるようになりました。バイク店での仕事は、職人の世界で上下関係が厳しく、工場長は特にそういうタイプの人です。自称「古い人間」と言っています。それで人間関係で非常に苦しみました。そういう環境の下で7年働き、毎日心の中でつぶやいていました。直接面と向かって批判はしないまでも、工場長を無視したり、それとなく反抗的な態度で応戦していました。

 洗礼を受けようというきっかけは、嫁さんが昨年の12月に、「一人で洗礼を受けてもしようがない。」と言うので、嫁さん思いの僕は「じゃあ、俺も受けようか。」と二つ返事で承知したわけです。
 そして生島先生に聖書を教えていただき、「そうか、今までの俺の考え方は間違ってたんだ。」と気づきました。それまで、人を勝手に自分の中で裁いたりしていましたが、『隣人を愛しなさい』『あなたの敵を赦しなさい』という御言葉にふれ、心にわずかながらの平安を感じるようになりました。そして自分の罪がわかり、キリスト・イエスがこの自分のために死なれたことを信じました。

 会社では、毎年冬に名古屋で2、3日の研修があります。研修の中で色々なテストを行います。知識を試される筆記テスト、接客での模擬テスト、整備の確実性と速さを競うタイムトライアルという実技テストがあります。そのテストで良くなければ、店でいくら頑張っていても評価されません。
 今回は2月末に行われたのですが、僕は神の御業を身をもって体験しました。今回のタイムトライアルと呼ばれる実技テストのお題が、外車エンジン分解・組立で、今まで僕のやった事のない作業内容でした。それを、限られた時間内で正確に完成させなくてはいけません。自分自身、絶対無理と思い、店のメンバーからも「そりゃ無理だろ」と言われていました。僕は祈りました。当然それなりの下準備もしていましたが、祈りました。
 当日、異常なプレッシャーの中で行われたタイムトライアル、胃が痛くなりながらも、全体の真ん中から上で完成させることができました。これは、自分の実力では、まず出来ない事なので、神の御業という他はないです。

 今年(2005年)3月27日のイースターに、夫婦で洗礼を受けました。クリスチャンの母が九州から来てくれました。母をはじめ兄や多くの方々の祈りがありました。それから聖書を通読するようになって、ローマ13章の「上の権威に従うように」とのみことばによって、上司(工場長)にあやまりました。これからもみことばを学び、主の導きを得られるよう祈っていきたいです。


 夫婦で主を信じて      小野山きみよ

 私は3年前にひとり目の子供を出産しました。高槻へは5年前に結婚を機に住むようになりましたが、当時はご近所に知り合いがひとりもいませんでした。初めての子育てに不安な上、身近に相談する相手もなく孤独な日々を過ごしていました。
 そんな時、自宅のポストに、御言葉を書いた小さなメモを入れてくださる人が現れました。私は初めて見ることばに、少しずつ引き寄せられていきました。そのうち、そのメモの方と、インターホン口でお話するようになり、その方の誠実な感じと、御言葉を語る熱意に押されるように、聖書の学びを始めることになりました。
 でもその方はエホバの証人の方でした。当時はエホバの証人という組織をよく知らなかったので、2年近く毎週自宅へ来て頂き、育児や結婚生活におけるアドバイスを受けていました。正直、育児の孤独な時間を埋めたいという気持ちもあったと思います。
 ある時、クリスチャンである主人の母や主人の兄から、エホバの教えは異端なので早めに止めた方が良いと言われました。しかし、どうしても悪い教えとは思えませんでしたし、来て下さっている方が誠意を尽くして下さるので、そのまま続けておりました。

 昨年の4月に二人目を出産し、献児式を高槻一麦教会でして頂きました。一人目は西宮の教会で受けたのですが高槻も長くなりましたし、何かの折りに今後お世話になるのは高槻の教会になるかもしれないと、軽い気持ちで受けさせて頂きました。
 しかし、実際はそれがご縁で、その年の夏から、牧師夫人のご紹介によってI姉に自宅に来て頂き聖書の学びを始める事になりました。そして、4、5ヶ月後くらいにはイエス様の存在を信じるまでになっていました。永遠の命、信仰が、生きていく上でいかに重要であるのかに気付かされました。そして、主イエス・キリストさまを私の心に救い主として受け入れました。
 聖書を学んでいく中で、イエスさまがまことの神であり、まことの人であることがわかりました。そして、私の罪のために十字架にかかり死んでくださったのです。それからはエホバの証人の方との学びはどこが違うのかが明確になり、きっぱり断る理由が見つかりました。ただ、エホバの方には子育て中の一番辛いときにお世話になっておりましたし、御言葉を初めに伝えてくださった方でもありましたので、とても心苦しかったです。しかし、勇気を出してお断りし、やっと心からの平安を感じる事ができたのです。

 今では主人と共に祈り、聖書を学ぶ喜びを与えられ、本当に感謝しています。そして、私たちが導かれるまで多くの方が祈って下さっていたのを後でお伺いし、感謝の気持ちでいっぱいになりました。私達は守られているのだと実感した瞬間でもありました。
 今のこの気持ちを忘れず、少しずつでも、身近な人からイエスさまを証していきたいと思います。特に同じように子育てに悩んでいる人達に強く働きかけていきたいです。
 まずは祈る事から。「父なる神さま、一歩ずつ光の中を歩んでいけますように。今迷っている人々に救いの手を伸ばしてください。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。」