生をつぐこと

『世界思想:特集<生と永遠>』(2003年春、 30号)

原 田 達



 鶴見俊輔の人的ネットワークをたどっていると、たくさんの興味ぶかい人物に出会う。社会科学で出会う人物の「生」はいつも時代と社会の限界のなかにあるから、そこに「永遠」という哲学的テーマを発見することはむつかしいけれど、時代と社会のなかにあるからこそ、かえってつがれていく生というものもある。興味ぶかく思う人物のひとりに、東郷(本城)文彦がいる。かれの義父は東郷茂徳、息子は東郷和彦。この親子三代はともに外交官だった。

 鶴見はハーバード大学で、外務省から派遣された留学生本城文彦に出会う。やがてかれらは下宿をともにし、ボストンの日本人学生会では本城が会長、鶴見が書記をつとめる間柄になる。しかし、かれらの留学生活は日米開戦でおわった。ともに昭和十七年に帰国するのだが、本城が東郷茂徳とはじめて出会うのは、八月二十二日、当時外相だった東郷茂徳が帰国邦人をねぎらうために外相官邸で催したパーティの席上だった。
 およそ官僚組織においては、上司は愛する娘を優秀な部下に嫁がせようとするものであり、この伝統は武家社会から変わらない。東郷茂徳にはドイツ人の夫人エディとの間に生まれた一人娘いせがいたが、どうやら本城は東郷の目にかなう部下であったらしい。こうして昭和十八年、本城文彦は東郷文彦となった。

 しかし、太平洋戦争の開戦時、さらに終戦時にも外相をつとめた東郷茂徳と女婿文彦との間にはもともと奇妙な因縁があった。東郷茂徳の幼いときの姓は、朴という。これは茂徳が、秀吉の朝鮮出兵の際、島津義弘が朝鮮から虜囚として連れかえった(いわば拉致された)人びとの末裔にあたるからである。茂徳の出身地鹿児島県苗代川は、明治の中頃になっても朝鮮の文化と伝統をまもる陶工たちの村だった。他方、文彦の母方(本城家)の祖先は鳥取池田藩の御殿医や家老職につながる家系で、その中には加藤清正旗下の武将として慶長の役に参加した者がいる。四百年の時をへて、侵略者と被侵略者の子孫がこうして交錯することになった(萩原延壽『東郷茂徳:伝説と解説』、原書房、また東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』、文芸春秋)。

 もちろんこれは、いわば因縁話に属するエピソードにすぎない。茂徳と文彦をむすぶものは、なによりも外交官としての仕事である。二十世紀中盤の日本外交史において、この親子ほど困難な情況のなかで仕事をした外交官はなかったかもしれない。
 東郷茂徳が軍部の圧力に抗しながら太平洋戦争を終戦にみちびいた様子は、かれの『時代の一面』(原書房)にくわしい。広島・長崎への原爆投下、あくまで戦争継続をとなえる軍部強硬派、そしてクーデターの動き・・・・、茂徳には暗殺の危険がせまっていた。このとき文彦は外相秘書官として義父をまもるために奔走する。他方、文彦はその十数年後、アメリカ局安全保障課長として日米安保条約改定にかかわり、さらに十年後、北米局長として沖縄返還交渉にかかわることになる(東郷文彦『日米外交三十年』、中公文庫)。これらの交渉を実質的に積み上げていたのは文彦だった。しかしこの外交戦略は六十年安保闘争という戦後最大の社会運動と出会うことになり、この流れはその後のベトナム戦争反対運動、沖縄返還闘争へとうけつがれる。したがって、この親子が外交官として直面し、ともに苦悩したのは、対外交渉というよりもむしろ対内交渉の方だった。

 考えてみれば、外交官の仕事とは、ふたつの矛盾する交渉をやり遂げなければならない仕事である。まず「国益」を第一に考えて外交交渉にのぞむ。しかし、交渉相手もまた「国益」を第一に考えているのだから、合意に達しようとすればどこかに妥協点を見いださなければならない。とはいえ、この妥協点は当初の「国益」からみればかならず譲歩をふくむものであり、したがって外交官は対外交渉の合意点を発見したとたん、この譲歩を国民に納得させるという、新たな交渉をはじめなければならない。この国内交渉は政府内での合意形成、有力政治家との折衝、議会対策から世論形成までさまざまなレベルにおよぶわけだが、しかしこの交渉がどれほど難しいものであるか、それは日露戦争後の日比谷焼き討ち事件以来、さまざまな歴史的事件がしめしているとおりである。「国益」が重大なものであればあるほど、また人びとの関心が高い外交交渉であればあるほど、外交官の仕事にはいつも「軟弱」「追従」「弱腰」という批判がつきまとってきた。まさに、「軟論を主張することこそ難しい」(伊藤博文)。
 しかし、これらの批判に耐えなければ外交官の仕事はつとまらない。茂徳とともに、第二次大戦中の日本外交をになった有田八郎(広田、近衛、平沼、米内各内閣の外相)は、当時聯合通信上海支局長だった松本重治にこう語ったという。

 「外交官というものは自国の大衆を喜ばせ賞賛を得ようなどと考えることは、絶対に禁物である。まあ縁の下の力持と覚悟しておればよい。外交官が自国から賞賛を博すようでは、その交渉の結果に対して、相手国の国民に不満を抱かせることになり、相手方が不満を抱けば、折角の交渉の結果はうまく実行され難い。それでは外交はうまく行かない。だから外交官はかえって自国民から非難され、非難されつつ自己の使命を果たさねばならない割の悪い役を引き受けているのだ。」(松本重治『上海時代』、中央公論)
とすれば、文彦が茂徳からついだものは、この「非難されつつ使命を果たす」という「割の悪い役」だったと言えるかもしれない。

 ただ、この「割の悪い役」は時として外交官の生命をうしなわせることにもなる。文彦の息子和彦の場合がそれにあたる。東郷和彦は文彦・いせの双子の次男として昭和二十年に生まれた。東京大学から外務省にはいり、欧亜局ソ連課長、駐ロシア日本大使館公使などを歴任し、一貫してソ連(ロシア)担当の外交官としてキャリアをつんだ。一九九九年には欧亜局長(省庁再編により欧州局長)となり、かれの将来は明るいように見えた。その和彦の躓きの石は、鈴木宗男という政治家との癒着だった。「二島先行返還論」を押し進めようと考えた和彦は、政治家対策・議会対策として「実力者」鈴木に接近する。その経緯については、すでに報道等で明らかになったとおりである。二〇〇二年二月、和彦は赴任わずか八ヶ月でオランダ大使を更迭された。
 この和彦の事件が示すとおり、外交官の仕事はたえず時の政権と不離の関係にあり、したがって政治的視点に立てば、かれらの仕事への評価はさまざまなものが可能になる。じじつ、六〇年代に政治に目覚めた世代にとっては、文彦の対米外交戦略には疑問を感じる点もおおいだろう。しかし、外と内に正反対の交渉相手をもちながら仕事をしなければならない外交官の職業的苦労という点は理解できる。茂徳−文彦−和彦という東郷家三代の歴史が、この困難な生をついで生きた、ということも理解できる。

 ただ、それにしても興味ぶかく思われるのは、外交官という能力主義の職場でこのような血族関係が連続するという事実である。文彦は養子だったからともかくとして、三代も外交官がつづくという事実にはおどろく。しかし、じつはこの国の外交官にはこのような例はきわめておおい。いくつか例をあげてみれば、文彦が生涯もっとも親しくなった外交官有田圭輔は、先にふれた外相有田八郎の息子であるし、文彦と同期に外務省に入省した重光晶は、茂徳の好敵手といわれた外相重光葵の甥である。このような例はいくらでもある。よく知られているところでは、皇太子妃もまた二代目外交官であった。その上、かれらの人間関係は錯綜しており、紙幅の関係からひとつだけ例をあげると、後藤新平の秘書官をつとめた小森雄介は茂徳の親しい郷党であり、したがってその娘澄子はもともと茂徳の娘(文彦の妻)いせの幼友達であったのだが、重光晶夫人となるのがこの小森澄子なのである。

 このようなことが起こるのは、おそらく外交官が生きている世界が特殊な社会空間だからだろう。世界を飛びまわるかれらは、一方で異なる文化と社交関係に開かれながら、他方で自国の社交関係については閉じられた世界を生きざるをえない。東郷いせの伝記(『色無花火』、六興出版)を読むと、そのことがよく伝わってくる。彼女はドイツ語と英語は自由に使いこなしたが、日本語には苦労した。だから、幼友達(駐米大使松平恒雄の次男二郎など)との会話も英語をつかった。しかし逆にこのことが、わずか十四歳のいせが外国の社交界にデビューすることを可能にしたし、また茂徳がいせを小さな外交情報の蒐集につかうことさえ可能にした。
 このような環境で育った外交官の子どもたちは、当然のことながら特殊なハビトゥスを身につけて成長するのだろう。そのハビトゥスはかれらが外交官を志すときには、きわめて有利に働くにちがいない。能力主義の外交官の世界に血族関係がつよく存在している理由のひとつは、おそらくここにある。そしてこのことは、この国の社会のなかに、ぽっかりと遊離して浮かぶ島のような外交官の社会空間が存在していることをしめしてもいる。茂徳−文彦−和彦三代の外交官は、この島のような社会空間のなかで特殊な生をついで生きた人たちだった。その継承作業は「永遠」につながるわけではないけれども、この国の近代化百年のなかで数おおく再生産された「生」のひとつであったことは間違いない。

|Home|